第195話 第二章「前しかない町」前編
星脈市ネウラには、九つの鐘があった。
第一脈区の進路鐘。
第二脈区の水脈鐘。
第三脈区の種鐘。
第四脈区の炉鐘。
第五脈区の家鐘。
第六脈区の伝鐘。
第七脈区の治鐘。
第八脈区の荷鐘。
第九脈区だけ、鐘楼が空だった。
「返鐘は九年前に外された」
シノは空の鐘台を見上げる。
「返す音を出す仕事がなくなったから」
「なくしたんじゃなく、やめた?」
ナギが訊く。
「脈導長が」
第六脈区の伝鐘室には、何百本もの細い管が並んでいた。
前の区から来た音を受け。
次の区へ送る。
一本でも後ろへ向く管はない。
管の間で、一人の少女が鐘槌を磨いていた。
黒い髪を耳の下で切りそろえ、片耳だけに九つの小さな輪をつけている。
少女は十五歳。本来は左利きだったが、前送鐘の型へ合わせるため幼い頃に右へ直された。怒ると左手が先に動く。片耳の九輪は下から順に触れ、何番目の音を送らなかったか自分で数えるためのものだった。
長く立つと腰が痛む。それでも椅子を使えば伝令役から外されると思い込み、「左ならまだ使える」と言って鐘槌を磨き続ける。話したくない時ほど槌だけが光った。
「オトハ」
シノが呼ぶ。
「外の響路士」
「見れば分かる」
オトハはナギの鈴束を見る。
「鐘が多い」
「場所が多いから」
「一つにまとめないの?」
「まとめたら、誰の返事か分からなくなる」
「ネウラでは、最後に前へ送る一音だけ残す」
「聞かなかった音は?」
「記録箱」
伝鐘室の壁に、細長い箱が何百もある。
水区からの遅れ。
治療区からの減速要請。
第九区からの折返警告。
どの箱も封がされたまま、前へ送られなかった音を溜めている。
「開けないの?」
「脈導長の許可が要る」
「返事なのに?」
「違う向きの音だから」
ナギは一番古い箱へ耳を当てた。
低い声。
同じ言葉を繰り返している。
――第九脈区、返脈を開始。
――前八区、歩調を止めて。
――返事を待つ。
「九年前?」
オトハが頷く。
「返事は?」
「前進命令が来た」
「同じじゃない」
「命令も返事」
「あー……そう教わった」
オトハは沈黙を埋める声を一つ置き、左手で九輪の最下段へ触れた。右手の槌は制度の言葉を繰り返す。左手は、封じた音の箱へ伸びかけている。
「全部を公開すればいいとも思わない。治療区の声や、家族だけへ返したい言葉もある。聞く道を作っても、誰へ渡すかまで響路士が決めたら、別の命令になる」
ナギは頷いた。聞く技術を教える側と教わる側ではない。オトハには、秘密を守りながら返事を往復させる編集の仕事があった。
「違う」
ナギは即答した。
「返事は、相手の言葉を受け取ったあとで返すもの。命令は、自分の行き先だけ言ってる」
オトハの手が止まる。
「鐘は音を送る道具」
「聞く道具でもある」
「聞いたら迷う」
「迷ったことも送る」
「決められなくなる」
「何を聞かなかったか残せば、あとで選び直せる」
それは歩雲群で、ナギがメグへ言った言葉だった。
違う返事を一つへ揃えない。
届かなかったことまで記録する。
オトハは九つの輪の一番下を指で弾いた。
「第九脈区から、毎日一音来る」
「何て?」
「今、ここ」
「返した?」
「前へ送った」
「誰へ?」
「第一脈区」
「第九脈区には?」
「返してない」
「じゃあ、あの鐘は自分の声を聞いたことがない」
ナギは空の鐘台を見る。
「九つ目の返事を作る」
「鐘がない」
「船にある」
第一歩号から、終路鐘を外して持ってきた。
カナタの中では第七翼。
ヨイたちが双灯港で作った、小さな着き鐘。
最後まで鳴るには、今いる者の返事が要る。
ナギは空の鐘台へ置いた。
「借り物」
オトハが言う。
「返したらなくなる」
「その前に、作り方を渡す」
「四番目の旗」
「知ってる?」
「連標網で聞いた」
「じゃあ、今は次稿」
ルゥが銀鋲を鐘台へ打つ。
「ネウラの脈へ合わせて、明日は別の形にする」
「勝手に町の鐘を増やすな」
ザンバが入口から言った。
「止めるの?」とカナタ。
「見張る」
「同じだろ」
「違う」
「今日、みんなそれ言う!」
ナギは終路鐘を五回叩いた。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
「第一歩号。第六脈区。今、ここ」
次に、第九脈区へ向ける。
「シノ。返路札保管庫。今、ここ?」
長い沈黙。
根の鼓動が一度。
二度。
前へ流れていく音の中から、弱い五つが返った。
『シノ。第九脈区。今、ここ』
「返事!」
オトハが目を見開く。
「まだ一つ」
ナギはそう言ってから、鐘台の縁へ腰を下ろした。金属味が濃く、立ったままでは平衡を保てない。オトハも一瞬だけ迷い、隣の椅子へ座る。弱さを真似たのではなく、立ち続けることを仕事の条件から外す最初の試みだった。
「聞こえなかった音は、聞こえなかったと残す」
「誰にも見せない箱も?」
「持ち主と公開範囲を残す」
オトハは未送音箱の埃を一本だけ残して拭いた。開けたことも、開けなかった部分も分かるように。
ナギは第一脈区へ向ける。
「脈導長。今、どこ?」
返ったのは、一音。
――前進。
「場所じゃない」
「脈導長の返事は、それだけ」
オトハが言う。
「前へいる」
「前は場所じゃない」
ナギは帳面へ書く。
――第一脈区。現在地未確認。
「未確認って書くの?」
「分からないことを、分かった形にしない」
九つ目の鐘が、もう一度鳴った。
第九脈区から。
今、ここ。
前へ進む町で、初めて後ろへ届いた現在の返事だった。
星脈市ネウラには、後ろ向きの入口がなかった。
家の扉は、すべて進行方向へ開く。
店の棚は、前から取って後ろへ戻せない。
道の端には、小さな脈車が走っている。
乗ると前へ運ばれ。
降り損ねると、次の区画まで行く。
戻る車線はない。
落とし物は拾われるより先に、脈流で次の町へ送られる。
「焼き根芋、一つ!」
カナタが流れる屋台へ手を伸ばす。
「三枝銭!」
店主が芋を投げる。
カナタが受け取る。
代金を投げ返す。
銭は屋台の後ろへ落ちた。
脈流が前へ運び、カナタの額へ戻ってきた。
「返ってきた!」
「進んで一周しただけ」とシノ。
「返路がある!」
「九区全部回るのに二日かかる」
「長く食える!」
「その間、店主は代金なし!」
ルゥが銭を受け取り、屋台の箱へ直接入れた。
「手で渡しなさい」
「道を使ったのに!」
「遠回りしすぎ!」
ネウラは、九つの《脈区》でできていた。
第一脈区は、進路を読む航路塔。
第二脈区は、根水を集める水区。
第三は畑。
第四は工房。
第五は住居。
第六は鐘と伝令。
第七は治療区。
第八は倉庫。
最後の第九脈区には、返路札と、持ち主へ戻れなくなった物が集められている。
今の第九脈区は、九年前に失われた旧区の代わりに、残った八区の後ろへ継ぎ足された町だった。
「八番雲みたいだな」
カナタが言う。
「最後尾だから?」
シノが訊く。
「落ちた物を拾う」
「ここでは拾わない。前へ返す」
「後ろに持ち主がいたら?」
「九区を一周させる」
「二日!」
「だから、ほとんどの人は諦める」
シノは道端に落ちていた子どもの靴を拾った。
靴底に《第三脈区》の札。
今いるのは第九脈区。
「六区先」
「届ける!」
カナタが受け取ろうとする。
「一緒に流されたら二日」
「未踏路で近道!」
「脈区の壁を破る気?」
「一歩ずつ!」
「九つの町がつながってるの!」
靴は小さかった。
片方だけ。
裏に、子どもの字。
――エン。
「病気の妹へ薬を届ける途中で落とした」
後ろから、十二歳ほどの少年が追いついた。
薄茶色の髪。
荷袋を前へ抱え、息を切らしている。
左利きの少年で、右手は人に触れる時だけ使うという自分なりの決まりがあった。荷袋の脇には、拾った小石が一つ。緊張すると片足で小さく床を踏み、反響から出口と人数を確かめる。古い肋骨骨折の跡があり、息を深く吸うたび脇腹へ手を当てた。
声は年齢より太いのに、驚いて笑う時だけ十二歳の高さへ戻る。
「カイセ」
シノが呼ぶ。
「第三脈区から第七の治療区へ。靴は途中で脱げた」
「今、ここにあるぞ」
カナタが差し出す。
カイセは受け取ろうとして、手を止めた。
「今取ると、配達札と場所が違う」
「妹の靴だろ!」
「第九区で受け取ったら、第七区へ進んだ記録が切れる」
「切れて何が困る!」
「薬の補助金が出ない」
「靴と薬がつながってるのか!?」
「同じ配達」
カイセの荷袋には、熱冷ましの瓶。
第1話で、カナタがアカリへ届けたものと同じ匂いがした。
「橋がなかったら跳べばいい」
カナタが言う。
「ここは道がある」
「でも遅い!」
「前へ進むしかない道」
シノは靴を返路札保管庫へ置いた。
「戻す札をつければ、第三脈区へ返せる。でも使用禁止」
「使う!」
「脈導長の許可」
「聞く!」
「第一脈区まで一日」
「長い!」
「それがネウラ」
カイセは薬袋を握り直した。
「一周して、第七区へ行く」
「妹、待てる?」
「治療区には予備薬がある」
「じゃあ、何を急いでる」
「自分で届けるって言った」
姿勢だけが急に良くなり、言葉も不自然な敬語へ変わりかけた。大人へ秘密を隠す時の癖だった。
「予備薬があるなら、怖くないのか?」