第192話 第十二章「次の最初」後編
――八番核、拾い手補助として一件使用。担当終了後、糸網へ戻る。
「獣まで返事する?」とカナタ。
「返事ではない。行動記録」とナギ。
「仲間?」
「生き物。使うなら、都合のいい道具にしない」
ヒトアシは悪い思想が消えて消滅したのではない。歩雲群の制度が変わるたび、別の生態で残る。観察を続けることが、八番目の事件の終わりではなく日常になった。
――受取返事、全雲。
――未解決、一番雲の星図と三番雲の風図に半歩の差。
「まだ違ってる」とカナタ。
ナギは左耳の栓を替えた。旅を重ねても感覚過負荷は治らない。ルゥは痛む左手を布で固定し、右手だけで操舵輪の留め具を締める。ザンバは椅子を壁へ背を向けない角度へ半指動かし、カナタは冷えた朝食へ息を吹いた。
成長しても、癖や痛みが消えて別人になるわけではない。申告し、分け、仲間に見つけてもらう方法が増えただけだった。
「違うから書く」
「いつそろう?」
「そろわなくても進める」
「道なのに?」
「八番目で覚えたでしょ」
「覚えた!」
「今の顔、分かってない」とザンバ。
「顔で決めるな!」
夕方。
前方に、金色の星根が見えた。
太い根。
内側を光が流れ。
入口には何十隻もの船が一列に並んでいる。
全部、前を向いている。
戻る船はない。
「町だ!」
カナタが船首へ駆ける。
「星脈市ネウラ!」
入口の大看板に、赤い文字。
――逆走禁止。
「何て書いてある!」
「前へ進め!」
「分かりやすい!」
「逆!」
「字が後ろ向きだ!」
「正面!」
第一歩号は列の最後へつく。
カナタが操舵輪へ手を伸ばす。
ルゥが叩く。
「今度は私が先頭」
「俺は?」
「二歩目」
「いつまで?」
「入口を通るまで」
「長い!」
「一刻」
「もっと長い!」
前の船が一歩進む。
第一歩号も一歩。
八脚雲着輪が金色の根へ触れる。
一番脚。
二番。
八本目だけが、根の形へ合わせて細い爪になる。
船体が安定する。
「第八翼が働いた!」
「脚!」
カナタは笑う。
世界の果てから始まった旅。
最初の一歩を、自分以外が踏むこともある。
後ろへ続くことも。
途中で先頭を受け取ることも。
また渡すことも。
自分の道は、それで消えない。
白旗の中央には、まだ大きな空白がある。
その縁に、薄青い足跡と金色の足跡。
一歩目。
二歩目。
どちらが欠けても、道にはならない。
「前の船、動いた!」
カナタが叫ぶ。
「分かってる!」
「追い越す?」
「列!」
「近道!」
「禁止!」
「道があるのに!」
「ある道を歩く練習!」
ザンバが椅子へ座る。
「八番目を覚えているのは、あと三呼吸だな」
「忘れない!」
三呼吸後。
カナタは白旗を入口の横へ向けた。
「一歩だけ――」
工具箱が後頭部へ飛んだ。
「痛っ!」
「二歩目でいなさい!」
第一歩号は、前の船が残した航跡へ続いた。
歩雲群ヤエが《輪番》を始めて、一か月。
うまくいった日ばかりではない。
小型ヒトアシが担当札を離さず、二番雲の水判断が三呼吸長引いた日。レンが星図を下ろせず、メグと同時に前へ出た日。トウカが驚いて命令槌を先に鳴らし、掌で現在鐘を打ち直した日。
失敗は輪番を廃止する証拠へせず、終了条件と受取返事を直す材料にした。八つの前脚核は糸網の観察箱へ戻り、一巡を越えて使わない。餌になる固定先頭札も、毎夕回収した。
一番雲が先頭の日は、一度もなかった。
正確には、一日中先頭だった日がなかった。
先頭でない時間のほうが、それぞれの性格をよく表した。
レンは星図の担当を渡したあとも三案を書き続けるが、命令欄ではなく後方報告へ入れる。スイは水量がそろった瞬間に旗を下ろし、代わりに翌日の不足を小さく書く。フウカは旅用の種を一つだけ外の雲床へ播き、芽が出なければ失敗記録へするつもりだった。
ガクは炉橋の終了後、自分の腕の熱を初めて荷重表へ書いた。イオは休みの日に町が進んだ報告を読み、悔しそうに二度笑った。トウカは命令槌を先に持った日は、隠さず鐘台へ赤札を下げる。リツは患者を揺らさないため全雲を止めようとして、必要区間だけを分け直した。
メグは先頭の日にも八歩ごとに振り返りかける。三歩目で気づき、後方確認をチコへ呼びかける。
『受け取る! でも今、右眉側はホロが見る!』
一人へ渡さない返事が返る。メグは前を向いたまま、片方欠けた犬歯で笑った。
朝。
星根を読む間はレン。
一番雲の食堂では、床へ固定されていた頭席を外した。代わりに、軽い丸椅子が一つだけ置かれている。その日の先頭が座る椅子ではない。食事を終えた者が、次の人へ運ぶ椅子だった。
カイラは三日間、立ったまま食べた。四日目、左足首の布を巻き直すあいだだけ腰を下ろし、五日目にはレンへ椅子を押した。
「星図の説明が長い。座って話せ」
「命令?」
「助言だ」
言い慣れない言葉に眉間の皺が増える。レンは三案を話し終え、椅子をスイへ渡した。前を見る食堂で、椅子だけが初めて横と後ろへ動いた。
昼前。
雨を越える間はスイ。
午後。
風路を選ぶフウカ。
夕方。
炉橋を渡すガク。
同じ一日の中で、先頭は何度も替わった。
五番雲のイオが住居区を移すとき、カイラが後ろから言った。
「右の家が半歩遅い」
「命令?」
「報告」
「受け取る」
イオが右の橋を緩める。
家は無事に着いた。
カイラは少しだけ不満そうだった。
後ろへ向くと、今も九呼吸目で眩暈が来る。八呼吸でイオへ渡し、白い作業帽の縁を握って耐える。
「私なら十呼吸見られる」
「今日は八」とメグ。
「昨日も八だ」
「同じ日も記録」
カイラは笑わない。けれど命令で九へ延ばさず、自分の欄へ《八》と書いた。譲った後の不器用さも、共同体が受け取る現在になっていた。
自分の言葉で全員が一斉に動かないことに、まだ慣れていない。
その直後。
子どもの帽子が風に飛んだ。
カイラは誰より早く走り、八番雲の縁で掴んだ。
「拾った!」
思わず大声を上げる。
メグが笑う。
「向いてる」
「先頭より?」
「今は」
「今は、か」
「次は分からない」
カイラは帽子の札を見る。
六番雲。
現在鐘へ返送を頼む。
命令ではない。
受け取る返事を待つ。
六番雲から、トウカの鐘。
五つ。
今、ここ。
受け取る。
帽子は帰っていった。
カゲノハ村では、アカリが二本目の村外定期便を始めていた。
行き先は、白杭の先にある枝上の旅人宿。
薬箱を持ち。
今日の現在図を開く。
黄緑色の《宛標》へ、受取人の名札を結ぶ。
「朝雫宿。サナ。今、ここ」
サナは荷下ろし場の出口側へ体重を置き、割れた親指爪の布を締め直す。紙札の端を揃え、鍵束を二度だけ鳴らした。
「今日の受取人、私。宿の戸口は昨日より六歩右」
「動いた?」とセノ。
「荷棚を増やした。昔の図へ戻さないで」
アカリは左手で現在図へ六歩を書き足す。古線は消さず赤糸で囲い、人名札の角を丸く切る。二本目の便も、最初の成功をそのまま繰り返す道ではなかった。
五回の返事。
旗が弱く傾く。
道は生まれない。
アカリが現在図を確かめ、自分で最初の板へ足を置く。
「先頭、アカリ!」
後ろから、配達見習いの子どもたちが続く。
「近すぎ!」
「二歩目!」
「全員で同じ板を踏んだら壊れる!」
笑い声。
向こうから来た空車には道を譲る。
曲がり角では、宛標が示す方向と、荷車が通れる足場を分けて考える。
アカリは一度振り返る。
立ちくらみが来て、薬箱へ右手を置く。左手の旗は下ろさない。
「十呼吸、休止。先頭、アカリのまま?」とフィオ。
「休んでいる間の足場確認はセノへ渡す」
「受け取る」
「私は宛先を保持」
先頭を渡すことと、自分の仕事を失うことを分ける。遠い歩雲群で始まった仕組みは、カゲノハ村の二十歩の道にも形を変えて届いていた。
遠い空。
第一歩号は見えない。
それでも、連標網の鈴が腰で鳴る。
星脈市ネウラから届いた短い現在報告。
――カナタ、また前へ行きすぎた。
――現在、分かれ道まで戻している。
――署名、ナギ。
アカリは返事を書く。
――帰ってきたら、最初の道は私が案内する。
――追い越し禁止。
――署名、アカリ。
その紙を鈴へ結ぶ。
音路が、遠い町々を渡っていく。
トマリギ島。
三番港。
ミナモ。
無灯泊。
迎え岸。
双灯港。
歩雲群ヤエ。
多くの場所を通り。
多くの人に受け取られ。
第一歩号へ向かう。
道がないなら、最初の一歩になればいい。
けれど。
最初の一歩は、一人の持ち物ではない。
誰かが先に踏んだなら、その後ろへ一歩を重ねればいい。
先頭を渡しても、歩いた道は消えない。
八番目は、ただ最後尾にあるのではない。
一巡を終え、次の最初へ場所を渡す一歩だ。
世界の果てから続く空のどこかで。
第一歩号の八色旗が、風を受けて回った。
どの色が前になるかは、まだ決まっていない。
だから、次の一歩を選べる。
了