第196話 第二章「前しかない町」後編
カナタが訊くと、カイセはすぐ「左ならまだ使える」と答えた。質問への返事ではない。怖いと認めれば、危険な配達を任された立派な兄ではいられなくなると思っている。
「怖かったことを聞いた」
「……一周して間に合わなかったら、怖い」
ようやく言い、拾った石を握り直した。褒められるより先に、怖さを数えてほしい少年だった。
カナタは黙った。
届ける約束。
道がなくても飛んだ日。
苔玉へ頭から落ちた日。
アカリの祖母が薬箱を受け取った。
「俺が届ける」
「だから、記録が」
「カイセも来い!」
「一周するのと同じ」
「壁を越える!」
「壊すな!」とルゥ。
そのとき、町の鐘が鳴った。
どくん――。
鐘ではない。
星根の鼓動だった。
九つの脈区が一斉に一歩進む。
家々が揺れ。
道の矢印が光り。
人々の足が前へ向く。
シノの左靴だけが、後ろへ半歩滑った。
左右逆向きの長靴は標術の飾りではない。前進側の右靴と、折返側の左靴を交互に踏み、町と自分の向きが同じか確かめている。シノは矢印を爪で一つずつ弾いた。怒りを声へ出さず、九本目まで数える癖だった。
深緑の旗が弱く光る。
八つの矢印は前へ引かれ。
空白の九つ目だけが、その場へ残ろうとした。
「旗も戻りたい?」
カナタが訊く。
「戻るんじゃない」
シノは前を見る。
「選び直したい」
「父さんを負かしたいわけじゃない。母さんを正しい一人にしたいわけでもない」
言葉にすると、半歩の往復が止まった。
「今の地図を見て、それでも同じ道を選ぶなら進めばいい。選び直せる場所をなくしたくない」
返脈は答えではなく、答えを問い直す時間だと、シノは初めて役職の外の言葉で説明した。
九つの脈区の先。
星根は、白い霧へ入っていた。
壁を流れる金色が、少しずつ細くなる。
「三日前、《九叉心》を通った」
シノが言った。
「九つに分かれる星根の分岐。ネウラは中央の脈を選んだ」
「まっすぐ!」
「古い地図では、星心港へ続く道」
「じゃあ合ってる!」
「古い地図では」
シノは返路札を一枚見せた。
表は、前進。
裏には、九本の分岐。
中央の線だけ、途中で黒く途切れている。
「根が枯れた」
「いつ?」
「分からない。後ろで拾った根屑は、三十年以上前のもの」
「前の人は気づいてない?」
「気づいてる」
低い声が、道の先から来た。
人々が脇へ寄る。
第一脈区へ続く脈車を、一人の男が歩いてくる。
四十代ほど。
濃い金髪を短く切り、右肩から左腰へ赤い帯を巻いている。
片方の長靴には、星根へ食い込む九本の爪。
背中の旗は濃い赤銅色。
中央に一本の太い脈。
その左右から、八本の細い線が合流していた。
男は四十五歳。右肩から左腰へ渡した赤帯は、どの日も同じ張力で巻かれている。長靴の九爪が床へ触れる音までそろっていたが、前腕の古い刃傷で力加減を感じにくいらしく、足を置くたび一度、目で爪の沈みを確かめた。
後ろを向かない代わりに、帯の留め具へ薄い鏡板を差している。倉庫の崩れも、娘の顔も、鏡越しに見ていた。前へ立つための姿勢というより、振り返れば九年前へ戻されると恐れている体だった。
「脈導長ロウガ」
シノの声が固くなる。
男は第一歩号を見た。
返路札保管庫へ刺さった船首。
根綿に埋まる八本脚。
帆に引っかかった逆走台車。
最後に、カナタを見る。
「世界の果てを越えた未踏路士と聞いた」
「おう!」
「なぜ、その状態で誇れる」
「町へ着いた!」
「倉庫へ突っ込んで」とザンバ。
「噂より早く壊したな」
「噂に時間まであるのか!?」
「今のは感想だ」
「分かりにくい!」
ロウガの視線が、カナタの白旗へ向く。
「力を借りたい」
「いいぞ!」
即答。
ルゥが船底から根綿を投げた。
「話を聞いて!」
カナタは白旗で受け止める。
「条件は?」
「順番が逆!」
ロウガは白い霧の先を示した。
「中央脈は枯れている。だが、あと二日で《星心門》へ届くはずだった」
「はず?」
「地図上ではな」
シノが鼻で笑う。
「枯れた道を、地図の上だけ進むつもり?」
「根が消えたなら、新しい道を作る」
ロウガはカナタを見る。
「《未踏路》で、枯脈域の向こうへ一歩を置いてほしい」
次に、ルゥ。
「《継ぎ路》で九つの脈区を、その道へつなぐ」
ナギの鈴束へ。
「九区の歩調を、一つの返事へそろえる」
「そろえない」
ナギは即答した。
「九つの現在を聞く」
「前進時刻が同じならよい」
「場所が違う」
「同じ町だ」
「同じ町でも、治療区と炉区は同じ速さで動けない」
ロウガは一瞬だけナギを見る。
次にザンバ。
「道が分かれれば、《岐点》で前へ通る一本を選ぶ」
「俺の力は、選ぶために分ける」とザンバ。
「一本へ戻せとは言っていない」
「同じことだ」
ロウガは答えず、カナタへ向き直る。
「成功すれば、第一歩号を修理する。星脈炉。根脈地図。必要な物資も渡す」
「決まりだ!」
「カナタ」
シノが呼ぶ。
「何だ」
「八番目の旗を持ってるんでしょ」
帆柱に結ばれた、薄青い小旗を見る。
八つの足跡。
「先頭を渡せるようになったって聞いた」
「おう!」
「渡した先頭が、違う道へ行っても後ろを歩くの?」
カナタの笑みが止まる。
「違うって決まってない」
「枯れてる」
「枯れた先へ道を作ればいい」
「三日前の分かれ道へ戻れば、別の星脈がある」
「戻るのに三日。新しく作れば二日」
「その二日は、誰が決めたの」
ロウガが赤銅の旗を地面へついた。
「私だ」
九本の線が光る。
「標術――《順脈》」
町中の矢印が、一斉に前を向いた。
シノの左靴まで、前へ引かれる。
「ネウラは九年前、逆走で一つの脈区を失った」
ロウガの声は低い。
「四十三人が帰らなかった。返脈師セラも、その一人だ」
シノの指が深緑の旗へ食い込む。
「私の母さん」
カナタが二人を見る。
「親子?」
「今の話で分かったでしょ!」とルゥ。
「髪の色が違う」
「そこから離れて!」
ロウガの目は、シノではなく前を見ていた。
「以後、ネウラは一度も戻っていない」
「だから、また間違える」
「だから、生きている」
「前へ進んでるだけ」
「止まれば根に潰される」
「戻るのは止まることじゃない!」
「同じだ」
「違う!」
父と娘の声がぶつかる。
カナタは白旗を握った。
三日前。
二日先。
歩いた距離。
戻る時間。
遅れて届いた警告。
「前へ行く」
シノが振り向く。
「カナタ?」
「俺が道を作る。枯れた根も越える」
「どうして」
「ここまで来た」
言ってから、胸のどこかが引っかかった。
けれど、ロウガは頷いた。
「明後朝、第一脈区で貫通式を行う」
赤銅の旗が前へ向く。
「それまで船を直せ」
「弁償は?」とカナタ。
「別だ」とシノ。
「厳しい!」
ロウガは去った。
人々も前へ流れる。
シノだけが、その場に残った。
深緑の旗の九つ目の空白へ、折返札を一枚押し当てる。
何も起きない。
「ここまで来たから、って」
シノが言った。
「道が合ってる理由になる?」
カナタは答えなかった。
星根が、また一度脈打つ。
どくん――。
九つの町が、枯れた前へ一歩進んだ。
翌日。
ロウガは、第一歩号の四人へネウラを見せた。
「戻す必要がないと納得させるため?」
シノが訊く。
「進む町の重さを知ってもらうためだ」
「同じ言い方」
「違う」
父と娘は、同時に前を向いた。
同じ方向。
同じ気持ちではない。
第一脈区の航路塔では、若い航路士トウマが星図を九枚重ねていた。
三十一歳。眠そうな低い声だが、危険を見つけると急に滑舌が良くなる。右親指を痛めてから結び目だけ左で作り、曲がりきらない左薬指に合わせて航路縄の締め方も変えた。腰袋の鍵と古銭は二度まで鳴らし、三度目を指で止める。弟から最後に届いた手紙も、その無音の位置へ挟んでいた。
中央脈。
古い地図では、星心港まで直線。
新しい観測では、霧の奥で脈光が消えている。
「道がないなら、作る」
トウマはカナタの白旗を見る。
「未踏路があれば、地図を直せる」
「地図を道に合わせる?」とルゥ。
「道を地図に戻す」
「どっちが正しいの」
「星心港へ着くほう」
トウマの弟は、三年前に星心港へ先行便で移っている。
手紙は半年に一度。
最後の便りには、港の新しい炉へ入る仕事が決まったとあった。
「戻れば、また遠ざかる」
トウマは言う。
「今度こそ会えると思って、三日進んだ」
「三日なら戻れる」とシノ。
「三年は?」
シノは答えない。
第二脈区。
根水を集める透明な池が、区画の前方へ傾いていた。
水路師ナユが、水面へ九本の棒を浮かべる。
五十四歳。透明な床では距離感を誤ることがあり、必ず棒の先で一度叩いてから踏む。左手で水量を書き、右手は孫や患者へ触れる時だけ使う。額の汗で札が濡れても「この程度は記録外」と言い張るため、シノは本人の体調欄を別に作っていた。
戻る案へ賛成しても、嫌いな工房長と同じ水路を直す日を一度は成功させたいという、役職外の意地もある。全員が同じ側へ分かれなければ協働できない町にはしたくなかった。
全部、前を向く。
「逆へ動かしたら?」とルゥ。
「池が住居区へ落ちる」
「支えを作れば」