第194話 第一章「根に飲まれる船」後編

――返路札保管庫。

「札の場所だ!」

少女が喜ぶ。

「ちょうどいい!」

カナタも喜ぶ。

「止まって!」

「終路鐘!」

船首の鐘――カナタの中では《第七翼》――の綱を引く。

から……。

最後まで鳴らない。

「何で!」

「船員全員の現在地が、まだ合ってない!」とナギ。

「俺は着きたい!」

「私は港!」とルゥ。

「私は、さっきの返事を聞き直したい!」とナギ。

「俺は椅子へ戻りたい」とザンバ。

「行き先が四つ!」

第一歩号は止まらない。

返路札保管庫へ船首から突っ込んだ。

一列目の棚が倒れる。

二列目の札が舞う。

三列目の木箱が、前進札に引かれて勝手に開いた。

中から、折れた矢印。

裏返った地図。

返送先を失った荷物。

何千枚もの「戻る」が町へ飛び出す。

最後は、柔らかな根綿の山へ船首から刺さった。

ぼふん、と金色の繊維が舞う。

しばらくして、根綿の中からカナタの腕だけが出た。

「入市……!」

少女が隣から這い出す。

深緑の髪に、折返札が九枚刺さっている。

「ここは港じゃない!」

「町には入った!」

「返路札を全部、前へ流した!」

「前へ進んだ!」

「戻すの!」

少女は細長い板を取り出した。

数字を書き始める。

「弁償」

「札は紙だぞ!」

「道は重いの!」

少女は弁償板を裏から読んだ。札も手紙も、必ず裏面を先に確かめる癖らしい。右手で数字を書きながら、左手では折返札を拾い、会話のあいだも半歩だけ前後へ往復する。

「シノ」

名乗ると、欠けた前歯を手で隠すように口元へ触れた。服の内側には、濡れて乾ききらない手紙が一通留められている。母へ出せず、母からも受け取れない手紙だった。

「返路札は紙でも、誰かが言い直せなかった道を持ってる。混ぜたら、どこへ返すか分からなくなる」

役目を説明しているのに、最後だけ父へ向けた声になった。

ナギは根綿から鈴束を拾った。

八返鐘だけが、まだ震えている。

受け取ったのは、警告の最初だけ。

続きは、入ってきた門の向こうへ流されていた。

この町では、返事まで前へしか進まないらしい。

少女の名は、シノといった。

十五歳。

星脈市ネウラの《返脈師》見習い。

そして、九年前に廃止された《返脈師》を名乗る三人の点検班で、今日の代表を務めていた。

片耳の高音が弱いらしく、相手の口元と床の振動を同時に追っている。返脈を何と呼び直したいのか、父へ何を返してほしいのかは、まだ言わなかった。

「廃止されたなら、弁償を数える権利もない!」

カナタが板を指さす。

「返路札保管庫の点検係は今も私!」

「仕事あるじゃねえか!」

「返す道は使わせないのに、返す札だけ保管させる仕事!」

「難しい!」

「壊した人が言わないで!」

ルゥは第一歩号の船底へ潜っていた。

根綿に埋まった八脚雲着輪を一本ずつ引き抜く。

「船腹、三か所へこみ。帆、一枚裂け。第八翼の二本目が前しか踏まなくなってる」

「成長!」

「故障!」

「この町に合ってる!」

「直すの!」

ナギは返路札保管庫の一番奥へ、八返鐘を運んだ。

根の鼓動が強すぎて、甲板では全部の音が前へ流される。

倉庫の裏壁だけ、脈流が弱い。

シノが木箱を三つ重ね、厚い折返札を壁へ貼った。

「ここなら、前へ行った音を少しだけ戻せる」

「音も返脈できる?」

「昔は」

「今は?」

「禁止」

「じゃあ、今やる」

「あなたたち、禁止って聞くと早くなるの?」

「主に船長」とルゥ。

「俺、何もしてない!」

「入脈門を九つ抜けた」

「町へ着くため!」

「警告を聞いたあとで!」

「最初しか聞こえなかった!」

ナギは八返鐘へ青い糸を巻く。

鈴の内側へ、小さな五点輪を置く。

星航船団で覚えた現在確認。

五つの音を、根の脈へ逆向きに打つ。

こん。

こん。

こん。

こん。

こん。

「歩雲群ヤエ。こちら第一歩号。今、ネウラ第九脈区」

返事はない。

代わりに、根の奥から同じ五つが返った。

間隔がまったく同じ。

強さも同じ。

ナギは首を振る。

「今のは残響」

ナギは断定した直後、左耳の栓を深くした。舌に薄い金属味がある。感覚過負荷の前触れだった。

「道具のほうが疲れた」

自分の限界を隠す時の言葉だ。ルゥは追及せず、返ってきた五音の間隔を自分で書き取る。シノには折返札が反転した時刻を読ませた。響路士一人の耳を正解にせず、三人の記録を重ねる。

「同じ間隔。問いで変わってない。だから今は残響」

ナギは聞こえないものまで聞こえたふりをしなかった。

「返事したぞ」とカナタ。

「私の音が一周した」

「町を回った?」

「たぶん九区」

「二日かかるって言ってなかった?」

「音は速い。でも、向きは前だけ」

シノが八返鐘の裏へ折返札を一枚差した。

「一度だけ、音の裏を出せるかも」

「裏?」

「表は前進。裏は折返」

「札と同じ!」

「同じ仕組み」

ルゥが船底から銀鋲を投げる。

ナギが受け取る。

《継ぎ路》で、鳴った場所と今をつないで」

「今の場所は?」

「私」

「鳴った場所は?」

「歩雲群」

「途中が分からない」

「だから、向こう側があるところまで」

ナギは銀鋲を八返鐘へ触れさせた。

「標術――《響路》

青い細線が鈴から伸びる。

根の壁へ。

前へ。

第一脈区。

さらに前へ行きかける。

シノが折返札を裏返した。

線が一度だけ曲がった。

来た道へ。

入脈門の外へ。

遠い歩雲群へ。

八つの鐘が鳴る。

一番雲。

二番雲。

八番雲。

最後にメグの声。

『第一歩号! 中央根へ入らないで!』

「全部聞こえた!」

カナタが胸を張る。

「入ったあと!」と三人。

メグの声は続く。

『一番雲の古い地図を直した! 星心港へ行く根は中央じゃない! 九叉心で右から二本目! 青い脈!』

ルゥが地図を開く。

歩雲群でもらった星根図。

三本のうち中央に、太い矢印。

カナタが選んだ道。

その裏へ、メグの新しい線が重なる。

中央ではない。

右から二本目。

青。

「遅い!」

カナタが叫ぶ。

『送ったのは八日前!』

「早い!」

『届かなかったの!』

「根のせいか!」

「主に船長の道選び」とルゥ。

「地図に真ん中って書いてあった!」

「古い地図!」

シノが青い線を見る。

顔から、弁償の怒りが消えた。

「九叉心」

「知ってるのか?」

「三日前、ネウラが通った分かれ道」

「中央へ?」

「脈導長が選んだ」

「青い道は?」

「返脈師が、二年前から言ってた」

「お前?」

「私と、母さんの記録」

シノは服の内側の濡れた手紙へ触れた。宛名はセラ。結びの一行だけ何度も書き直され、紙が薄くなっている。母の記録を正しい答えとして掲げたいわけではない。町へ戻る道そのものを、母一人の事故という言葉から取り戻したかった。

その思いへ触れると視線が出口へ固定され、指先が台車の留め具を探す。今も返事をしようとして、一刻札を一つ飛ばしかけた。シノは自分で気づき、時刻を最初から数え直した。

根の鼓動。

どくん――。

九つの町が、また一歩前へ進む。

メグの声が揺れた。

『戻れる?』

シノは答えようとした。

倉庫の表に貼られた前進札が一斉に光る。

青い響路が前へ引かれる。

「待って!」

ナギが糸を掴む。

返事の道が細くなる。

メグの最後の声。

『歩いたぶんより、今の道を――』

切れた。

カナタは地図を見る。

三日前の分かれ道。

八日遅れの警告。

ここから戻れば、到着はさらに遅くなる。

「町は、もう中央へ三日進んでる」

シノが言った。

「戻るなら、今」

「着いてから戻るって言った」

「もう着いた」

「町の中に」

「だから戻る」

カナタは前を見る。

白い霧。

その先に、古い地図の星心門。

後ろには、九叉心。

「まず、町の人に聞く」

「戻るか?」

「前へ何があるか」

シノの眉が寄る。

「また前」

「道がないなら作れる」

「地図が間違ってても?」

「地図の先に港があるかもしれない」

「かもしれない、で三日進んだの?」

「違う」

カナタは反射的に答えた。

でも、その先が出なかった。

歩雲群を出て十一日。

追い越さず。

二歩目を歩くことも覚えた。

それでも、ここまで来た道を間違いだとは、まだ言いたくなかった。

カナタは白旗の中央ではなく、布の端をつまんだ。後悔している時だけ出る握り方だった。右足は半歩先へ出ているのに、次の一歩は作らない。

シノも半歩だけ前へ出て、同じ半歩を戻った。二人とも、進むか戻るかではなく、今までの自分を間違いと呼べるかで止まっていた。