第184話 第八章「八つの返事」後編
すぐに納得はしない。カイラは「非効率だ」と三度言い、四度目にだけ黙った。その沈黙は同意ではなく、十二年間持たなかった空白だった。
「それが先頭だ」
「それが先頭なら、誰も受け取りたくなくなる」
遠くから、メグの声が届く。
『母さん!』
第一歩号が独歩獣の首筋へ近づいている。
帆は半分破れ。
船底の雲綿を撒き散らし。
それでも飛んでくる。
船首にメグ。
その半歩後ろにカナタ。
「母さん、聞いて!」
「下がれ!」
「現在地!」
「何?」
「現在地を言って!」
「先頭塔!」
「行き先!」
「東残照!」
「本当の行き先!」
「同じだ!」
「私は北へ行く!」
「許さない!」
「受け取るって言ってる!」
「渡さない!」
二人の声がぶつかる。
独歩獣が喜ぶように吠えた。
不一致を、一つの先頭へ押し込もうとする。
ナギは二本の音路を左右へ分けた。
「重ねない!」
カイラの《渡さない》。
メグの《受け取る》。
二つを別の鈴へ入れる。
「今は違う返事!」
独歩獣の額に亀裂が走った。
「メグ!」
カイラが叫ぶ。
「先頭へ立つのは、前を見ることじゃない! 後ろの命を全部、背負うことだ!」
「違う!」
「何が分かる!」
「後ろにいたから分かる!」
メグは薄青い旗を掲げた。
「先頭が見落としたものを、後ろが拾う! 先頭が間違えたら、後ろが直す! 先頭が疲れたら、次が受け取る!」
「落ちたら!」
「助けてって言う!」
「間に合わなかったら!」
「次へ渡す!」
「死んだら!」
声が止まる。
メグの指が震える。
それでも旗を下ろさない。
「死にたくない」
まっすぐ答えた。
「怖い。母さんを残したくない。八番雲のみんなも落としたくない」
「なら――」
「でも、怖いからって、私の一歩を母さんのものにしないで」
独歩獣の歩みが一瞬止まった。
カイラの顔が歪む。
「私は……お前を守りたい」
「うん」
「先頭を渡したら、守れない」
「後ろから守って」
「後ろから?」
「父さんが言ったんでしょ。後ろなら、全員が見える」
風が吹いた。
根抜け野には、風を受ける根がない。
それでも、八つの雲の間から別々の風が集まった。
三番雲のフウカが送った北風。
六番雲の鐘の音。
八番雲の雲綿。
カイラの髪が、初めて後ろへ流れる。
そこへ、別の声が混じった。
『放して』
男の声。
セト。
十年前の足跡層から残った響き。
カイラが息を呑む。
「セト……?」
ナギは目を閉じた。
音を聞き分ける。
温度。
距離。
同じ傷を何度も通った声。
「違う」
「何が」
「今の返事じゃない」
カイラを見る。
「十年前の記録。セトが今、あなたへ命令してるんじゃない」
「……そうか」
「だから、セトの言葉で決めないで」
ナギは紺旗へ鈴を近づけた。
「今のカイラが決めて」
東の残照は、あと十歩。
カイラは目を閉じる。
十二年間。
誰より前へ立ち。
誰より早く根を読み。
誰より遅く眠り。
八つの町の重さを、自分の役目だと思って抱えた。
手を離せば、すべてが終わると思っていた。
いや。
自分の役目が終わることを、すべての終わりと呼んでいた。
暮色の小旗が、第一歩号の帆柱で揺れる。
第七の旗。
ヨイの《終標》。
カイラの視線がそこへ向いた。
「終えるのは、消すことじゃない」
カナタが言った。
いつの間にか、船が塔の横へ来ている。
「俺は、世界の果てへ行く旅を終えた。でも、まだここにいる」
「お前は、すぐ次へ行っただけだ」
「そうだ!」
「胸を張るな」とルゥ。
「でも、一つ終わらせたから、今の道を選べた」
カナタは白旗を下ろす。
先頭へ突き出さない。
メグの半歩後ろへ立つ。
「カイラ。お前が歩いた十二年は、なくならない」
「簡単に言うな」
「簡単じゃない。俺も今、二番で腹が痛い」
「それは空腹」とルゥ。
「違う!」
カイラの口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑いではない。
泣くのを堪えた形に近い。
「ナギ」
「聞いてる」
「記録してくれ」
「今の声で?」
「ああ」
カイラは紺旗を両手で握った。
白い雲糸が腕へ食い込む。
「現在地。一番雲、先頭塔」
「うん」
「行き先。北の新根」
メグの顔が上がる。
「今の先頭。カイラ」
「うん」
「次の先頭。メグ」
独歩獣が激しく首を振った。
紺旗から《先》の文字が剥がれかける。
「渡す?」
ナギが訊く。
カイラの唇が震える。
「……渡す」
「受け取る?」
「受け取る!」
メグの返事。
違う場所。
違う声。
二つが、同じ鈴の両側へ入った。
重ならない。
向かい合う。
カイラは暮色の小旗へ手を伸ばした。
「一番雲の固定先頭は――」
言葉が詰まる。
もう一度。
「ここまで」
七番旗が光った。
暮色の輪が、先頭塔を囲む。
終わりを切らない。
十二年ぶんの足跡を、その場へ残す。
紺旗の根元から、白い雲糸が一本外れた。
カイラの右足が、床から抜ける。
独歩獣が絶叫した。
固定された先頭を一つ失い、独歩獣は暴れた。
頭だった一番雲が大きく揺れる。
背中へ縫いつけられた七つの町が、左右へ振られた。
「全雲、つかまって!」
ナギが叫ぶ。
八つの現在鈴が別々に鳴る。
『二番雲、貯雨池が傾く!』
『三番雲、畑の風除けが外れた!』
『四番雲、炉台が滑る!』
『五番雲、家屋区を内側へ!』
『六番雲、鐘索一本切断!』
『七番雲、負傷者を固定!』
『八番雲、後縁が獣の尾へ巻かれてる!』
違う危機。
違う速さ。
独歩獣は、それを一つの命令へまとめようとする。
『前へ』
白い文字が町を覆う。
『同じ足跡へ』
各雲の歩脚が、まだ動かない。
足跡の紋を奪われている。
「メグ!」
カナタが呼ぶ。
「一歩目!」
メグは北を見る。
見えない新根。
七つの雲が後ろから重ねた地図。
父セトの踏み舟が残した薄い線。
「北へ!」
薄青い旗を突く。
空に、小さな雲の足場が生まれた。
一人分。
歩雲を載せるには小さすぎる。
独歩獣の口が開く。
足場を最初の足跡へ変えようとする。
「メグの次!」
カナタが白旗を突いた。
二枚目の光板。
小さな雲足場の後ろへ重なる。
二つがつながる。
獣の口が一歩目だけを飲み込もうとする。
しかし二歩目が支え、足跡が道になる。
「まだ小さい!」
ルゥは銀鋲を八本抜いた。
「大きくするんじゃない!」
一本目を一番雲へ。
二本目を二番雲。
八本目を八番雲。
「それぞれの一歩を、必要な場所へつなぐ!」
「標術――《継ぎ路》!」
銀糸が八つの雲から、メグの小さな足場へ伸びる。
同じ形にしない。
水の重さ。
畑の風。
炉の熱。
家々の釣り合い。
鐘の間。
治療所の歩幅。
最後尾の修正。
それぞれが、一人分の足場へ必要な分だけ力を渡す。
小さな雲が厚くなる。
歩雲一つ分ではない。
八つの町が次の一歩を考えられる、短い踏み替え場。
「今、誰が先頭!」
ナギが訊く。
「メグ!」
八つの町から声が返る。
独歩獣が尾を振る。
八番雲を引きずり、メグの足元を崩そうとする。
「八番雲、後縁を外せ!」
カイラが叫びかける。
声を止めた。
ナギを見る。
「誰が一番見える?」
八番雲からホロの返事。
『チコが尾の近く!』
「チコ!」
『ここ! 白い糸が三本!』
「外せる?」
『一人じゃ無理!』
「誰に渡す?」
『四番雲! 切り板が要る!』
ナギがガクへ音路をつなぐ。
「ガク、受け取る?」
『受け取る! 炉板を八番雲へ!』
「チコ、渡す?」
『渡す!』
二つの返事。
四番雲の工房から、熱い雲鋼板が射出される。
ルゥの銀糸が八番雲へ引く。
ホロが板を尾の下へ差し込む。
チコが雲針を叩く。
白い糸が一本切れた。
独歩獣の尾が短くなる。
「今の先頭は?」
「ガク!」
ガクの一人称が「僕」から「俺」へ変わった。
『俺が炉板の角度を決める! ただし尾が切れたら終わり!』
終わりを先に言う。短い先頭を望んできた青年が、仕事を抱え続けない条件まで自分で置いた。炉板が切れた瞬間、耳を引き、声を戻す。
『ここまで。次は水』
足跡を手放しても、工房長として留め具を確認する仕事は残る。
四番雲の炉旗が光る。
獣の大きな一足から、小さな鉄色の足跡が剥がれた。
四番雲の歩脚へ戻る。
「一つ戻った!」
カナタが叫ぶ。
「次は二番雲!」
貯雨池が傾き、北の足場へ水が流れすぎている。
スイが水門へ立つ。
『メグ! このまま踏むと、新根の表面が崩れる!』
「どうする?」
『先に水の重さを測る! 一歩、待って!』
カナタの足が出かける。
止める。
「待つ!」
五番旗が夜色に光った。
進まない一歩。
今いる場所を数える。
スイが細い水路を北へ流す。
見えなかった根の輪郭が、青い線になって浮かんだ。
『右側は薄い! 左へ半歩!』
スイは親指の古傷をこすりながら、「条件による」を三度言った。水脈だけなら左。八番雲の荷重を含めれば左半歩。治療寝台を含めれば停止。
以前なら、条件が多いことを弱さだと思われるのが怖くて一つへ丸めた。今は保護眼鏡を上げ、三案をそのまま送る。
『選ぶのはメグ。でも、水の結果は私が引き受ける』