第190話 第十一章「八つの足音」後編
発着場が二つ。
新しい宿。
薬師渡り。
村外便の白杭。
天頂門へ向かう安全階段。
外から来た旅人の家。
旧広場の一部は、荷物置き場になっている。
「俺の家は?」
『ある』
「変わってない?」
アカリが少し考える。
『屋根を直した』
「ほかは?」
『窓を増やした』
「ほか!」
『ルゥの古い部品と、旅人宿の予備荷を置く棚にした』
「俺の家!」
『誰も住んでない家を、空のままにはしない』
「帰ったら全部どける!」
『使ってる人に聞いて』
「俺の家だぞ!」
『今は村の倉庫』
カナタの声が一音低くなった。
「俺の家が?」
右足が前へ出る。古い戸口へ未踏路をつなごうとする身体の反射。白旗の中央ではなく端をつまみ、止める。
昔の家がなくなることと、自分の帰る場所がなくなることを、同じにしたくなる。アカリは慰めのため「残してある」とは言わなかった。
『屋根板は旅人宿の修理に使った。背丈の傷がある柱は、今の発着場にある』
「家じゃない」
『うん。今の村で、どこへ帰りたいかは、帰ってから聞く』
すぐには笑えない。カナタは古い地図を上着へ戻し、返事だけした。
「受け取った」
「帰れば俺の家!」
『帰ってから話す』
カナタは現在図の家を睨む。
胸の奥に引っかかるものはあった。
けれど、その形を考える前に、競争のような顔へ戻った。
「先に着けばいい!」
「誰と競うの」とルゥ。
「村!」
「村は走らない!」
ザンバが響輪の端へ顔を出す。
「弁償板を置く場所は残っているか」
『ザンバへ。屋根板三十七枚、橋板九枚、祭壇の石二枚』
「増えている」
『利息』
「誰が決めた」
『村長』
「帰らない理由が増えた」とザンバ。
「払え!」とカナタ。
『帰ってからでいい』
アカリの声が少し柔らかくなる。
『その代わり、帰るときは連絡して』
「驚かせたい!」
『だめ』
「なんで!」
『昔の発着場は宿になった。突っ込んだら旅人が寝てる』
「避ける!」
『今の入口、カナタは知らない』
「作ればいい!」
『帰るときまで先頭を取る気?』
メグが横で笑う。
「八番目の話」
「分かってる!」
アカリは現在図の村外側へ指を置いた。
『帰ってきたら、最初の道は私が案内する。村の道、もうカナタより知ってるから』
「俺の村だぞ」
『私の村でもある』
「競争だ!」
『案内は競争じゃない』
「二歩目でも追い越せる!」
『追い越したら、宿の屋根』
「飛び越える!」
『その次は薬箱倉庫』
「曲がる!」
『曲がった先が新しい水槽』
「道が多い!」
『だから私が先頭』
『案内役が先頭とは限らない』とアカリ。
サナの宿へ初便を運んだとき、宛標は動く受取人を示したが、足場は別の道だった。帰還者の記憶、現在の受取人、荷車が通れる道。三つは同じ方向を向かないことがある。
『最後の一歩だけは、帰る人へ空ける。踏めなければ通常路へ戻す。門の成功のために、人を使わない』
カナタは「任せろ」と言わなかった。帰る側の仕事は、案内を奪うことではなく、今の戸口を尋ね続けることだった。
カナタは白旗を見る。
端に増えた薄青い足跡。
その後ろの金色。
「一歩だけだぞ」
『入口から受取返事まで』
「長い!」
『約束する?』
「する! でも競争!」
『競争は受け取らない。先頭の約束だけ受け取る』
村の人々が笑う声。
今日の息遣い。
その奥から、別の音が届いた。
『カナタ』
男の声。
アステル。
『たまには帰れ』
カナタの顔が上がる。
「父ちゃん!」
ナギは鈴を二つに分けた。
左の黒い小鈴。
十年前から速さも息も変わらない記録。
右の青い鈴。
アカリたちが今鳴らした応答。
「同じ音路を通ってきた。でも、同じ時の声じゃない」
カナタは左の鈴へ顔を近づける。
「父ちゃん。聞こえてるか!」
記録は答えず、同じ言葉を繰り返した。
『たまには帰れ』
「聞こえてるみたいだぞ」
「同じ形で返っただけ」とナギ。
「でも父ちゃんの声だ」
「うん。声であることと、今答えたことは別」
カナタは二つの鈴を交互に見た。
すぐに結論は出さない。
「帰る日に、もう一回聞く」
右の鈴へ向く。
「アカリ」
『ここ』
「先頭の約束、忘れるなよ」
『カナタが忘れそう』
「俺は覚える!」
『薬師渡りは、誰の一歩目?』
「アカリ!」
『村外便は?』
「アカリ!」
『帰るときの最初の道は?』
「……アカリ!」
『記録した』
「俺も!」
『どこに?』
「旗!」
『書いてない』
「心!」
『一番あやしい』
響路が閉じる。
第一歩号の甲板に、今日のカゲノハ村の地図が残った。
ルゥが白い帳面へ挟む。
古い図とは別の頁へ。
カナタは、帰るときにはアカリが先頭だと約束だけはした。
自分の村で、その約束が何を求めるのか。
カナタは、まだ想像していなかった。
第一歩号の修理には、五日かかった。
最初の二日は、壊れた場所を数えるだけで終わった。
「船底、四割雲化」
ルゥが板へ書く。
「軽くなった!」
「雨で溶ける」
「弱くなった!」
「帆柱、三番雲の風見布と融合」
「風が読める!」
「勝手に北を向く」
「便利!」
「行き先が南でも」
「不便!」
「朝火炉、四番雲の炉板が一枚刺さってる」
「強くなった!」
「熱を入れると鐘が鳴る」
「出航の音!」
「七番雲の治療鐘」
「怪我した音!」
「主に船長が」とザンバ。
「俺は元気だ!」
「原因側だ」とルゥ。
三日目。
ホロが巨大な設計図を広げた。
近くが見えにくい老人は糸眼鏡を上げ、目ではなく指で図面の溝を読む。ルゥは遠景用片眼鏡を外し、傷の細部へ顔を寄せた。二人は見える距離が逆だった。
「八本全部を私がつなぐ」とルゥ。
左手首が痛み、銀鋲を一本落とす。言葉を止め、書き直した。
「基幹を私。各脚の調整は、持ち主」
自分の名で仕事を残したい。けれど、自分だけの完成品にはしない。設計図の署名欄を八つへ分け、中央へ《第一歩号・次稿》と書いた。
第一歩号の船底に、八本の脚が描かれている。
「何だ、これ!」
カナタの目が輝く。
「《八脚雲着輪》」
ホロが説明する。
「歩雲へ着くとき、八方向の重さを分けて受ける。今回みたいに雲に履かれない」
「八番目の翼!」
「脚」
「船につくなら翼!」
「地面を踏む」
「低い翼!」
「脚」
「第八翼!」
ルゥとホロが同時にため息をついた。
八本は、同じ形ではなかった。
一番脚には星図を読む細い針。
二番脚には水の重さを逃がす溝。
三番脚には風を受ける小羽根。
四番脚は、炉鋼で最も硬い。
五番脚は、家屋へ当たっても壊しにくい雲綿張り。
六番脚には小さな現在鐘。
七番脚は、急停止時に衝撃を吸う包帯繊維。
八番脚だけ、先端が空いている。
「部品不足?」とカナタ。
「違う」とメグ。
「着く場所に合わせて、最後の形を変える」
薄青い旗を近づける。
八番脚の空白へ、雲。
木。
石。
その場の地面に合う仮の足先が生まれる。
「完成してない!」
「毎回、次の形になる」
「四番目の旗!」
「キリへ設計を送った」とルゥ。
「返事は?」
ナギが鈴を鳴らす。
遠いミナモから、キリの声。
『図面、受け取った。八番脚の空白、いい。完成図へ登録しないで、次稿欄に置く』
「オルドは?」
『原図に脚はないって怒ってる』
「分かってない!」
『でも、八本目だけ三案描いた』
「分かってる!」
四日目。
八つの町から材料が届く。
レンの星針。
スイの水抜き輪。
フウカの小羽根。
ガクの炉鋼。
イオの雲綿。
トウカの鈴。
リツの衝撃布。
どの部品にも、役目以外の癖が残った。
レンの星針には素数の刻み。スイの水抜き輪には「条件による」の三段目盛り。フウカの小羽根には旅用の種が一粒。ガクの炉鋼には本人の疲労を記す温度線。イオの雲綿には戸閉め時刻と住民数。トウカの鈴は命令と現在を別の高さにし、リツの衝撃布は高音でなく低い振動を返す。
八番目の脚には、メグとチコの三つ折り結び、ホロの二音鍵。標準化すれば軽くできる部分を、ルゥは残した。
「同じ脚にしないの?」とカナタ。
「壊れたとき、誰の知識へ戻ればいいか分かる」
違いは装飾ではなく、修理先を示す現在地だった。
メグの可変雲。
ルゥは一つずつ船底へ組みつけた。
カナタも手伝った。
一本目のねじを逆に回し。
二本目の脚を船首へつけ。
三本目で自分の上着を縫い込んだ。
「離れて」
「船長の船だ!」
「だから離れて!」
「何をすればいい!」
「部品を渡して」
「先頭じゃない!」
「作業の二歩目!」
「任せろ!」
ルゥが手を伸ばす前に、必要な工具を渡す。
一度目。
違う工具。
二度目。
重すぎる槌。
三度目。
正しい銀鍵。
「できた!」
「三回目で」
「二歩目より多い!」
「順位ではない!」
五日目。
試着。
第一歩号は八本脚を下ろした。
かしゃん。
一番。
しゃん。
二番。
八番脚が、八番雲の柔らかさへ合わせて丸くなる。
船体が地面へ立った。
「歩ける!」
カナタが操舵輪へ飛びつく。
「触るな!」