第198話 第三章「古い地図の町」後編
「道は消えた」
シノが言う。
「根脈は枯れる。位置は残る」とロウガ。
「港が同じ場所にある証拠は?」
「鐘がある」
第六脈区のオトハが、観測筒を鳴らす。
白い霧の向こうから、三つの鐘。
ごおん。
ごおん。
ごおん――。
人々がざわめく。
「星心港の入港鐘だ!」
トウマの顔が明るくなる。
「弟のいる港!」
ナギだけが、鈴へ耳を当てたまま動かない。
「返事じゃない」
「鐘が鳴った」とロウガ。
「呼びかけてない」
「港は、近づく船へ自動で鳴る」
「何年前の仕組み?」
「五十年以上前から」
「今の港?」
「港の鐘だ」
「今いる人の返事じゃない」
会場の空気が張る。
トウマがナギを見る。
「鳴ってるのに、ないことにするのか」
「音はある」
「なら港がある!」
「鐘だけかもしれない」
「希望を消すな!」
ナギの指が鈴を強く握る。
母イオラの返事を残響だと言われ続けた。
聞こえるものを、勝手に「ない」と決められる痛みを知っている。
「消さない」
ナギの右手は鈴、左手は記録。問いと答えを同じ手へ持たない。トウマの希望を傷つけたくない気持ちと、現在応答と認められない判定を別々の欄へ置いた。
高い港鐘が重なり、舌に金属味が戻る。オトハへ一音目と三音目の高さを預け、ルゥには観測筒の自動機構を見てもらう。希望を守るために、自分一人の耳を絶対にしない。
声を抑える。
「だから、鐘が鳴ったって残す。港の人が今返事したとは書かない」
「同じだ!」
「違う!」
ナギの声が、鐘塔へ響く。
「残響を残響って言うことと、聞こえなかったことにするのは違う!」
トウマが黙る。
ロウガは星図の中央を指す。
「未踏路で枯脈を渡り、鐘の位置へ到達する」
「距離は?」とルゥ。
「二日」
「何を基準に」
「古地図」
「今の地図は」
「ない」
「後脈窓から九叉心の別脈が見える」とシノ。
「戻るのに三日。その後、港まで二日以上」
「一日短いほうへ行く?」
サエが患者名簿を持ち上げる。
「一日で助かる患者がいる」
「一日で失う町がある」とシノ。
「戻る途中に失う患者もいる」
「前へ行けば全員失うかもしれない」
「戻っても全員助かるとは限らない」
声が重なる。
前へ。
戻れ。
道を作れ。
分岐へ帰れ。
誰も、軽い理由ではない。
ロウガはカナタへ向く。
「未踏路士」
「俺?」
「道を作れる者の意見を聞きたい」
大勢が見る。
白旗。
世界の果てへ道を作った少年。
折岸を渡し。
双灯港を終わらせ。
歩雲群で先頭を譲った者。
カナタは、古い地図を見る。
静止した細い文字列では行を飛ばすカナタにも、三十二年前の太い一本線だけはすぐ読めた。現在調査図は未確認の点と日付が多く、指で線を追う途中に二度、同じ分岐を新しい線だと思った。
見やすさが、正しさに見えた。右膝の古傷が冷えて一歩遅れたことさえ、迷いではなく助走だと決める。自分が読みやすい図を、町にも歩きやすい道だと思い込んだ。
一本の線。
分かりやすい。
向こうから鐘も聞こえる。
ここまで三日進んだ。
戻るより一日短い。
「前へ行く」
会場が静まる。
「俺が道を作る」
トウマが拳を握る。
ロウガが頷く。
シノはカナタを見たまま、何も言わない。
ルゥは星図の余白へ、細い線を一本書いた。
中央脈から、何もない霧へ。
未確認。
「俺たちも?」
カナタが訊く。
「まだ決めてない」とルゥ。
「同じ船だぞ」
「同じ船で、別の意見を言えるようになったでしょ」
八番目の旗。
先頭を渡す。
後ろから違うことを言う。
カナタの眉が寄る。
「でも、道を作るのは俺だ」
「だから、間違えたとき一番止まりにくい」
ザンバが言った。
「間違えない!」
「そう思って進んだ者を、何人も知っている」
「お前も?」
「俺もだ」
ロウガが貫通式の日を告げる。
明後朝。
会場の人々は前へ流れていく。
決まったと思う者。
まだ決めていない者。
決める時間を失った者。
古い地図だけが、広場の中央で真っすぐだった。
翌朝までに、ナギは第六脈区の鐘台へ九本の細い音路を張った。
一本目は第一脈区。
二本目は根水区。
三本目は畑区。
九本目は返路札保管庫。
同じ太さにはしなかった。
第一脈区の鐘は低く。
第二は水滴のように短く。
第三は、芽を驚かせない柔らかな音。
第七の治療区には布を巻き、寝台の近くでも響きすぎないようにする。
「全部同じ鐘にしたほうが早い」
オトハは言いながら、腰の痛みを隠すため片足へ重心を寄せた。右手で統一案を指し、怒りが混じった左手は九輪の一番下へ戻る。制度の言葉と本人の手が、別の答えを出していた。
第六脈区の伝令見習いオトハが言った。
「同じ音にしたら、誰が返したか分からない」
ナギは九本目の鈴を調整する。
「統脈鐘は分かるよ」
「何が?」
「町が前へ行くって」
「誰が反対したかは?」
「分からない」
「返事がなかった人は?」
「分からない」
「壊れて鳴らなかった鐘は?」
「……分からない」
オトハは腰の九鐘を見た。
「じゃあ、統脈鐘は何を聞いてるんだろ」
「誰も聞いていないことも、全部鳴らせばいいわけじゃない」
オトハは未送音箱を一つ抱えた。中には家族へだけ返す声も、治療記録も、本人が公開を拒んだ言葉もある。
「命令を分ける。現在を返す。けど、秘密まで大鐘へ載せない。返事を持ち主へ戻す編集室にしたい」
ナギの答えを真似たのではない。誰へ渡さないかまで決める、伝令見習い自身の倫理だった。
「決まったこと」
「返事じゃない?」
「決定を知らせる音」
ナギは青い帳面を開いた。
「知らせる音が必要なことはある。でも、決まる前の声まで同じにしない」
鐘台の下では、九区代表の会議が始まっていた。
議題は《貫通式》に参加するか。
表向きは、すでに決まっている。
それでもナギは、一人ずつ現在の返事を取った。
第一脈区のトウマ。
『進みたい。ただし、星盤では中央脈の先が読めない』
第二脈区のナユ。
『戻れば水は足りない。青い脈なら補給できる可能性がある』
第三脈区のハツネ。
『芽は一日なら耐える。三日戻れば半分が枯れる』
第四脈区のイワオ。
『炉は止められる。再点火に時間がかかるが、町より重くはない』
カナタが驚く。
「昨日、止めたくないって」
「止めたくない」とイワオ。
「止められないとは言ってない」
「違うのか!」
「嫌なことと、できないことは違う」
第五脈区のマドカ。
『住区は戻る揺れに耐えられるか分からない。前へ進む揺れにも、もう限界が近い』
第六脈区のオトハ。
『返事を九つ聞いてから決めたい』
第七脈区のサエ。
『負傷者百二人。前でも後ろでも、急加速に反対』
第八脈区のクラト。
『食料五日。戻れば三日、青い脈なら二日。中央を未踏路で抜く時間は不明』
第九脈区のシノ。
『九叉心へ戻る。今の地図を見て選ぶ』
最後に、カナタ。
『中央脈の先へ未踏路を作る』
「理由は?」
ナギが訊く。
「町が困ってる」
「戻る案でも助けられる」
「時間がかかる」
「新しい道に何刻かかる?」
「やれば分かる」
「それは答え?」
「俺の答えだ」
ナギはそのまま書いた。
――所要時間、未確認。
――行き先、旧図上の星心門。現在位置、未確認。
――船長カナタ、前進案を選択。
「厳しくない?」
「正確」
「もう少し格好よく!」
「格好は記録しない」
ロウガは九つの返事を読み、統脈鐘の綱へ手をかけた。
「では、前進案で行く」
「九つ聞いた?」とオトハ。
「ああ」
「反対、二つ。条件つき、六つ。賛成、一つ」
「決定は一つだ」
「賛成が一つだから?」
「最も早く、今ある力で実行できる」
「戻る力もある」
「九年前に町を裂いた」
鐘台の空気が固くなる。
ロウガは綱を引いた。
「ネウラは前へ進む」
ごおん――。
統脈鐘が鳴る。
九本の細い鐘が、その大音に呑まれそうになる。
ナギは両手を広げ、一つずつ受け止めた。
低い一音。
水滴。
芽の揺れ。
炉の響き。
家族札の擦れる音。
オトハの小鐘。
寝台の軋み。
荷箱。
折返札。
消さない。
大きな決定の下に、小さな返事が残っている。
「聞こえる?」
オトハが訊く。
「全部」
「どれが正しい?」
ナギはすぐ答えず、舌先で五拍を数えた。九音のうち第七だけ高音が欠けて聞こえる。自分の過負荷か、サエの布巻きか、鐘の損傷か判定できない。
「第七は私だけでは決めない。サエ、オトハ、ルゥへ確認を渡す」
響路士は正解を宣告する装置ではない。聞こえない条件を申告し、判断を返す道も作る役だった。
「それは、私が決めない」
「響路士なのに?」
「だから」
ナギは統脈鐘を見上げた。
「返事を運ぶ人が、答えまで一つにしたら、届かなくなる」
鐘の余韻の中。
カナタは、九つの違う音を聞いた。
聞いたうえで、白い霧へ進むことを選んだ。
後から「知らなかった」とは言えない道が、そこで始まった。