第186話 第九章「誰かの一歩のあと」後編

獣の腹は一つの身体を保てず、八つの小さな前脚核へ裂けた。核は逃げながら、それぞれ自分の色の足跡へ張りつく。消滅はしない。輪番の中で、自分の番を長くする生き物へ姿を変えただけだった。

「あとで捕まえる!」とメグ。

「倒して終わりじゃないのか!」

「町の歩き方が戻れば、飼い方も見張り方も変わる!」

次の仕事が残ることも、勝利の一部だった。

別の足跡。

「二歩目!」

また一枚。

別の足跡。

「次!」

無数の一歩へ、次の一歩を重ねる。

白い墓場に金色の道が広がった。

独歩獣の腹が内側から裂ける。

『先頭を奪うな!』

「奪ってない!」

カナタは笑った。

「続いてるだけだ!」

外から、メグの声。

『カナタ! 次の先頭!』

「誰だ!」

『ルゥ!』

「私!?」

ルゥの声が裏返る。

『獣の中心を一番読める!』

「……受け取る!」

輪番の足跡がルゥへ移る。

銀鋲が独歩獣の裂け目へ入る。

「中心線は三本! 頭、口、旗の《先》!」

「どれを壊す!」

「全部壊したら町が落ちる! 口だけ外す!」

「ザンバ!」

「受け取る」

先頭がザンバへ渡る。

灰旗の黒い点が、三本の中心線を分ける。

「口の道を選べ」

「俺?」

「今はお前だ」

輪番がカナタへ戻る。

一巡した。

最初と同じ位置。

しかし、同じ一歩ではない。

ルゥが読み。

ザンバが分け。

ナギが返事を保ち。

メグが渡したあとの先頭。

「受け取る!」

カナタは白旗を両手で握る。

獣の口へ向ける。

「俺は最初じゃない!」

胸の痛みがある。

それごと叫ぶ。

「でも、今は俺の番だ!」

旗を振り下ろす。

《未踏路》――第二歩!」

金色の光板が、獣の一つ目の後ろへ生まれた。

前へ進ませない。

後ろから押す。

巨大な目が、初めて後ろを向く。

そこにいた。

二番雲。

三番雲。

八番雲。

自分が一つへ呑み込んだ町々。

独歩獣の瞳に、八つの現在地が映る。

白い《先》がひび割れた。

カナタは旗竿を構え直す。

「道を作るってのはな!」

天頂門で、ザンバへ言った言葉。

「自分が歩くだけじゃねえ!」

一歩踏み込む。

「相手にも、一歩踏ませることだ!」

旗竿を、白い《先》へ叩き込んだ。

紋章が砕ける。

独歩獣の口から、何千もの足跡が飛び出した。

一番。

二番。

最後尾。

数字も位置も消え。

それぞれの持ち主の旗へ戻っていく。

巨大な体が八つへ裂ける。

一番雲。

二番雲。

三番。

白い獣の皮膚が、歩雲の雲底へ戻る。

八つの町が空へ放り出された。

「ルゥ!」

「八つ全部は無理!」

「一つずつ!」

ルゥが銀鋲を投げる。

ザンバが落下路を分ける。

ナギが現在地を呼ぶ。

メグが輪番を掲げる。

「今の先頭、一番雲!」

レンが星図を開く。

『北北西、一歩!』

「受け取った!」

一番雲が新根へ足を置く。

「次、二番雲!」

スイが水の重さを読む。

『左へ半歩!』

二番雲。

三番。

八つの雲が、違う場所へ一歩ずつ置く。

同じ足跡へ重ならない。

螺旋のように並ぶ。

最後。

八番雲。

右歩脚は、まだ欠けたまま。

「足がない!」

メグが叫ぶ。

「第一歩号!」

カナタは獣の腹から飛び出した。

つぎはぎの船が、雲綿を撒きながら下へ来る。

「また履かせるの!?」とルゥ。

「一歩だけ!」

「船底が壊れる!」

「あとで直す!」

「誰が!」

「ルゥ!」

「決めるな!」

第一歩号が八番雲の欠けた足元へ滑り込む。

船首の二枚鍋蓋が雲底へ触れる。

船全体が、一歩分の靴になる。

「メグ!」

「八番雲、前へ!」

町の人々が息を合わせる。

ど、おん――。

最後の一歩。

八番雲が新根へ乗った。

その足跡は、螺旋の一番先に置かれた。

一巡の最後。

次の最初。

薄青い旗が大きく開く。

八つの足跡が、互いの後ろへ続く輪になる。

中央には、誰のものでもない小さな空白。

標術《輪番》

新しい先頭を渡し続ける旗。

独歩獣の最後の白い雲が、静かにほどけた。

独歩獣がほどけたあとも、歩雲群は落ち続けていた。

獣の形が消えただけだ。

白い前脚核は八つ残っていた。掌ほどの大きさで、各雲の歩脚へ一体ずつ張りつき、七つの小石を並べては八つ目を探す。今は町を呑む力がない。だが自分の担当歩が終わっても爪を離さず、次の足跡へ渡るのを嫌がった。

ホロは糸網へ一体を入れ、《補助脚候補・観察中》の札をつける。

「餌は?」とカナタ。

「固定された先頭札。だから与えない」

「使える?」

「一巡だけ足場を固める。二巡目を欲しがる」

利用可能性と再巨大化の危険を、同じ札へ書いた。

八つの歩雲は、本来の足場から外れ。

橋は切れ。

町は傾き。

人々は、どの雲へいるのかさえ分からないまま、根抜け野へ散っている。

「全員、助かった!」

カナタが叫ぶ。

「まだ言わない!」

ナギの声が飛ぶ。

第一歩号の甲板へ戻った響路士は、八本の鈴を両腕へ巻いていた。

一本はひび割れ。

二本は音が濁り。

最後の一本には、八番雲の雲綿が詰まっている。

それでも、全部を別々に鳴らす。

「助かったって言えば元気が出る!」

「返事がない人を、助かったことにしない!」

カナタの口が止まる。

夜色の五番旗が、帆柱で揺れた。

リラの《在標》

今いる者を数える旗。

自動で全員を見つける力ではない。

本人の返事。

近くにいる者の確認。

それでも分からない場所は、空白のまま残す。

「一番雲!」

ナギが呼ぶ。

レンの返事。

『観測塔、現在! 東区の家屋が三棟、位置未確認!』

「カイラ!」

一呼吸遅れて声。

『一番雲の下縁。現在』

「何してる!」

『落ちた人を拾っている!』

先頭を終えたばかりの女は、すでに後ろへ回っていた。

紺外套の裾を縄にし。

崩れた観測台へぶら下がり。

雲の縁から滑った老人を引き上げている。

「指示を!」

近くの航路士が叫ぶ。

「今、誰が一番見える!」

『私です!』

「なら、お前が言え!」

返したあと、カイラ自身が驚いたように黙った。

命令を渡した。

しかも、役目の名前も知らない若者へ。

老人を引き上げる手は離さない。

「カイラ、現在を保持!」

ナギが鈴へ記す。

「二番雲!」

『貯雨池、現在!』

スイの声。

『水路師二名、三番雲側へ流された! 返事あり! 戻す道なし!』

「三番雲!」

『畑区、現在!』

フウカ。

『二番雲の二人、見えてる! こっちで受け取る!』

「スイ、渡す?」

『渡す!』

「フウカ、受け取る?」

『受け取る!』

二つの鈴の間に、短い音路が生まれる。

ルゥが銀鋲を投げた。

《継ぎ路》!」

二番雲の水路と、三番雲の畑柵を、一時的な渡りへつなぐ。

水路師二人が、濡れたまま畑へ転がり込んだ。

「二番雲、二名確認!」

ナギが空白を埋める。

「四番雲!」

『炉前、現在!』

ガク。

『主炉は止めた! 補助炉一基が五番雲へ落ちる!』

「五番雲!」

『住居区、現在!』

イオの声。

『炉はいらない!』

「受け取らない?」

『受け取らない! 家が焼ける!』

「今の返事!」

ナギは消さない。

「ザンバ!」

灰旗の男は、すでに第一歩号の船尾から飛び出していた。

「分ける」

黒い点を、落下する補助炉の前へ置く。

《岐点》!」

炉の落下路が二つになる。

一つは五番雲。

一つは、何もない根抜け野。

「どっちを選ぶ!」

カナタが訊く。

「俺ではない」

「ガク!」

ナギが呼ぶ。

『外へ! 炉は直せる! 家は戻らない!』

「イオ!」

『受け取る!』

「何を?」

『炉を捨てる判断!』

ザンバが黒い点を蹴る。

補助炉は町を外れ、暗い空へ落ちた。

ガクの声が震える。

『四番雲、補助炉一基、喪失』

「現在記録」

ナギは《無事》へ直さない。

失ったものも、今の状態として残す。

「六番雲!」

『鐘塔、現在!』

トウカ。

『現在鐘、七本! 一番鐘の槌がない!』

「槌ならここ!」

カイラの声。

一番雲の下縁で、老人と一緒に金色の槌を拾っていた。

「返せる?」

『今は無理だ!』

「トウカ、待てる?」

『待つ! 別の棒で鳴らす!』

六番雲から、不格好な鐘が鳴る。

木の棒で叩いた、鈍い音。

正しい音ではない。

けれど、今いる者には届く。

「七番雲!」

『治療所、現在!』

リツ。

『負傷者四十三! 寝台が足りない! 治療師四名、位置未確認!』

「返事は?」

『二名あり! 一名、四番雲! 一名、声だけ!』

ナギは声だけの音へ耳を澄ませる。

こん。

こん。

弱い二音。

場所を言えない。

「五つ叩ける?」

返事。

こん。

こん。

三つ目がない。

「動けない」とルゥ。

銀鋲を音路へ当てる。

「切れてる。でも、向こう側がある」

「俺が行く!」

カナタが白旗を抜く。

「場所は!」

「声の先!」

「ナギ、聞こえる方角!」

ナギは鈴を左右へ振る。

一番雲。

二番。

音が反射する。

「八番雲の下!」

「メグ!」

カナタが呼ぶ。

「今、どこ!」

『八番雲、靴箱前!』

「下に治療師!」

『見えない!』

「誰が見える!」

メグは町を振り返る。

ホロ。

チコ。

雲底へ潜る仕事をしてきた者たち。

『ホロ!』

『受け取る!』

老雲底師が、何を受け取るか訊く前に縄を巻いた。

「場所を読む先頭はホロ!」