第185話 第九章「誰かの一歩のあと」前編

判断と責任を同じ人へ集中させない返事だった。

「メグ、渡す?」

ナギが訊く。

「水の確認を、スイへ渡す!」

「スイ、受け取る?」

『受け取る!』

二番雲の雫旗が光る。

二つ目の足跡が独歩獣から剥がれた。

「次、三番雲!」

北から横風が来る。

フウカが畑の風見を上げる。

『根はある! でも真っすぐ乗ると、五番雲の家が外へ振られる!』

「行き先は?」

『北北西! 三歩だけ斜め!』

「メグ、渡す?」

「風の一歩を、フウカへ!」

『受け取る!』

三番雲の足跡が戻る。

独歩獣の脚が一つ細くなった。

獣は激怒し、白い《先》を空へ撒いた。

文字が八つの鈴へ張りつく。

一番。

二番。

三番。

順位へ変えようとする。

「順番じゃない!」

ナギは鈴を振る。

「今、何が必要か!」

五番雲のイオが叫ぶ。

『家屋区の子どもが二人、橋に残ってる!』

七番雲のリツ。

『負傷者を先に受け取る!』

「どっちが先頭?」

カナタが訊く。

ルゥが怒鳴る。

「両方!」

「一つじゃなくていいのか!」

「違う仕事!」

ザンバが灰旗を振った。

《岐点》!」

黒い点が二本の道を分ける。

一つは子どもへ。

一つは治療所へ。

「同時に先頭が二人!」

「順位ではないと何度言わせる!」

イオが住居橋を固定し。

リツが寝台路を受け取る。

五番雲と七番雲の足跡が戻った。

イオは助かった子どもの数だけでなく、閉められなかった戸を四つ報告した。リツは高音の警鐘を聞けず、鐘の振動とイオの唇で状況を取る。二人とも成功報告の中へ不足を残す。

独歩獣の腹から、白い塊が八つほどこぼれ始めていた。前脚の小型核。豆ほどのものが各雲の旗へ寄り、自分の足跡だけを少し長く保とうと爪を立てる。獣が弱ったのではなく、固定された一頭から輪番へ適応する形へ分かれ始めたのだった。

独歩獣の体が裂け始める。

残るのは、一番雲。

六番雲。

八番雲。

六番雲の鐘塔へ、獣の白い爪が迫る。

現在鈴を壊せば、すべての返事がまた一音になる。

「トウカ!」

ナギが呼ぶ。

『ここ!』

「誰へ渡す?」

『私が受け取る!』

「何を?」

『鐘守を!』

「誰から?」

トウカが詰まる。

今まで、命令鐘は一番雲の許可で鳴っていた。

受け取る相手が分からない。

カイラが先頭塔から声を送る。

「私からだ」

トウカが顔を上げる。

「現在鐘の判断を、六番雲へ渡す」

「受け取ります!」

「ただし、一人で決めるな」

「八つの返事を聞きます!」

「渡す」

「受け取る!」

六番雲の足跡が戻った。

八本の現在鈴が、それぞれの色で鳴る。

独歩獣の白い爪が砕けた。

最後に残った巨大な脚。

一番雲の足跡。

カイラの紺旗が、まだ獣の額へつながっている。

「カイラ!」

メグが呼ぶ。

「今、何が必要?」

カイラは前を見る。

北の新根。

水で輪郭が浮かび。

風が斜めの道を示し。

工房の板が足場を補い。

住居区と治療区が別々の速さで移動している。

六番雲が返事を集め。

八番雲が、全体のずれを記録している。

一番雲だけでは見えなかった道。

「星図」

カイラが言う。

「何?」

「新根の先。次の分岐を読む者が要る」

一番雲の観測塔で、レンが立ち上がった。

若い航路士。

十二年間、カイラの地図へ線を書き足すだけだった少年。

『私が読む』

「レン」

『歩頭長。星図を受け取ります』

「責任は重いぞ」

『一人では持ちません』

レンは七つの雲を見る。

『水と風と重さを、全部返してください』

カイラの目が細くなる。

「受け取るか」

『受け取ります』

「渡す」

紺旗から最後の白い雲糸が外れた。

一番雲の足跡が、独歩獣の額から剥がれる。

レンの星図へ入る。

独歩獣に、足がなくなった。

巨大な体が根抜け野へ沈み始める。

しかし、口だけが残った。

一つの大きな《先》

白い顎を開き。

新しい先頭を、丸ごと飲み込もうとする。

狙いは、メグだった。

「メグ!」

独歩獣の口が迫る。

足を失っても、先頭を食うためだけに空を泳ぐ。

白い顎の内側には、数えきれない足跡が並んでいた。

一番。

一番。

一番。

すべての一歩を、同じ最初へ変えた跡。

顎の奥には、前脚の爪で並べた小石が七つあった。八つ目の位置だけ、砕けた粉が何層も積もっている。喉の薄膜は七拍まで開き、八拍目で閉じる。

額の一つ目は人の顔を見ない。白旗の中央、《先》の札、誰より先に置かれた靴底から出る匂いだけを追う。カナタがメグの前へ出るたび、獣の瞳孔は大きくなる。守る気持ちの中へ混じる《自分が先に》を、餌として嗅ぎ分けていた。

「下がれ!」

カナタがメグの前へ出る。

白旗を構える。

中央の《先》が強く光った。

獣の口が喜ぶ。

「カナタ!」

ルゥが叫ぶ。

「前へ出たら食われる!」

「メグを守る!」

「また先頭を取ってる!」

カナタの足が止まる。

顎は止まらない。

あと十歩。

メグが横へ並ぶ。

「私の前に立たないで」

「食われるぞ!」

「一人なら」

薄青い旗を掲げる。

「だから、次へ来て」

メグが一歩を踏んだ。

北の新根へ。

一人分の雲足場。

独歩獣がそれを飲み込もうとする。

カナタは、半歩待った。

胸が痛む。

怖い。

メグの足場が消えるかもしれない。

先に飛び出せば、間に合う。

いつもの自分が、背中を押す。

その声より先に、ナギの問いが届いた。

『現在地!』

「第一歩号、船首!」

『行き先!』

「メグの次!」

『先頭!』

「メグ!」

『自分の役目!』

カナタは白旗を握る。

「二歩目!」

『受け取った!』

返事が道になる。

カナタは旗を、メグの前ではなく後ろへ突いた。

「標術――《未踏路》!」

一枚の光板。

「メグの次!」

二歩目。

一歩目の雲足場とつながる。

独歩獣の顎が、一歩目へ噛みつく。

だが、二歩目が後ろから支えている。

足跡は消えない。

「ルゥ!」

「分かってる!」

銀鋲が二つの足場へ刺さる。

「同じ形にしない! 違うままつなぐ!」

薄青い雲。

金色の光板。

材質も。

重さも。

作った人も違う。

銀糸は境目だけを縫う。

独歩獣が一歩目を引く。

二歩目まで引かれる。

「ザンバ!」

「先と次を分ける」

灰旗が振られる。

《岐点》!」

黒い点が獣の口へ入る。

飲み込む道。

支える道。

二つへ分かれる。

獣は飲み込むほうだけを選ぶ。

メグの一歩を引く。

「ナギ!」

「返事を切らない!」

八つの鈴が鳴る。

『メグ、現在!』

『カナタ、現在!』

『一番雲、現在!』

『二番雲、現在!』

町々の声。

一つの先頭を応援する声ではない。

今、どこにいるかを互いに知らせる声。

独歩獣の白い顎へ、色の違う点が浮かぶ。

飲み込んでも、一つにならない。

「まだ!」

メグが二歩目を踏む。

今度は彼女の二歩目。

カナタは三歩目へ続く。

「俺の二歩目じゃない!」

「今は三歩目!」

「数が変わった!」

「順位じゃない!」

独歩獣が尾の残骸を振る。

第一歩号へ叩きつける。

船体が傾く。

カナタの足が光板から外れた。

「カナタ!」

メグが手を伸ばす。

今度は彼女が前。

カナタが後ろ。

指が届かない。

あと一歩。

メグは薄青い旗を突いた。

「カナタの手前!」

一人分の雲足場が生まれる。

カナタの足元。

「取られた!」

「助けた!」

「同じだ!」

「違う!」

カナタは足場を蹴る。

メグの横へ戻らない。

半歩後ろへ着地する。

独歩獣の口が、二人まとめて飲み込もうと大きく開く。

奥に、一つ目があった。

先頭しか見ない目。

「メグ!」

「何!」

「一歩目、借りる!」

「返してね!」

「返し方は!」

「次へ渡して!」

メグが旗を振り下ろす。

「標術――」

八つの足跡が、旗の上で輪になった。

一つ目が前へ。

二つ目が横へ。

三つ目。

最後の八つ目が、次の一つ目の位置へ移る。

《輪番》!」

メグの一歩が、カナタへ渡る。

先頭の印が、薄青い足跡から白旗へ移りかける。

カナタは受け取る。

だが、旗の中央へ置かない。

白旗の端。

金色の道の一つへ結ぶ。

「俺は今、先頭!」

独歩獣の目がカナタだけを見る。

口が閉じる。

「でも、一歩だけだ!」

カナタは獣の口へ飛び込んだ。

「カナタぁぁぁ!」

ルゥの絶叫。

白い顎が閉じる。

中は、足跡の墓場だった。

最初になれなかった一歩。

後ろへ置かれた足跡。

誰にも見られなかった修正。

全部が白く塗られ、《一番》の下へ積まれている。

「多すぎる」

カナタは白旗を掲げた。

「これを全部、一人の前に置いたのか!」

獣の内側から声が響く。

『先頭がいれば、迷わない』

『先頭がいれば、責任を持つ』

『先頭がいれば、後ろは安全だ』

「違う!」

カナタは走る。

足元に道は作らない。

誰かが置いた古い足跡を踏む。

一つ。

二つ。

名前のない足跡。

「後ろがいなきゃ、先頭は一歩で終わる!」

白旗を、一つ目へ突き立てる。

「標術――《未踏路》!」

今までなら、前へ出していた。

今度は後ろ。

「二歩目!」

古い足跡の後ろに、光板が生まれる。

一つ目が道になる。

白く塗られた足跡から、名前の違う色が戻る。水を読んだ足。風へ逃げた足。患者のため半歩遅れた足。拾うため後ろへ残った足。