第182話 第七章「後ろへ落ちる」後編

「怖くても行くって、あんたは笑われた村で言ったんでしょ」

「誰から聞いた」

「噂」

「壊した場所の数?」

「主に、それ」

「やっぱり広まってる!」

「今、喜ぶところ?」

ルゥが呆れた声を出す。

少しだけ空気が緩む。

その奥で、古い足跡が光った。

メグの涙が一滴落ちた場所。

八番目の足跡。

薄青い線が、雲の層へ走る。

「旗に反応した」

ルゥは傷ついた手で銀鋲を持つ。

「貸して」

「手、使える?」

「片方ある」

「無理するな」

「あんたにだけは言われたくない」

銀鋲を古い足跡へ当てる。

《継ぎ路》

十年前に切れた標力と、メグの旗がつながる。

薄青い布の空白へ、一つの結び目が浮かんだ。

セトの声が聞こえる。

『八番雲、踏み替え準備』

事故の少し前。

男は笑っている。

若いカイラが隣で紺旗を確認していた。

『本当に後ろへ行くの?』

『順番だからな』

『先頭を離すのは、怖くない?』

『怖い』

『なら、私がもう一巡――』

『カイラ』

セトは一番雲の後ろを指した。

七つの町。

最後の八番雲。

『前にいると、一番雲しか見えない』

『当たり前だ』

『後ろへ行けば、全員が見える』

カイラは答えない。

『先頭を渡すのは、役目を失うことじゃない』

セトは自分の薄青い旗を掲げる。

八つの足跡が、少しずつ位置を替える紋。

『次の一歩へ、場所を渡すことだ』

記録の端で、セトは自分の靴紐を結び直そうとして失敗した。七つ結びで止め、八つ目をカイラへ渡す。

『最後、頼む』

カイラは「自分でやれ」と言いながら締める。事故前の二人は、理念だけを話していたのではない。互いの不得手を知り、苛立ち、日常の小さな受け渡しを何度もしていた。それでも大きな先頭だけは、怖さを言葉にできず失敗した。

『八番目は最後だ』

『一巡の最後』

男は笑う。

『だから、次の最初だ』

景色が変わる。

事故。

星根が裂ける。

セトの八番雲が落ちる。

最後の瞬間、彼はカイラへ旗を投げた。

『放して!』

声。

『俺をじゃない!』

薄青い旗が空へ舞う。

『先頭を!』

記録が途切れた。

メグの旗に、一つの足跡が戻る。

七つではない。

空白の縁に、八つ目の薄い輪郭。

「父さんは、母さんに落とされたんじゃない」

メグは言った。

「母さんも、父さんを落としたくなくて、放せなかった」

「結果は同じだ」とカナタ。

「違う」

メグは首を振る。

「悪い人が一人なら、その人を止めれば終わる。でも、二人とも怖かったなら、怖いまま渡す方法がいる」

ルゥは白い帳面を取り出した。

双灯港で書いた頁。

――世界の果てへ行く旅 了。

その次の頁は、白い。

「カナタ」

「何だ」

「この旅の最初、誰が書いてある?」

カナタは頁を覗く。

「何も」

「世界の果てから始まる旅の一歩目は、まだ空白」

「俺が書く!」

「それしかない?」

「俺の旅だ!」

「私も乗ってる」

三番目の旗のときと同じ言葉。

今度は、カナタもすぐ思い出した。

「ザンバも」

「ナギも」

「第一歩号も」

「メグは?」

「途中までかもしれない」

メグが答える。

「でも、今は同じ場所にいる」

「じゃあ、全員の一歩?」

「全員が同時に一歩目を踏んだら、十年前と同じ」

ルゥは白い頁の端へ、小さな点を一つ書いた。

「誰かが先に踏む」

少し後ろへ、二つ目の点。

「誰かが続く」

「二歩目」

カナタが呟く。

トマリギ島。

一歩分の光板へ、ナギが足を重ねた。

一歩だけでは足跡。

二歩目が来て、道になった。

カゲノハ村。

アカリの新しい薬師渡り。

自分がいない場所で踏まれた一歩。

『私の一歩目』

声が胸に戻る。

「あのとき、俺が一歩目だった」

「今度は?」

メグが訊く。

カナタは白旗を見る。

未踏路。

最初の一歩を作る力。

第一歩号。

世界の果てまで、自分を運んだ名前。

「俺が二歩目になったら」

胸が少し痛む。

「第一歩号じゃなくなる?」

「船の名前は命令じゃない」

ルゥが即答した。

「第一歩を見つけた船でしょ。誰が踏むかまで決めてない」

「未踏路士は?」

「道のない場所へ一歩を置く人」

「二歩目は、もう道がある」

「足跡が一つあるだけ」

ルゥは二つの点を銀糸で結ぶ。

「そこを道にするのも、未踏路じゃない?」

カナタは長く白い頁を見た。

「お前が、一歩目を踏む?」

カナタはメグへ訊いた。

「踏む」

「場所、分かる?」

「北の新しい根」

「怖い?」

「怖い」

「俺も怖い」

「何が?」

「二番になるのが」

言った瞬間、カナタの右足が半歩前へ出た。身体はまだ、先へ行く答えしか知らない。右膝の痛みが足を止め、白旗の中央ではなく端をつまむ。

「二歩目で、誰にも呼ばれなかったら?」

声が低い。順位を失う怖さではない。先頭でなければ必要とされないかもしれない、置いていかれる子どもの怖さだった。

「呼ぶ」とメグ。

「返事が遅かったら?」

「待てる範囲を先に言う」

カナタはようやく足を戻した。二歩目は、黙って従う位置ではなく、名前を呼ばれて自分で選ぶ位置だと少し分かった。

メグが目を瞬く。

それから笑った。

「順位じゃないよ」

「分かってる!」

「顔が分かってない」

「ザンバみたいに言うな!」

白い洞窟の上で、黒い点が一つ灯った。

「呼んだか」

ザンバの声。

雲の天井が三つに裂ける。

灰旗の《岐点》が、足跡層へ道を作った。

男が第一歩号の縄へつかまり、逆さまに降りてくる。

「遅い!」

カナタが叫ぶ。

「船と響路士を独歩獣から外していた」

「ナギは?」

「上だ」

「一人!?」

「七つの町と話している」

「一人じゃない」

ルゥが言う。

ザンバは三人の前へ降りる。

着地の衝撃で機巧腕の留め具が外れかけた。右腕は黒い点を作れるが、生身の左手で締めるには角度が悪い。ルゥが右手だけで留め具を直し、ザンバは左手で彼女の血のついた銀鋲を受け取った。

「お前も痛いなら言え」とカナタ。

「風向きのせいだ」

それがザンバの隠し言葉だと、三人はもう知っている。ナギがいなくても、仲間の現在を聞く仕事は続いていた。

灰旗の七本線の横に、短い八本目が現れかけていた。

黒い点の前ではない。

後ろから始まり、点へ向かっている。

「それ、何の道?」

カナタが訊く。

「まだ決めていない」

「迷ってる?」

「お前より先に答えが出た」

「何だ!」

「従う道だ」

「命令される?」

「違う」

ザンバはメグを見る。

「誰かの行き先を聞き、自分でその後ろを選ぶ」

「お前も二歩目?」

「三歩目でも構わん」

「負けた気がする!」

「だから順位ではない」と三人。

声が重なった。

カナタは頭を掻く。

「じゃあ、どうやって先頭を渡す」

ルゥは第一歩号の小旗を床へ並べた。

銅色の三番旗。

灰青色の四番旗。

夜色の五番旗。

透明な六番旗。

暮色の七番旗。

「一番雲とカイラの番を、七番旗で終わらせる」

「勝手には使えない」とカナタ。

「本人が『ここまで』って言わないと、終標は出ない」

「言わせる」

メグが薄青い旗を握る。

「怒鳴って?」

「聞く」

「成長した!」

「あなたより先にね」

ルゥは続ける。

「五番旗で、八つの雲がいることを確かめる。六番旗で、先頭の場所を一歩ぶん空ける」

「四番旗で、カイラの途中をメグへ渡す」とザンバ。

「三番旗は?」

「新しい根で、全雲が会う場所」

「俺の旗は?」

全員がカナタを見る。

カナタは白旗を持ち上げた。

「メグの足跡の、次」

「一歩目は作らない?」

「作らない」

胸が痛む。

今度は、逃げなかった。

「二歩目を作る」

メグの八つ目の輪郭が、淡く光った。

「ナギは?」

「渡す返事を取る」とザンバ。

「メグが受け取るって言わなければ、道を開かない」

「言う」

「その時も聞く」

足跡層の天井が崩れる。

独歩獣の足音。

どおん――。

古い道の終わりまで、あと半刻。

「行くぞ!」

カナタが白旗を掲げる。

「俺の後ろへ!」

メグが眉を上げる。

「違う」

「あ」

「私の後ろへ」

足跡層の裂け目へ、メグが先に走る。

足元に道はない。

薄青い旗を突く。

「北へ!」

一歩分の雲が生まれた。

弱い。

すぐ崩れかける。

カナタは白旗を、その一歩の後ろへ突いた。

「メグの次!」

一枚の光板。

二歩目。

二つの足跡がつながる。

薄い雲が、道へ変わった。

「出た!」

メグが笑う。

「俺の二歩目!」

「私の一歩目!」

「どっちがすごい!」

「順位じゃない!」

ルゥとザンバが続く。

四人分の足跡が、足跡層から第一歩号へ伸びた。

つぎはぎの船が待っている。

船首の二枚鍋蓋の間に、独歩獣の白い鱗が一枚刺さっていた。

カナタは目を輝かせる。

「第八翼!」

「敵の破片!」

「八番目に増えた!」

「今は出航!」

全員が甲板へ飛び乗る。

ナギはいない。

響路台の中央に、青い帳面だけが開いている。

八つの欄。

一つずつ、違う文字。

「ナギはどこ!」

カナタが叫ぶ。

六番雲から、五つの鐘。

『ここ!』

ナギの声。

『八つの返事を取り戻してる! 先にカイラへ!』

「分かった!」

『行き先!』

カナタは答えかける。

メグを見る。

メグが東を指す。

「今は独歩獣の先頭!」

「方角は!」

「東!」

「受け取る!」

カナタが白旗を掲げる。

ルゥが操舵輪を握る。

「操舵は私!」

「二歩目!」

「使い方が違う!」

朝火炉が輝く。

第一歩号は、誰かの一歩へ続くために飛び出した。