第197話 第三章「古い地図の町」前編

「一池に三刻。池は二十七」

「八十一刻」

カナタが胸を張る。

「数えられた!」

「長い!」

「そこは分かった!」

ナユには、生まれたばかりの孫がいる。

水を止めれば、飲み水が先に尽きる。

戻るための準備をしている間も、町は生きる。

「間違いなら戻るべき」

ナユは言った。

「でも、戻ると言った者が水を運ぶのか」

「運ぶ!」とカナタ。

「全部?」

「みんなで!」

「誰が、いつ、どの池を」

「今から決める!」

「決める間も水は流れる」

第三脈区。

畑は星根の丸い壁へ張りつき、穂が進行方向へ寝ている。

農師ハツネが、土の中から白い根屑を取り出した。

四十三歳。細い札は腕いっぱい離さないと読めないが、遠い航路標は若者より先に見つける。片方だけの手袋をし、もう一方の足指で種札を拾った。幼い火傷で眉の一部がなく、黙っているだけでも片側の顔が厳しく見える。

「札が遠い」

疲れを隠す時の言葉だった。苗を旧地図のために枯らすのは嫌だが、帰る場所を一つに決めず、季節ごとに複数の畑を持ちたいとも思っている。

「中央脈の土」

指で折る。

乾いた音。

「枯れてる!」とカナタ。

「三日前から」

「じゃあ戻る!」

「畑ごと?」

種をまいたばかり。

芽は前向きの重さへ根を張った。

町を返せば、半分は抜ける。

「植え直す」とシノ。

「今年の収穫は減る」

「枯れた先へ行けば、全部なくなる」

「だから迷っている」

ハツネはどちらにも頷かなかった。

第四脈区。

炉と工房。

星脈の鼓動を歯車へ変え、九つの町を動かす区画。

工房長イワオは、ルゥが一晩で書いた船の修理図を見て笑った。

五十二歳。近視の眼鏡を外すと相手の顔がぼやけるため、怒りを鎮めたい時ほど眼鏡を外す。足首には幼い頃の安全縄の痕が輪になって残り、立ちっぱなしの作業でそこを親指になぞる。

見習いが三人いる。工具は必ず柄を相手へ向けて渡すのに、失敗しそうな作業だけは奪ってしまう。「食べれば治る」と言って倒れるまで働くことが、技術より古い癖だった。

「前へ進む機巧しかない」

「後ろへ戻す機巧を作ったことは?」

「九年前に禁止された」

「図面は?」

「焼かれた」

イワオは机の下から、小さな逆歯車を出す。

禁止された形。

表へ回せば前。

裏返せば、噛み合いをほどきながら戻る。

「残してるじゃない」

「図面は焼いた」

「物は?」

「捨て損ねた」

「同じ町ね」とルゥ。

イワオは笑わない。

「工房区には、前送炉が九基ある。貫通式のために、十二年かけて強くした」

「戻すなら?」

「半分を解体する」

「十二年が無駄?」とカナタ。

「部品は使える」とルゥ。

「同じ炉には戻らない」

「戻すために、前の形を終える」

「簡単に言うな」

イワオの手には、前送炉でできた火傷。

十二年間、前送炉は水の届かない区へ根水を送り、急病人を治療区へ運び、崩れかけた根から町を逃がしてきた。

旧第九脈区を失ったあとにも、前へ送る仕組みで助かった命はある。

だから、十二年全部を失敗の一言へ入れることはできない。

今の図が違うと知ったあとも、同じ仕組みだけで押し切ろうとしていることとは、分けて考えなければならなかった。

第五脈区。

家々は全部、前方に玄関。

後ろ側は壁。

住居長マドカが、一軒の扉を開く。

五十歳。片目を閉じたほうが距離を正確に測れ、母の寝台を運ぶ時だけそうする。左利きだが、反復する公印作業は右。腰痛がありながら椅子を拒み、「返事が来てから休む」と言う。家族を守る熱心さが過ぎると、本人より先に住む場所を決めてしまう欠点もあった。

母を英雄的な我慢の人として保存したいのではない。朝に髪が跳ね、薬を嫌がり、孫へ甘い物を隠す格好悪い日常まで、新しい家へ運びたいと思っている。

中の床も、棚も、寝台も、進む重さへ合わせて固定されている。

「家を反対へ向けるなら?」

「一軒ずつ中身を出す」

「何軒?」

「六百十三」

「多い!」

「数えられた?」

「六百まで読めない!」

マドカの母は歩けない。

治療区へ運ぶには、前へ二区。

戻るなら、治療区は後ろへ七区。

「戻る道ができるまで、母をどこへ置く」

シノは答えを急がない。

「今の家」

「町が動く」

「誰かが一緒に残る」

「誰が」

「私」

「第九区は?」

シノの口が止まる。

一人は一つしかない。

第六脈区。

鐘と伝令。

オトハは、九つの鐘を見せた。

一番鐘から九番鐘へ。

前進命令を順番に送る。

逆向きの槌は外されていた。

「返事は?」とナギ。

「受領一音」

「今いる場所は?」

「必要ない」

「病気の人は?」

「治療区が数える」

「治療区の鐘が壊れたら?」

「前へ伝令を出す」

「後ろにいる人へは?」

オトハは何も言わない。

ナギは八番雲で作った現在路の図を広げる。

「九つの鐘へ、別の返事路をつけたい」

「貫通式のために前送路を太くする」

「今の返事は?」

「式が終わってから」

「終わる前に誰かがいなくなったら?」

オトハは一番鐘を見る。

「式を成功させる」

「答えになってない」

「町では答えだ」

第七脈区。

治療所。

寝台は脈流へ揺らされないよう、前後二本の索で固定されている。

治療長サエが索を一本外す。

四十七歳。掠れた声は長く話すと咳に変わる。文字は右、薬袋の受け取りは左。複数の鐘が重なると耳鳴りと吐き気が出るため、片耳を塞いで一つずつ患者の呼吸を拾った。

「次の鐘まで持つ」

自分の限界を隠す言葉だ。町全体の判断で患者が後回しになることを恐れるあまり、患者自身の「進みたい」まで止めてしまう時がある。一日だけ誰にも必要とされず眠りたいという望みは、誰にも言っていなかった。

寝台が前へ滑る。

「戻すときは、後ろの索へ張り替える」

「全部?」

「百二十八床」

「できる!」

「患者を乗せたまま?」

カナタの声が少し小さくなる。

「降ろして」

「どこへ」

廊下も前へ流れている。

止まれる床は少ない。

「戻ることに反対?」とシノ。

「患者に選ばせたい」

サエは答えた。

「前へ行く危険も、戻る危険も話す。それから」

「時間がない」とロウガ。

「だから、決める時間を最初に削るの?」

ロウガは視線を逸らさない。

第八脈区。

倉庫。

五日ぶんの食料。

前方の星心港で補給する予定だった。

戻れば九叉心まで三日。

そこから正しい脈へ二日以上。

少なくとも五日。

「ぴったり!」とカナタ。

倉庫長クラトが板を見せる。

四十九歳。白地に白い境界を見落とすため、箱札の縁へ必ず炭線を引く。緊張すると手汗で紙が濡れ、指先へ粉をつけてから数え直す。書くのは右、受け取るのは左。

「見えているから大丈夫」

そう言う時ほど全体が見えていない。住む場所を一つへ固定せず、倉庫にも家にも休める小さな席を持ちたいと思っていた。物の戻り先が一つでないことを、私生活では先に知っている男だった。

「全員が同じ量を食べたら」

「食べる!」

「子どもと炉工が同じ?」

「俺が減らす!」

「船長は一人」

「干し茸を出す!」

「それは船の食料」とルゥ。

「みんなで食う!」

「五日ぶん増えない!」

最後。

第九脈区。

返路札保管庫。

戻れない物。

戻さなかった言葉。

廃止された仕事。

シノが母の箱を持って立つ。

「ここが、戻る側の先頭になる」

ロウガが言う。

「九年前も、そうした」

「途中で前へ引いたのは父さん」

「だから、もうしない」

「戻ることを?」

「町を裂くことを」

「前へ進んで裂けるかもしれない」

「未踏路がある」

ロウガの答えは、カナタを見ていた。

若い未踏路士の即断は、ロウガにとって希望であると同時に、自分を正当化してくれる鏡でもあった。娘を見ずに鏡板だけで後ろを確かめ、口の中で「三日、二日、一日」と数字を唱える。恐怖へ触れるほど、九年前の風向きや亀裂の速度まで、訊かれていない細部を説明した。

九つの脈区。

九つの仕事。

九つの事情。

戻るほうが正しいと分かっても、戻れば誰かが痛む。

前へ進んでも、誰かが痛む。

「簡単じゃないな」

カナタが言った。

「今まで簡単だと思ってた?」とルゥ。

「道を作れば行けると思ってた」

「今も?」

白い霧の先を見る。

「道を作れば、前へは行ける」

「正しい場所へ?」

カナタは答えなかった。

その夜。

第一脈区で、貫通式の説明会が開かれた。

九区の代表。

工房師。

治療師。

住民。

前へ流れる広場に、足止め杭を打って立つ。

ロウガは巨大な星図を掲げた。

星図を持つのは左手。反復する指示棒だけ右手だった。鈍い前腕へ力を入れすぎないよう、棒先の沈みを目で確認する。鏡板には会場の後方とシノが映っているのに、本人は一度も振り向かない。

「今止まるほうが危ない」

まだ誰にも止まれと言われていないうちから口にした。限界と恐怖を隠す決まり文句だった。

中央脈。

三十年前の地図。

真っすぐ先に、星心港。