第189話 第十一章「八つの足音」前編

カイラが白い作業着の袖をまくった。

「渡したあと、何をすればいいか分からなかったのだろう」

レンが星図を見下ろす。

「黙れば、私の地図まで捨てられる気がした」

スイは濡れた靴を脱ぐ。

「受け取ったのが、水の判断だけか、町全体か分からなかった」

フウカ。

「順番が来たから、風が弱くても何か決めなきゃいけないと思った」

ガク。

「渡し終える時刻だけあって、修理を終える条件がなかった」

イオ。

「家の安全と全雲の速さを、同じ先頭だと思った」

トウカ。

「返事を集める間に、進路を決めろって言われた」

リツ。

「怪我人一人を守るには、全部を止めるしかないと思った」

メグは八人の顔を見る。

「私は、みんなが渡したと思ってた。みんなは、置いていかれると思ってた」

カイラが目を伏せた。

「先頭を離したあとに役目がなければ、手は前へ戻る」

「分かる!」

カナタが大きく頷く。

「俺も二歩目って言われると、前へ出たくなる!」

「今も出てる」とルゥ。

「経験者!」

「失敗側のね」

ナギは青い帳面を開いた。

一度目の記録を消さない。

その下へ、新しい欄を増やす。

――現在地。

――行き先。

――渡す役目。

――役目の終わり。

――渡したあとの役目。

――受け取る返事。

「名前だけじゃ足りない」

トウカが六本の欄を読む。

「先頭って言葉も?」

「必要な仕事を言う」

「渡した人は?」

「消えない。次の役目へ移る」

二度目の試行は、壊れた橋を直した翌朝に行われた。

最初はレン。

「現在地、新根第二節」

「行き先、休雲地シラネ」

「渡す役目、星根を読む航路判断」

「終わり、青い脈杭まで」

「渡したあとは、星図の記録と後方報告」

「受け取る」

レンが返した。

八つの歩雲は、青い脈杭まで進む。

到着したとき、レンは次の判断を自分で続けなかった。

「水の重さが変わる」

報告だけを送る。

次はスイ。

「渡す役目、貯雨池と全雲の荷重調整」

「終わり、二番雲の左右が同じ高さになるまで」

「渡したあとは、水量を一歩ごとに返す」

「受け取る!」

スイは水を抜く。

レンは星図を消さず、前へ命令もしない。

「左の根が薄い」

報告。

「受け取った。右へ水を三割」

スイが判断する。

水がそろう。

横風が強くなった。

フウカへ。

「渡す役目、三歩ぶんの風路」

「終わり、畑帆が正面へ戻るまで」

「渡したあとは、風見を継続」

「受け取る!」

三歩だけ斜めへ。

終われば、フウカは先頭を抱え続けない。

「次の橋、炉熱が不足」

ガクへ。

「渡す役目、炉橋の通過判断」

「終わり、八雲の最後尾が橋を越えるまで」

「渡したあとは、留め具確認」

「受け取る!」

橋を渡る。

ガクは最後の雲が越えるまで前に立つ。

越えた瞬間、自分から旗を下ろした。

「ここまで。家屋区へ渡す」

イオ。

「渡す役目、吊り家と住民の移動」

「終わり、最後の家と全員の返事」

「渡したあとは、住民数を確認」

「受け取る!」

家は同じ速さで動かなかった。

老人の家はゆっくり。

子どもの多い棟は、橋を二本使う。

イオは全雲を同じ歩幅へしなかった。

最後の家が着く。

「全員返事あり。鐘路へ渡す」

トウカ。

「渡す役目、八つの現在路」

「終わり、全雲が別々に受取返事を返すまで」

「渡したあとは、音路を保持」

「受け取る!」

八つの鐘。

同じ音にしない。

一番雲。

二番雲。

八番雲まで、すべて返る。

その途中、七番雲で子どもが転んだ。

各雲の小型ヒトアシも、担当が替わるたび前脚を伸ばした。レンの核は青い脈杭を越えても星図札を離さず、スイの核は水がそろったあとも一滴ぶん長く踏もうとする。

トウカが終了鐘を一音、受取鐘を一音、別々に鳴らす。メグは前任札を外さず《終了》へ裏返し、次任札をその横へ置く。小獣は二枚の間を行き来し、最後に爪を移した。

「毎回こんなに手間がいる?」とカナタ。

「手間を省いて十二年」とメグ。

小獣は一巡だけ雲脚を固める。二巡目を許せば大きくなる。輪番制度には、人だけでなく獣の担当終了も記録する欄が加わった。

リツへ渡す。

「渡す役目、治療橋と歩幅」

「終わり、子どもが寝台で橋を越えるまで」

「渡したあとは、治療を続ける」

「受け取る!」

止まるのは、治療橋と隣の一歩だけ。

ほかの雲は、返事を取りながら進む。

子どもが橋を越え、リツが旗を下ろす。

最後。

メグ。

「渡す役目、八つのずれと到着場所」

「終わり、休雲地へ八つの足跡が置かれるまで」

「渡したあとは?」とレン。

メグは少し考える。

「次の状況を、後ろから見る」

「受け取る?」

「受け取る!」

休雲地シラネは、一つの港では狭かった。

メグは八つの到着点を円にする。

一番雲。

三番雲。

二番雲。

予定どおりの順番ではない。

七番雲は、治療橋のぶん遅れた。

それでも全雲が着く。

最後の足跡が置かれたところで、メグは旗を下ろした。

「ここまで」

八人全員が、短い区間で先頭を受け取った。

誰も、前の人の仕事を消さなかった。

誰も、渡したあとに黙らされなかった。

カイラは最後尾から、八つの足跡を見ていた。

「渡す側も、返事が要るのだな」

「何の?」とカナタ。

「自分の仕事が、次でどう使われるか」

「心配?」

「心配だ」

カイラは否定しなかった。

「だが、心配だから先頭へ戻るのと、後ろから報告するのは違う」

「俺も今度から報告する!」

「まず黙る練習」とルゥ。

「役目がない!」

「見張る」とザンバ。

「何を?」

「自分が追い越さないか」

「難しい!」

休雲地の夜。

ヤエの人々は、最初の《輪番記》を作った。

成功だけではない。

一度目に折れた橋。

こぼれた水。

吊り家の傷。

渡したくなかった理由。

受け取る範囲が分からなかったこと。

二度目に加えた役目と終わり。

最後の欄には、こう書かれた。

――次の先頭は、順番ではなく、次に必要な役目で決める。

固定された名前はなかった。

休雲地シラネへ着いた翌朝。

ナギの響路鈴が、六回鳴った。

カゲノハ村の六つ鐘。

全員が甲板へ集まる。

第一歩号の帆柱には、連標網の小さな受信輪がついていた。

トマリギ島。

三番港。

ミナモ。

無灯泊。

迎え岸。

双灯港。

歩雲群ヤエ。

それぞれの中継点を渡り、遠い村から今日の音が届く。

「古い記録?」

カナタが訊く。

「今鳴ったのは、現在の応答」

ナギは鈴へ耳を当てた。

「アカリ」

青い輪の中央に、小さな光景が浮かぶ。

カゲノハ村。

カナタの記憶より明るい。

新しい朝火窓が枝葉の隙間へ伸び、薄い日差しを集めている。

広場の形も違う。

昔、巨大な苔玉があった場所には、小さな発着台。

その横に、木造の宿。

看板には大きな鍋蓋が描かれていた。

「俺の翼!」

『違う』

アカリの声が返る。

「見えるのか!?」

『聞こえてる。たぶん、また鍋って言われた顔してる』

「翼だ!」

『宿の印は鍋。旅人にご飯を出すから』

「同じ形だろ!」

『用途が違う』

「ルゥみたいなこと言う!」

「正しいから」とルゥ。

光景の中のアカリは、背が伸びていた。

短い黒髪の下、首筋の古い火花傷が三つ見える。左手で現在図を書き、右手で受取札を渡す。人名札の角はすべて丸い。間違えた古線は消さず、赤糸で囲われていた。

返事の途中、アカリは一度薬箱へ手をついた。立ちくらみ。以前なら映像の外へ隠したが、今回は自分から言う。

『体調、十呼吸休止。現在地は変わらない』

故郷側の運用者も、記録する人だけが記録から外れないようになっていた。

肩に配達袋。

腰には、カナタが熱冷ましを届けたときの古い薬箱。

角がへこみ。

留め具は新しいものへ替わっている。

背には黄緑色の《宛標》。今朝の札には、村外便の受取人名が書かれていた。

旗は、画面の外へ弱く傾いている。

「それで俺を引っぱれる?」

『無理』

「早い!」

『宛標は、現在図に名前があって、今返事をした受取人の方角だけ。帰還路を越えないし、今ここにいない人の道も作らない』

「帰ったら返事する!」

『帰る前に道へ入ったら遅い』

隣にはセノ。

ルゥが置いていった作業机を使う見習い。

机の脚へ、勝手に車輪をつけていた。

「それ、私の机!」

『今は共同机』とセノ。

「車輪はいらない!」

『動かせる』

「机は止まって使う!」

『第一歩号の機巧師が言う?』

ルゥが黙る。

カナタが笑う。

「負けた!」

「何が!」

アカリは新しい橋の前に立っていた。

古い薬師橋は、前の旅の間に通行を終えた。

今あるのは《薬師渡り》。その先へ、村外定期便の白杭が増えている。

『二十七軒と、朝雫宿まで全部届けた』

「おお!」

『最後の家は、前の道と場所が違ってた』

「迷った?」

『一回』

「俺と同じ!」

『私は止まって地図を直した』

「俺も地図は――」

「読める?」とルゥ。

「今、覚えてる!」

アカリは紙を響路へかざした。

今日のカゲノハ村の地図。

カナタが出発した日の形とは、かなり違う。