第187話 第十章「八番目の旗」前編

カナタは言う。

「俺は次!」

白旗を八番雲へ向ける。

「ホロの前じゃない! ホロの次!」

一歩分の光板。

雲底へ潜るホロの踏み舟の後ろへ出る。

第一歩号が続く。

八脚はまだない。

船底へ残った独歩獣の雲足が、仮の爪を作る。

八番雲の裏側。

白い洞窟。

ホロが雲針で音を探る。

「右」

「右!」

カナタが道を出す。

「違う。雲の右」

「今どっちだ!」

「私の右」とメグ。

「お前、前にも言った!」

「聞いて!」

ナギの響路が、弱い二音を拾う。

ルゥが銀糸でつなぐ。

ホロの針が、雲綿の奥で硬いものへ当たった。

壊れた寝台。

その下に、治療師。

さらに、小さな子どもが一人。

治療師は、自分の体を寝台へ挟み、子どもを守っていた。

子どもを最初に見つけたのはチコだった。右眉側が見えにくいため一度通り過ぎ、雲糸へ引っかかった片方の靴で気づいた。

「見えてなかった。だから、もう一回戻った」

失敗を隠さず言い、曲がらない左薬指で三つ折り結びを作る。怖さで説明が長くなり、「靴は赤で、紐は二本で、たぶん五番雲の――」と続けかけたところをホロが鍵束二音で止めた。

「今は結ぶ」

「受け取った」

十歳の拾い手は、正解ではなく現在の仕事へ戻った。

「見つけた!」

カナタが雲綿を掘る。

「先に子ども!」と治療師。

「受け取る!」

メグが子どもを抱える。

「次、治療師!」

「俺!」

カナタが手を伸ばす。

「次、寝台!」

「それも俺!」

「船長は一人!」

「腕は二本!」

ザンバが後ろから寝台を持ち上げる。

「一人で全部を持つな」

「今は二人!」

「数の問題ではない」

八番雲の表へ戻る。

七番雲のリツが治療師と子どもを受け取る。

「四名、全員確認!」

ナギの七番鈴が白く光る。

残るのは、八番雲。

「八番雲!」

『靴箱前、現在!』

メグ。

『雲底、現在!』

ホロ。

『門前、現在!』

町の人々。

「チコ!」

返事がない。

メグの顔色が変わる。

「さっきまで、靴箱にいた」

「本人の返事なし」

ナギは空白を残す。

「見た人!」

『独歩獣がほどけたとき、白い板を追ってた!』

「どっちへ!」

『新根側!』

カナタが飛び出そうとする。

メグが先に旗を突いた。

「チコが追った板の道!」

薄青い雲足場。

カナタは半歩待ち、その後ろへ光板を置く。

「チコの次!」

「チコが先頭じゃない!」

「行き先を残した!」

「それなら合ってる!」

二人は新根の端へ走る。

そこには、八番雲の古い靴板が一枚、根へ刺さっていた。

下から、小さな音。

こん。

一つ。

こん。

二つ。

五つ。

「今、ここ!」

チコの声。

靴板の裏。

細い隙間に挟まっている。

腰の縄が新根の突起へ絡み、空へ落ちずに済んでいた。

「遅い!」

引き上げられたチコは、泣きながら怒った。

「三回叩いた!」

「五つだろ!」

「三回、五つ叩いた!」

「十五!」

「数えてる場合!?」

メグが抱きしめる。

チコは一呼吸だけ大人しくなり。

すぐ弁償板を指した。

「第一歩号、また靴箱を踏んだ!」

「助けに来た!」

「別会計!」

「厳しい!」

ナギの八番鈴が薄青く光る。

「八番雲、全員確認!」

八つの大きな点。

その中に、数えきれない小さな現在地。

負傷。

喪失。

別の雲へいる者。

今は返事のできない者。

すべて同じ《無事》にはならない。

それでも、誰も空白のまま置かれていない。

「歩雲群ヤエ、全雲確認!」

ナギが宣言する。

八つの町から、違う歓声が返る。

一番雲では泣く声。

二番雲では水を叩く音。

四番雲では炉槌。

七番雲では静かな息。

八番雲では、チコの弁償額。

「最後だけ歓声じゃない!」

「現在!」

カナタは笑った。

今度こそ。

けれど、すぐには「全員助かった」と言わない。

「全員、今いる場所を確認した!」

「正しい」

ナギが頷く。

カイラが一番雲から歩いてきた。

先頭塔の紺外套は破れ。

腕には、拾った六番雲の鐘槌。

「返す」

トウカへ差し出す。

「受け取る!」

槌が鐘塔へ戻る。

今度は正しい音。

八つの現在鐘が一つずつ鳴った。

同じ音ではない。

同じ時刻を知らせる必要もない。

互いが今いることを返す鐘。

新根の端で、メグが金属片を見つけた。

薄青い雲錨。

半分曲がり。

側面に、小さな刻印。

――セト。

「父さん」

カイラの足が止まる。

ナギが雲錨へ耳を当てる。

何も鳴らない。

残響も。

現在の返事も。

「ここまで来たのかな」

メグが訊く。

「分からない」

ナギは答える。

「錨だけ流れたかもしれない。セトが置いたかもしれない」

カイラは金属片へ手を伸ばす。

触れる直前で止めた。

「先頭だった頃なら、答えを決めていた」

「今は?」とメグ。

「由来未確認」

「長い」

「正しい」とナギ。

メグは雲錨を拾い上げた。

自分の旗へ結ばない。

新根の見つかった場所へ、小さな標柱を立てる。

――セトの雲錨らしき物。

――現在、返事なし。

――見つけた場所に保管。

最後に、空白の欄。

次に分かったことを書くため。

「この場所、何て呼ぶ?」

カナタが訊く。

「第一根台!」

「却下」と八つの町。

「まだ言ってない!」

「顔で分かった」とザンバ。

ルゥは白い帳面へ、仮の名を書く。

――新根台。

「仮?」

「今は」

「もっと格好よく!」

「住む人が決める」

「俺たちが見つけた!」

「メグたちが」

「俺は二歩目!」

「だから二番目」

「順位じゃない!」

自分で言ってから、カナタは少し誇らしくなった。

夕方のない根抜け野で、星の光が薄くなる。

八つの歩雲は、新根台の周囲へ一つずつ足を置いた。

重ならない。

離れすぎない。

螺旋のように並ぶ。

全員の現在地を確かめたあとで。

ようやく、到着の鐘が鳴った。

歩雲群ヤエが新根へ乗りきり、八つの現在が確認されたころ。

根抜け野の星明かりは、夕方のように少しずつ薄くなっていた。

太陽は見えない。

それでも、長い一日が終わろうとしていることは分かった。

それでも八つの町では、仕事を終える鐘が鳴った。

今までなら、一番雲の命令鐘が全雲へ同じ音を送った。

その日は違った。

一番雲。

低い一音。

二番雲。

水滴のような二音。

三番雲。

風に揺れる三音。

八番雲まで、違う鐘が順番に鳴る。

最後に、六番雲のトウカが全音をもう一度返した。

終わりの確認。

八つとも、現在。

第一歩号は八番雲の修理場へ刺さっていた。

「着雲……」

船首から、カナタの腕だけが出ている。

「最初と同じ!」

メグが雲綿を掘る。

「違う!」

カナタは引き抜かれながら胸を張る。

「今度は先頭を譲ってから刺さった!」

「刺さらない選択は?」

「次!」

「今、選んで!」

第一歩号の船底は白い雲で半分埋まり。

二枚鍋蓋は八番雲の足型へぴたりとはまり。

帆には一番雲の観測紙。

二番雲の水袋。

三番雲の風見布。

四番雲の炉板。

五番雲の洗濯物。

六番雲の鐘索。

七番雲の包帯。

八番雲の弁償板。

八つの町を一度に通った証拠が、全部ついていた。

「船というより、落とし物置き場」

チコが言った。

「八番雲にぴったり!」

カナタが喜ぶ。

「船は返して」とルゥ。

ホロが船底を覗く。

「右側は雲で作り直せる。左側は板が要る」

「どっちが早い?」

「両方直すのが早い」

「一つに決めないのか!」

「壊れ方が違う」

「この町、分かってる!」

「主にあんたの船で覚えた」とメグ。

少し離れた場所に、カイラがいた。

先頭塔の紺外套を脱ぎ。

八番雲の白い作業着を着ている。

右の白靴と左の黒靴はそのままだった。先頭を終えたからといって、十二年で変わった身体が一夜で戻るわけではない。後ろへ三歩歩くと眩暈がし、作業着の袖を掴んで止まる。

メグは支えず、隣で八つ数えた。一から八。カイラは四つ目で目を閉じ、六つ目で吐き気をこらえ、八つ目に初めて八番雲の端を正面から見た。

「毎日やるのか」

「母さんが決める」

「一日二度」

命令口調へ戻りかけたが、自分の訓練範囲だけに留めた。先頭を譲るとは、人格が急に柔らかくなることではない。身体と口調へ染みついた独占を、仕事のたびほどくことだった。

似合っていなかった。

本人も分かっているらしく、何度も袖を引いている。

「歩頭長」

町の人が呼ぶ。

カイラは反射的に振り向く。

すぐに顔をしかめた。

「その呼び方は、終えた」

「では、何と」

「カイラでいい」

言った本人が、一番困った顔をした。

メグが近づく。

「母さん」

「仕事中は――」

言いかける。

役職がない。

「母さんでいい」

「それは前から」

「そうだったか」

「忘れないで」

カイラは八番雲の端を見る。

新根へ乗るとき落ちた道具が、雲の縁にいくつも引っかかっている。

ホロたちが拾いに行く。

「何をすればいい」

「拾う」

「誰の命令で」

「落とした人の名前を見て」

「優先順位は」

「危ないものから」

「判断は誰が」

「見つけた人」

カイラの眉間に皺が増える。

「規則が少なすぎる」

「八番雲へようこそ」

メグが笑った。

カイラは笑わなかった。