第181話 第七章「後ろへ落ちる」前編
ザンバは古い巡礼路で見た小型個体を思い出す。先頭札が一つの日は眠り、複数の道へ役目が分かれると、八つほどの小さな足へ分かれた。ただし、それぞれが自分の番を少しでも長くしようとする。消せば終わる獣ではない。制度の濃さで姿を変える生き物だった。
「倒しても、先頭を一つへ戻せばまた育つ」
カナタは白旗の《先》を見た。怪物の外にいるつもりだった自分の力にも、同じ匂いがある。
独歩獣が一歩を踏んだ。
どおおん――。
二番雲の歩脚から、足跡の紋が剥がれる。
三番。
八番雲まで。
七雲の脚が透けた。
星根へ触れられない。
『歩けない!』
『先歩を解け!』
ルゥが叫ぶ。
カイラは紺旗を引く。
抜けない。
旗竿から白い雲糸が伸び、独歩獣の背へ根を張っている。
『私の術を……!』
「みんなが、先頭へ任せすぎた」
ザンバが言う。
「標術は持ち主だけでは歪まん」
レンの声が響路へ入る。
『歩頭長が支える!』
別の航路士。
『一番雲へ重さを!』
五番雲の人々。
『先頭がいる!』
怖さが、同じ言葉へ集まる。
独歩獣の目がカナタへ向いた。
未踏路。
誰より先へ足場を置く力。
白い口が笑ったように開く。
カナタの旗へ、大きな《先》の字が浮かびかけた。
「俺を先頭にする気か!」
「相性がよすぎる!」
ルゥが銀鋲を白旗へ打つ。
「《継ぎ路》! 旗とカナタを固定!」
銀糸が腕へ巻く。
それでも白旗は獣へ引かれる。
「放せ!」
「放したら旗を食われる!」
「道を出す!」
「もっと食われる!」
独歩獣が二歩目を踏む。
一番雲が、その背中へ沈んだ。
町と塔が獣の頭になる。
残り七雲は長い胴へ並び、光索でつながれた。
歩雲群そのものが、一頭の獣へ変わっていく。
「現在路を切らない!」
ナギは八つの鈴を甲板へ釘づけにする。
「一番雲!」
返事。
『先頭』
「名前!」
『先頭』
「カイラ!」
一瞬だけ。
『……カイラ』
「二番雲!」
『二番』
「スイ!」
『スイ』
一つずつ名前を戻す。
独歩獣の背に、細い亀裂。
しかし白い尾が、響路台へ叩きつけられた。
八つの鈴が空へ飛ぶ。
ナギは一つを掴む。
残り七つは獣の背へ散った。
「ナギ!」
「音路は残ってる!」
細い線を両腕へ巻く。
引かれる。
ザンバが腰を掴む。
「手を離せ」
「離したら、みんな同じ音になる!」
「お前まで落ちる」
「返事を持つ!」
独歩獣が三歩目を踏む。
古い東の残照へ。
北の新根から、遠ざかる。
独歩獣は、歩雲群を着ていた。
一番雲が頭。
二番雲から八番雲までが、長い背中。
町も。
畑も。
水塔も。
すべて白い雲糸で縫いつけられ、一本の巨大な脚に引かれている。
獣は三歩ごとに前脚を舐めた。舌は一本の線の形で、重なった足跡の匂いを古い順に削り取る。背中の七つの町は獲物というより、巣を前へ運ぶ荷だった。
尾の先には七つの小石。八つ目を拾うと、前脚の爪で必ず砕く。その反復だけは、人々が命令を止めても続いた。標力へ生態が結びついているのであって、人間の言葉を理解し、思想へ賛成しているのではない。
だから「先頭へ従え」という声も、獣自身の主張ではなかった。腹へ飲まれた千の命令が、喉を通るたび同じ形で漏れているだけだった。
どおん――。
獣が踏む。
八つの町が同時に沈む。
古い星根の残照は、あと二十歩で終わる。
その先には、重さのない暗い空しかない。
「八番雲の一歩!」
メグは薄青い旗を振った。
空白に、小さな足跡が生まれかける。
独歩獣の尾が振られた。
足跡を飲み込む。
薄青い旗の七つの跡が、一つへ重なった。
「出ない……!」
『後ろへ下がれ!』
カイラが叫ぶ。
『今の先頭は私だ!』
「だから壊れてる!」
メグは一番雲へ跳ぼうとする。
足場がない。
カナタは白旗を振った。
「メグの前!」
一歩分の光板が生まれる。
すぐ独歩獣の頭へ曲がった。
「俺の道まで、先頭へ!」
「《岐点》!」
ザンバの黒い点が、曲がる光板へ入る。
道が二つに分かれた。
一つは一番雲。
一つは北。
「選べ!」
カナタは北を見る。
メグの地図。
新しい星根。
次の瞬間、独歩獣が口を二つに裂いた。
両方の道へ噛みつく。
「どっちも先頭にするのか!」
「すべての前を、自分の一歩にする獣だ」
ザンバの灰旗が軋む。
黒い点ごと、二本の道が呑まれた。
「なら、もっとでかい道を!」
カナタが白旗を両手で持つ。
「八雲全部の前!」
「やめて!」
ルゥが腕を掴む。
「俺が支える!」
「それが餌!」
「今、ほかに――」
「私がいる!」
メグが叫んだ。
「私たちがいる!」
八番雲の人々も旗を上げる。
雲底師。
拾い手。
橋直し。
後ろから七雲を見てきた者たち。
六番雲では、トウカが現在鐘を鳴らす。
五回。
『六番雲、今、ここ!』
二番雲。
『スイ、貯雨塔!』
三番。
『フウカ、北風区!』
違う声が戻ろうとする。
独歩獣の白い線が町へ走る。
旗の紋章が、一つの足跡へ変わっていく。
「先頭へ従え」
「前だけ見ろ」
「落ちたくなければ、同じ場所を踏め」
人々の口から、同じ言葉が漏れる。
カナタの胸にも響いた。
俺が作ればいい。
俺が先へ行けばいい。
みんなは後ろから来ればいい。
声はカナタの内側に昔からあった。獣が新しく植えつけたのではない。困っている人を見つけると、相手が自分で踏みたい一歩まで先回りする。成功したことも多いから、欠点だと気づきにくい。
右膝が一歩先へ出かけ、痛みで止まった。白旗の中央ではなく端をつまむ。後悔しているときだけ出る持ち方だ。
「俺が行けば、間に合う」
声は普段より低い。ルゥは工具箱を投げる前に、その低さで恐怖を聞いた。
白旗の中央へ、《先》の字が半分まで入る。
「カナタ!」
ルゥの工具箱が頬へ飛んだ。
「いってえ!」
手から旗がずれる。
独歩獣の尾が第一歩号へ叩きつけられた。
船体が回る。
終路鐘が鳴る。
から……。
誰も着きたい場所を選べない。
一音で止まる。
甲板が割れた。
カナタ。
ルゥ。
メグの足元が崩れる。
三人は八番雲の雲底へ落ちた。
「カナタ!」
ナギが響路台から手を伸ばす。
届かない。
ザンバが灰旗を伸ばす。
代わりに黒い点を、三人の落下路へ置いた。
「《岐点》!」
落ちる道が二つに分かれる。
一つは根抜け野。
一つは、古い足跡層。
カナタはメグとルゥを抱え、後者へ体を向けた。
白い洞窟へ落ちる。
雲の層が閉じる。
最後に見えたのは、ナギが七本の音路を腕へ巻きつける姿。
ザンバが、その腰を支える姿。
独歩獣の巨大な背。
八つの歩雲を一列に飲み込み。
枯れた星根の残照へ向かっている。
新しい根は北。
獣は東。
古い道の終わりまで、あと一刻だった。
足跡層には、上も下もなかった。
古い一歩が天井になり。
次の一歩が壁になり。
十年前の雲が、床のように三人を受け止めている。
カナタは白旗を突いた。
「第一歩号まで!」
一歩分の光板が生まれる。
上へ伸びる。
途中で曲がる。
独歩獣の頭がいる東へ。
「まただ!」
「今のあんたの『前』が、獣と同じだから」
ルゥは左手を押さえていた。
落ちるとき、銀鋲の一本が掌へ深く入った。
抜いた跡から血が流れている。
親指の付け根はすでに腫れ、左手では髪を結び直せない。ルゥは口で銀鋲を抜き、右手だけで布を巻いた。
「《継ぎ路》は使える?」とメグ。
「短く。三本まで」
以前なら「問題ない」と答えていた。今は限界を先に申告する。つなぐ役が壊れるまでつなぎ続ければ、結局、役目を誰にも渡せないからだ。
カナタの右膝も震えている。二人とも相手へ「無理するな」と言い、同時に自分の痛みを一段小さく報告した。メグはその食い違いを、黙って覚えた。
「先頭へ行けば助けられる」
「誰が?」
「俺が!」
「だからよ」
ルゥは白旗の《先》を指した。
半分だけ入った文字。
カナタにも読める。
先。
「獣は、あんたの答えを変えてない。大きくしただけ」
「俺は、みんなを落としたくない」
「カイラも同じ」
「一緒にするな!」
「何が違うの!」
白い洞窟へ声が響く。
カナタは口を開く。
言葉が出ない。
一番雲を支えようとした。
八番雲も助けるつもりだった。
メグの地図も使うつもりだった。
けれど、最初の一歩だけは、自分で置くと決めていた。
「第一歩号の船長だ」
やっと言った。
「未踏路士だ。俺が最初へ行かないで、誰が行く」
「私」
メグが答えた。
カナタを見る。
「最初へ行きたいって、ずっと言ってる」
「落ちるかもしれない」
「うん」
「お前の父ちゃんみたいに」
「うん」
「怖くないのか」
「怖いよ!」
メグの声が震えた。
「父さんが落ちた場所を、毎日後ろから踏んでる。母さんが前で細くなっていくのも見てる。八番雲が消えるのも怖い!」
薄青い旗を握る。
「だから、自分で踏みたい」
「怖いなら、俺が――」
「怖い人から一歩を取らないで!」
カナタの口が閉じる。
メグは涙を拭わなかった。
八つの髪輪を数える指は、三つ目と四つ目を何度も取り違えた。恐怖が強いと、メグは名を呼べない。だからカナタを「あんた」としか言わず、父を「父さん」と呼ぶまで長い呼吸を使った。
片方欠けた犬歯が唇へ当たり、少し血が出る。それでも笑わない。怖いまま踏むことを、明るさだけで証明する必要はなかった。