第183話 第八章「八つの返事」前編
ナギは、六番雲の鐘塔にいた。
第一歩号から落ちた七つの鈴を、独歩獣の背へ追ってきた。
トウカと二人。
命令鐘の下。
現在鐘の間。
八本の音路が、白い雲糸に呑まれかけている。
「一番雲!」
ナギが呼ぶ。
返事。
『先頭』
「名前!」
『先頭』
「カイラ!」
遠く、獣の頭。
『……カイラ』
一つ目の鈴が紺色に戻る。
「二番雲!」
『二番』
「名前!」
『水』
「スイ!」
『……スイ』
二つ目。
「三番雲!」
『風』
「フウカ!」
『フウカ!』
声が早くなる。
四番。
ガク。
五番。
イオ。
六番。
トウカ。
七番。
リツ。
最後。
「八番雲!」
返事がない。
独歩獣の尾。
最も後ろへ縫いつけられた町。
人々は、同じ足踏みを続けている。
「メグは船!」とトウカ。
「町の返事!」
ナギは八番雲の鐘へ響路を伸ばす。
白い糸が腕へ食い込む。
声が来る。
『最後尾』
「町の名!」
『拾う場所』
「八番雲!」
『誰も取りに来ない場所』
「チコ!」
小さな声。
『……チコ』
「ホロ!」
『ホロ』
「八番雲!」
何人もの声が重なる。
『八番雲!』
八つ目の鈴が薄青く光る。
同時に、ナギの視界が狭くなった。口の中は錆びたような味。八音のうち、今は六つしか個別に保てない。
「トウカ。七番と八番を持って」
「私が聞き違えたら?」
「私も聞き違える」
ナギははっきり言った。
「だから、リツの低い振動はあなた。ホロたちの雲底音はメグへ返して確認。私は一番から六番」
響路士が全部を聞く形を守らない。能力の限界を公にし、判定を分ける。トウカは右の命令槌へ伸びかけた手を止め、左の現在槌を握った。
独歩獣の背へ、八つの点が並んだ。
一つの長い体ではない。
八つの町。
八つの足。
八つの今。
獣が吠える。
白い口から《先》の文字が無数に飛ぶ。
点を一つへ塗り潰そうとする。
「返事路、保持!」
トウカが八本の鐘を鳴らす。
同じ時刻。
違う音。
大きな一音にはならない。
最初は不揃い。
二度目は、少し近づく。
三度目。
違うまま、同じ合図の中へ入る。
現在地。
行き先。
先頭。
受取返事。
「今の先頭は!」
ナギが全雲へ送る。
『カイラ』
「次の先頭は!」
沈黙。
メグの声が、第一歩号から届く。
『私』
「現在地!」
『第一歩号。独歩獣の背』
「行き先!」
『北の新根』
「受け取る?」
一呼吸。
『受け取る!』
四つの返事が、薄青い鈴へ入る。
しかし、渡す側の返事がない。
「カイラ!」
『渡さない!』
「今の返事」
ナギは消さない。
「メグ!」
『受け取りたい!』
二つを同じ欄へ重ねない。
トウカが泣きそうな顔で訊く。
「どうする?」
「カイラへ行く」
「鐘塔を離れたら、現在路が切れる」
「トウカが持つ」
「私一人?」
「八つの町が返す」
「でも、今まで一音しか――」
「今は違う」
ナギは自分の響路鈴を一つ外す。
トウカへ渡す。
「命令を送る人じゃない」
「何になる?」
「返事を、違うまま聞かせる人」
トウカは二本の槌を腰へ戻さず、鐘台へ置いた。
「命令が来たら、右手が先に動く」
「動いたら?」
「左で止める。止められなかったら、鐘へ手で触って現在を返す」
完璧に変わったわけではない。十二年の反射は、決意一つでは消えない。だから本人の癖を、他の鐘守が見て分かる手順へする。失敗する可能性ごと仕事を受け取った。
トウカは鈴を握る。
「響路士?」
「鐘守」
「見習い」
「私も」
二人は笑う。
ナギは鐘塔の縁へ走る。
足場は、独歩獣の背まで遠い。
第一歩号も先へ行っている。
「道がない」
白い雲の空。
ナギは自分の旗を掲げる。
「カナタ!」
響路で呼ぶ。
『ここ!』
「私の前に一歩!」
『任せろ!』
「全部って言わない!」
『一歩!』
何もない空へ、光板が一枚生まれる。
カナタの姿は見えない。
それでも返事がある。
ナギは踏む。
一歩目。
板の先に、道はない。
「次!」
『ナギの次!』
二歩目。
遠い場所から、カナタが足跡を重ねる。
一枚ずつ。
ナギは独歩獣の頭へ向かった。
ナギの一歩目のあとへ、カナタの二歩目が続いた。
光板は長い道にならない。
一枚。
踏む。
消える前に、次の一枚。
ナギは、独歩獣の背を走った。
足元には町がある。
一番雲の観測塔。
二番雲の貯雨池。
三番雲の畑。
どれも白い雲糸へ半分沈み、巨大な獣の皮膚として前へ運ばれている。
「カナタ、もう少し右!」
『右ってどっちだ!』
「私の右!」
『見えない!』
「音の右!」
『もっと分からん!』
光板が左へ出た。
ナギは空中で体をひねり、ぎりぎり足を届かせる。
「反対!」
『最初からそう言え!』
「言った!」
『言ってない!』
そのやり取りに、腕へ巻きついた八本の音路が少しだけ軽くなった。
返事がある。
姿が見えなくても。
同じ場所にいなくても。
返事が続くなら、足を置ける。
独歩獣が一歩を踏んだ。
どおおん――。
背中の町々が前へ沈む。
ナギの光板が砕けた。
「次!」
『ナギの前!』
一枚。
今度は正面。
「合ってる!」
『当然!』
「さっき外した!」
『今の俺は二歩目だからな!』
「関係ある?」
『たぶん!』
獣の頭が近づく。
一番雲。
町の中央に、先頭塔が角のように突き出している。
塔の頂上。
カイラがいた。
左右の靴は、もはや同じ床へ立っていなかった。右の白い雲底靴は先頭塔へ沈み、左の黒い星根鋼靴は根抜け野の縁へ滑っている。三重の足首布は二枚切れ、血が黒い靴へ滲んでいた。
カイラは前だけを見ることで平衡を保っている。後ろへ顔を向けると、長年の荷重差で眩暈が起きる。ナギの声へ振り向くたび、旗へ体重を預けた。
「身体を離せないなら、先頭を渡せない?」
「身体の問題ではない。歩頭長の職務は、星根読図、全雲荷重、非常時――」
説明が長い。恐怖が答えを職務へ戻している。
両脚は床へ沈み。
紺色の旗は白い雲糸に包まれ。
背中から伸びた七本の光索が、残りの歩雲を引いている。
「カイラ!」
ナギが呼ぶ。
「現在地!」
「先頭塔!」
「行き先!」
「東残照!」
「名前!」
「カイラ!」
「今の役目!」
「先頭!」
「次の先頭!」
「いない!」
「メグが受け取る!」
「渡さない!」
答えは速かった。
迷いがないのではない。
迷うことを、十二年間許さなかった声だった。
ナギは最後の光板を蹴た。
先頭塔の屋根へ着地する。
床が斜めになっている。
東へ。
古い道の終わりへ。
「止めに来たのか」
カイラは前を見たまま言った。
「聞きに来た」
「答えた」
「まだ」
「何をだ」
「どうして渡さないの」
「落とすからだ」
「誰を」
「全員を」
「本当に?」
カイラの目が動く。
「返事を聞いた。北に新しい根がある」
「後ろの推測だ」
「八つの町が、それぞれ違う方法で確かめた」
「一番雲からは見えない」
「だから聞くんでしょ」
「見えないものへ、八つの町を渡せるか!」
紺旗が強く光る。
独歩獣の頭が一段前へ沈む。
東の残照は、あと十五歩。
「十年前も、セトは新しい根があると言った」
カイラの声が低くなる。
「私には見えなかった。渡した。落ちた」
「渡してない」
ナギは言った。
カイラが振り向く。
「記録を聞いた」
「何を知ったような――」
「あなたは、最後まで先頭を離さなかった」
「離していれば、一番雲も落ちた!」
「セトも、受け取る前に踏んだ」
「なら、やはり踏み替えが――」
「違う」
ナギは八本の音路を持ち上げた。
一番雲。
二番雲。
三番。
それぞれ違う色。
違う揺れ。
「二人とも、返事を待たなかった」
カイラの唇が止まる。
「あなたは『まだ支える』って言った。セトは『受け取る』って言った。でも、渡す返事と受け取る返事を、同じ一歩の前で確かめなかった」
「そんな言葉一つで、事故が防げたと?」
「分からない」
ナギは答えた。
「分からないから、今度は聞く」
「保証にならん」
「返事は保証じゃない」
「なら、何だ」
「相手も選んだって分かるもの」
カイラは前へ向き直る。
東の残照。
十年前から変わらない一本線。
「メグは子どもだ」
「十五歳」
「私の娘だ」
「知ってる」
「落ちれば、私は――」
声が途切れる。
独歩獣の口から、白い《先》が浮かび上がった。
『先頭が守れ』
『先頭が決めろ』
『先頭だけが責任を負え』
町中の人々が同じ言葉を呟く。
カイラの紺旗へ、文字が食い込む。
「私が放せば、誰が責任を持つ」
「メグ」
「一人でか!」
「八つの町」
「責任は分ければ薄くなる」
「分けなければ、一人が潰れる」
ナギはカイラの足を見る。
床へめり込み。
白い雲糸に血が滲んでいる。
「今、潰れてる」
カイラは否定しようとし、左足が崩れた。ナギが肩を支える。大きな音に弱い響路士と、前しか見られない歩頭長。二人とも、自分だけでは立てない瞬間だった。
「渡したあと、私は何をする」
初めて出た問いは、弱かった。
「今は決めなくていい」
「役目なしで立てるか」
「立てなければ、座る。次の返事を聞く」