第193話 第一章「根に飲まれる船」前編
道がないなら、最初の一歩になればいい。
誰かが二歩目を重ねれば、足跡は道になる。
三歩目が別の方角へ進んでも、また会う旗があれば道は途切れない。
四歩目を、自分より先へ行く誰かに渡すこともできる。
五歩目を急がず、今いる者を数えることもできる。
六歩目を置く場所に先客がいたなら、一歩ぶん空けて迎えればいい。
七歩目まで歩いた道が終わるなら、「ここまで来た」と旗を立てればいい。
八歩目の先頭を誰かへ渡しても、自分の足跡は消えない。
では、その先頭が、間違った道へ進んでいたなら。
歩いたぶんを惜しんで、さらに前へ進むのか。
それとも、足跡を消さずに引き返し、分かれ道でもう一度選ぶのか。
カナタは、戻る一歩を、前へ進めなかった証拠のように考えていた。
歩雲群ヤエを出て、三日目。
星脈市ネウラの入脈列へ並んで、一刻と三呼吸。
「入口までは二歩目でいる」と約束した船長が、列の横へ一歩分の近道を出した結果。
約束を破る直前、カナタの右膝は一度だけ遅れていた。朝の冷えで古傷が固くなる日は、最初の曲げだけ半拍ずれる。本人は痛みではなく「助走」と呼び、冷めた根茶へまで息を吹きかけてから船首へ走った。
ルゥは三十歩先の入脈札を薄い片眼鏡で読み、その眼鏡を意地のように工具帯へ戻した。近くの亀裂なら髪一本ぶんまで見えるが、遠い標札は輪郭しか見えない。髪の銀鋲は危険度順で、怒るほど一本ずつ抜く。今朝はすでに左手へ三本たまっていた。
ナギは右耳へ小鈴、左耳へ栓。七つの連標音と星根の鼓動が重なる前に、舌先で五拍を数える。ザンバは金色の脈光へ幻肢痛を刺激され、黒い機巧腕の留め具を生身の左手で締めた。四人とも異なる不調を抱えていたのに、船長だけがそれを「全員、進める」と一つへまとめた。
飛空艇《第一歩号》は、順調に根へ飲み込まれていた。
「着いた!」
船首で、カナタが叫ぶ。
前も。
後ろも。
右も左も、淡い金色の壁だった。
壁の内側を、星のような光が脈打っている。
一度光る。
根の奥から、低い音が近づく。
どくん――。
第一歩号が猛烈な勢いで前へ押し流された。
「着いてない!」
操舵輪へ両腕でしがみついたルゥが怒鳴る。
「町の入口を通ったぞ!」
「入口じゃない! 星根の吸い込み口!」
「星脈市は根の中にあるんだろ!」
「だからって、町より先に根へ入らないで!」
船首の八本脚――正式名称《八脚雲着輪》、カナタの中では《第八翼》――が金色の壁を走っている。
一本目が天井へ。
二本目が右壁へ。
三本目が床らしい場所へ。
残り五本は、どこを踏むか迷って空を掻いた。
「第八翼が泳いでる!」
「脚は泳がない!」
「根の中だから魚かもしれない!」
「船!」
甲板中央では、ナギが帆柱へ片腕を回し、もう片方の手で青い鈴束を押さえていた。
トマリギ島の始標鈴。
三番港の再会鈴。
ミナモの次稿鈴。
無灯泊の五打輪。
迎え岸の両岸鈴。
双灯港の終路鈴。
歩雲群ヤエの八返鐘。
各地の返事を運ぶ《連標網》の受信輪が、星根の鼓動に合わせて全部いっぺんに鳴っている。
「右から八つ!」
ナギが叫んだ。
「何が!」とカナタ。
「返事!」
「誰の!」
「今は聞き分けられない!」
「じゃあ、あと!」
「あとにしたら前へ流れる!」
「返事まで流されるのか!」
「この根、音にも前がある!」
甲板の後ろで、ザンバが椅子ごと帆柱へ押しつけられていた。
灰色の旗には、黒い点から八本の線が伸びている。
八本目だけが、後ろから黒い点へ入り、その隣を先へ進んでいた。
「三度、外で待てと言った」
「俺には?」
「主にお前へ」
「聞いてない!」
「知っている」
星根は、空を流れる光の大河だった。
外から見れば、白い根の一本。
内側へ入れば、町が三つ並べられるほど太い空洞が、どこまでも続いている。
壁を流れる金色の脈。
その中央を、荷舟や小型艇が一列で走っていた。
どの舟にも帆はない。
根の鼓動が来るたび、前へ一歩ずつ送られる。
どくん――。
第一歩号が二十隻を追い越した。
「速い!」
「流されてる!」
「同じ方向へ速いなら、進んでる!」
「舵が効かないの!」
ルゥが操舵輪を右へ切る。
船首の二枚鍋蓋――《両面折岸舵》――が開く。
一枚が脈流を掴み。
もう一枚が壁へ食い込んだ。
第一歩号が九十度回る。
前へ流れながら、横を向いた。
「止まった!」
「向きだけ!」
「前が横になった!」
「悪化した!」
前方の金色の霧から、小さな台車が現れた。
星根の内壁へ四本の車輪を押しつけ、脈流に逆らって走っている。
荷台には、色とりどりの矢印札。
赤は右。
青は左。
白は直進。
その上に、一人の少女が立っていた。
短い深緑色の髪。
左右で向きの違う長靴。
右の靴先は前。
左の靴先だけ、踵のほうにも銀の爪がついている。
背中には、濃い緑の旗。
布には、小さな矢印が九つ並んでいた。
少女の前歯は片方だけ小さく欠けていた。笑えば見える傷だが、今は唇を固く結んでいる。二十歩先の顔は声で判別し、手元の札だけは異様に細かく読めるらしい。鼻の上には細縁の作業眼鏡。片耳は高い音が弱く、台車の振動を靴底で拾うため、左右逆向きの長靴を一歩ごとに踏み替えていた。
八つは前を向き。
九つ目だけ、輪郭しかない。
少女は台車の後ろへ長い棒を突き、必死に脈壁を押している。
「前の船、横を向かないでぇぇぇ!」
「俺たちか!」
「ほかに横向きの飛空艇がいる!?」
「世界は広い!」
「今は根の中!」
二隻の進路は完全に重なっていた。
少女の台車は後ろへ進み。
第一歩号は横を向いたまま前へ流れる。
「ルゥ、右!」
「右は壁!」
「左!」
「左も壁!」
「上!」
「丸いから全部壁!」
「じゃあ前!」
「前が少女!」
カナタは白旗を抜いた。
「標術――《未踏路》! あの子の手前!」
一歩分の光板が生まれる。
少女の台車と第一歩号の間。
脈流が光板へぶつかった。
板が前へ流れる。
「道まで流された!」
「星脈では、止まったものから前へ送られる!」
少女が叫ぶ。
光板は台車の後ろへ入り込み、坂になった。
逆走台車が乗り上げる。
「止まった!」
カナタが喜ぶ。
「跳ぶ!」
少女の声。
台車は光板を踏み台にして宙へ上がった。
第一歩号の甲板へ向かって飛んでくる。
「取る!」
カナタは船首を蹴った。
「来ないで!」
「任せろ!」
「何を!?」
「全部!」
「その答え、ぶつかる前に聞きたくなかった!」
二人は空中で激突した。
少女を抱えたカナタが、船首の鍋蓋へ落ちる。
逆走台車は第一歩号の帆へ引っかかった。
荷台の矢印札が一斉に空へ舞う。
赤。
青。
白。
何百枚もの進路が、根の脈流へ乗った。
「札!」
少女が手を伸ばす。
最初の一枚が、第一歩号の船首へ貼りついた。
――前進。
二枚目。
――前進。
三枚目。
――前進。
「同じじゃねえか!」
「裏を見て!」
カナタが一枚をめくる。
裏には、曲がった矢印。
――折返。
「こっちは違う!」
「そっちが必要なの!」
少女が旗竿を伸ばす。
しかし、脈流に押された札は前方へ飛ぶ。
星根の奥に、巨大な門が見えた。
金色の文字。
――星脈市ネウラ 第一入脈門。
「町だ!」
カナタの目が輝く。
「今度こそ着いた!」
「船を戻して!」
「どっちへ!」
「後ろ!」
「前に町がある!」
「だから後ろ!」
「着いてから戻る!」
「戻れなくなる!」
ナギの鈴束が、突然一つだけ高く鳴った。
八回。
歩雲群ヤエの八返鐘。
続いて、短い声。
『中央へ入らないで――』
そこで根の鼓動に潰された。
「カナタ!」
「聞こえなかった!」
「聞こえたところまでで止まって!」
「もう門!」
第一歩号が門へ入った。
金色の輪が船体を包む。
船首に、一枚の札が貼られた。
――第一脈区行き。
次の輪。
――第二脈区行き。
第三。
第四。
船は九つの輪を連続で抜けた。
札が一枚ずつ増える。
全部、前を指している。
「九つ目!」
最後の輪を抜ける。
根の中に、町が現れた。
九つの円筒形区画が、長い列車のように連なっている。
家。
工房。
市場。
水路。
すべてが星根の内壁を走り、鼓動のたび前へ送られていた。
第一歩号は一番後ろの区画へ向かう。
「港は!」
「前!」と少女。
「右か左か!」
「前しかない!」
「分かりやすい!」
「今は困るの!」
前方には、大きな倉庫があった。
看板には矢印が一つ。