第188話 第十章「八番目の旗」後編
だが、作業着の袖をまくった。
最初に拾ったのは、片方だけの子どもの靴だった。
靴の脇では、小型のヒトアシが一体、三番雲札へ爪を立てていた。カイラが引き剥がそうとすると、前脚だけを大きくして抵抗する。
「力で取ると、先頭札の匂いが濃くなる」とホロ。
「では?」
「次の担当札を見せる」
メグが《拾い手・カイラ、一件終了》と書き、《返送・明朝チコ》の札を隣へ置く。小獣は二枚の間を嗅ぎ、しぶしぶ爪を離した。
終わりと次の受取人が明確なら、獣も一つの足へ肥大しにくい。人間の制度変更が、生態の餌場を変えていた。
靴底に《三番雲》の札。
「返送路へ」
「今は夜。明日の便」
「今日中に返せる」
「持ち主は裸足で寝てるかも」
カイラは靴を見る。
「……急送する」
「判断できた」
「これくらいはできる」
「一歩目」
「数えるな」
その夜、八番雲の中央に八つの町の代表が集まった。
一番雲からレン。
二番雲のスイ。
三番雲のフウカ。
四番雲のガク。
五番雲のイオ。
六番雲のトウカ。
七番雲のリツ。
八番雲のメグ。
円形の踏み替え場。
中央には、誰も立たない。
中央の空白には、八つの小型ヒトアシを入れた糸籠が置かれた。どの個体も前脚の形が少し違う。一番核は星針へ鼻先を向け、二番核は水袋の湿りへ爪を伸ばし、八番核だけは籠の後ろへ落ちた小石を拾っていた。
人間の役目が分かれれば、獣の反応も分かれる。だが安全になったわけではない。レンが話し始めると一番核だけが膨らみ、スイの判断が終わっても二番核は水量札から離れない。メグは終了札を裏返し、次の受取札を隣へ置いて、一体ずつ爪が移るまで待った。
「怪物の会議参加?」とカナタ。
「観察対象」とナギ。
「仲間候補?」
「人間の都合で決めない」
ホロが籠の鍵を二度鳴らす。
「使えるから飼う。危ないから殺す。どちらも先に人間の答えを置いている。まず、何を食い、いつ離れ、何で大きくなるかを見る」
輪番の中央が空いているのは、誰も永遠の先頭へ立たないためだけではない。まだ答えを持たない生き物と失敗のために、決め切らない場所を残すためでもあった。
八人は外側へ並んだ。
「先頭を決める」
レンが言う。
「今、決めたらまた固定になる」とメグ。
「根を読む間は私が必要だ」
「水が来たら私」とスイ。
「風が変われば私」とフウカ。
「壊れたら俺」とガク。
「家を移すなら私」とイオ。
「返事を集めるなら私」とトウカ。
「怪我人が出たら私」とリツ。
全員がメグを見る。
「後ろで、ずれを見る」
「先頭ではないのか」とレン。
「今は、新根の最初を踏んだ。でも次も私とは限らない」
薄青い旗を広げる。
八つの足跡。
一つずつ、前へ移れる。
「《輪番》は、八日ごとに順番を替える術じゃない」
「輪なのに?」とカナタ。
円の外から口を出した。
「会議中」とルゥ。
「俺も先頭を譲った!」
「ヤエの人じゃない」
「第一歩号を足にした!」
「弁償する側」
「参加資格が減った!」
ザンバが襟を掴み、円から下げる。
「聞け」
「俺の意見は!」
「あとで一人で言え」
メグは続けた。
「必要な人が前へ出る。終わったら渡す。受け取る人が返事をする」
「受け取る人がいなければ?」とイオ。
「止まる」
「急ぐときは?」
「急いで返事を取る」
「全員が違うと言ったら?」
「違うって記録する」
トウカが青い帳面を開く。
ナギから借りたもの。
四つの欄がある。
現在地。
行き先。
渡す者。
受け取る返事。
その下に、ルゥが一欄増やした。
――未解決。
「これ、何?」とレン。
「反対や分からないことを、消さずに残す欄」
「決定の邪魔になる」
「次に見直す材料になる」
「四番目の旗」
メグが灰青色の小旗を見る。
「未完成を、次へ渡す」
「書くものが増える」とガク。
「字が苦手?」とカナタ。
「お前に言われたくない」
「俺は名前が書ける!」
「一つだけ」と全員。
会議の最後。
メグは自分の旗を踏み替え場へ立てた。
本物の八番旗。
薄青い布。
八つの足跡が、前後を入れ替えながら輪を作る。
「これは、ヤエに置く」
カナタは少し寂しそうに旗を見る。
「持っていかないのか」
「先頭は持ち歩かない」
「二番目の旗みたいだな」
「この旗は、先頭を渡す場所にいる人が使う」
メグは小さな布を八枚持ってきた。
紺。
青。
緑。
鉄色。
橙。
白。
赤。
薄青。
八つを円形に縫い合わせる。
中央は空けたまま。
「写し」
第一歩号の帆柱へ結ぶ。
「八番目の旗」
風が吹く。
八色の小旗は、どの布が先頭か決めずに回った。
カナタは白旗の中央を見る。
無数の道の紋。
その端に、薄青い足跡が一つ増えている。
少し後ろへ、金色の足跡。
二つは順位ではなく、続きとして並んでいた。
独歩獣がほどけて、三日目。
歩雲群ヤエは、新根台の周囲で最初の《輪番》試行を始めた。
前夜の会議では、「必要な役目を持つ者が前へ出る」と決めた。
ところが朝になると、誰が必要かを誰が決めるのかで、最初の一歩から止まった。
そこで試行だけは分かりやすくしようと、一度目の規則を簡単にした。
八人が、決めた順番で先頭を受け取る。
一人、五十呼吸。
一番雲のレン。
二番雲のスイ。
三番雲のフウカ。
四番雲のガク。
五番雲のイオ。
六番雲のトウカ。
七番雲のリツ。
八番雲のメグ。
「分かりやすい!」
カナタが円形の踏み替え場で胸を張る。
「順番なら、誰が一番か分かる!」
「一番を八人へ増やしただけじゃない?」とルゥ。
「交代する!」
「何を交代するの?」
「先頭!」
「先頭の何を?」
カナタの口が止まる。
レンが星図を掲げた。
「試せば分かる」
最初の五十呼吸。
レンは新根の星脈を読み、八つの雲へ北北西の足跡を示した。
「先頭、スイへ!」
「受け取る!」
二番雲の雫旗が光る。
スイは貯雨池の重さを左へ移した。
だが、レンは星図を下ろさなかった。
「北へ二指!」
「水は右へ寄せる!」
二つの指示が同時に来る。
一番雲は北へ。
二番雲は右へ。
間の橋がねじれた。
「渡したんじゃないの!?」とメグ。
「星図は私の仕事だ!」とレン。
「先頭を受け取ったら、全部を決めるのかと思った!」とスイ。
五十呼吸が終わる。
「先頭、フウカ!」
「受け取る!」
三番雲の風旗が光る。
そのとき、風はほとんどなかった。
フウカは小さな横風を見つけ、全雲を西へ向けようとする。
「今は水の傾きを戻して!」とスイ。
「私の五十呼吸!」
「何の先頭か聞いてない!」
次はガク。
炉橋の修理を始めたが、前の三雲はまだ向きがそろわない。
イオへ渡ると、五番雲の家屋区だけを安全路へ動かした。
ほかの雲は止まると思い、一番雲は進むと思った。
トウカは八つの返事を取ろうとしたが、先頭だから進路も決めるよう求められた。
「私は鐘守!」
「今は先頭だ!」とレン。
「どっち!」
リツの五十呼吸では、転んだ子ども一人のため全雲を停止した。
止める必要があったのは、七番雲の治療橋だけだった。
最後にメグ。
八つのずれを見て、螺旋へ並べ直そうとする。
しかし、渡し終えた七人が全員、まだ自分の指示を出していた。
「北!」
「右!」
「風は西!」
「炉橋を踏むな!」
「家を揺らさないで!」
「返事を先に!」
「治療橋を止めて!」
「一度、黙って!」
メグの叫びが八つ目に加わった。
歩雲群は一歩を踏んだ。
一番雲は北。
二番雲は右。
三番雲は西。
四番雲は停止。
五番雲は内側。
六番雲は返事待ち。
七番雲は治療橋だけ停止。
八番雲は全体を螺旋へ。
八つの光索が一斉に張った。
どおおん――。
新根台の外周橋が一本折れた。
貯雨池の水が三番雲の畑へ半分こぼれる。
五番雲の吊り家が二棟、隣の支柱へぶつかった。
負傷者はいない。
だが、試行は一刻も続かなかった。
メグにも失敗があった。最後の五十呼吸で、七雲のずれを読む仕事を誰にも渡さず、自分が先頭になっても八歩ごとに後ろを見続けた。前を見る一拍が遅れ、八番雲の発着橋を新根の突起へ擦った。
「みんなが渡したと思ってた、だけじゃない」
欠けた犬歯を唇へ当て、言い直す。
「後ろを見る役を渡したら、私の得意なものがなくなると思った」
レンも靴先を隠しながら認めた。
「星図を下ろしたら、選ばれた証拠が消えると思った」
スイは水量、フウカは風、ガクは修理、イオは家、トウカは音、リツは治療。全員が仕事ではなく自分まで渡されると誤解していた。橋の損傷は、八人それぞれの恐れが別の方向へ引いた結果だった。
「輪番、停止!」
ナギが八本の現在鐘を鳴らす。
全雲が、それぞれの位置で止まった。
カナタは折れた橋を見た。
「順番どおりだったぞ」
「順番だけだった」とルゥ。
踏み替え場の中央に、八人が集まる。
誰も最初に口を開かなかった。
渡した側も。
受け取った側も、失敗の理由を一つに決められない。