第199話 第四章「後ろ向きの食卓」前編

第九脈区の朝は、町の後ろから始まる。

前の八区が落としたものが、脈流に乗って届くからだ。

片方だけの靴。

宛先を間違えた手紙。

削りすぎた歯車。

止め忘れた炉の栓。

渡せなかった謝罪を書いた紙。

食べきれなかった根芋。

「最後の二つは戻せるのか?」

カナタが訊く。

「根芋は腐る前なら」とシノ。

「謝罪は?」

「相手が受け取るなら」

「受け取らなかったら?」

「返ってくる」

「もう一回送る!」

「内容を直してから」

「四番目の旗!」

「謝罪まで次稿にしないで」

返路札保管庫の奥には、棚が九列あった。

一列目は、持ち主が分かる物。

二列目は、宛先が古い物。

三列目は、戻せるが壊れている物。

四列目は、戻すと危険な物。

五列目は、持ち主が受け取りを拒んだ物。

六列目は、返事がない物。

七列目は、戻せない言葉。

八列目は、戻す必要がないかもしれない物。

九列目だけ空だった。

空棚の端だけ、紙と布が直角にそろっていない。シノが意図的に崩していた。何を置くか決まる前から棚の規格へ合わせれば、選び直しの答えまで先に決まるからだ。

作業眼鏡をかけ、札を裏から読み、返事の時刻を一枚ずつ確かめる。「手順の中に休憩はない」と口にしたところで、ナギが休憩札を空棚へ置いた。シノは怒って旗の九矢印を爪で弾き、九本目でようやく座った。

「ここは?」

「選び直したあとに置く場所」

「何を?」

「まだ決まってない」

「空の棚!」

「だから使える」

シノは一列目から、第三脈区の子どもの靴を取った。

昨日、十歩だけ戻した靴。

まだ持ち主から六区遠い。

「今日、返す」

「どうやって?」

「返路札を九枚重ねる」

「昨日は一枚ずつだったぞ」

「町が眠る刻なら、統脈が弱い」

「規則違反?」

「点検」

「便利な言葉!」

シノは逆走台車へ靴を載せた。

ナギが持ち主の現在地を聞く。

第三脈区、畑道の入口。

ルゥが九枚の折返札を銀糸で一列につなぐ。

ザンバが前進脈を左右へ分ける。

カナタは最後に、靴の手前へ一歩分の光板を置く。

「持ち主の前!」

「今は、後ろ」とシノ。

「持ち主にとっては前!」

「それなら合ってる」

九枚の札が順番に裏返る。

一歩。

次の一歩。

逆走台車は、前を向いたまま後ろへ滑った。

九つの脈区の裏側を抜ける。

家々の背中。

店の裏口。

配達先の変更を消した跡。

表からは見えない修理痕。

「町の後ろって、傷だらけだな」

「前は、直した顔を見せる」とシノ。

「後ろは?」

「直しきれなかった場所を持つ」

第七脈区へ着く。

治療所の戸口で、カイセが前傾姿勢のまま待っていた。背もたれのある椅子へ座っても、いつでも立てるよう腰を浮かせている。その隣の寝台には、八歳の妹エン。高い鐘が聞き取りにくく、兄の口元と床へ落ちる影を交互に見ていた。

「返ってきた!」

エンは右手を伸ばす。疲れると小指だけが立つ。靴底の《エン》は、自分で書いた字だった。

「靴が勝手に落ちたの」

叱られそうになると主語を道具へ移す癖で言い、すぐ自分から紐を結び直した。

カイセは熱冷ましを先に渡していた。瓶の底には最後の一滴だけ残してある。妹が薬を飲み終えた証ではなく、足りなかった時に自分が怖かったことを忘れないための一滴だった。

「予備薬があっても、僕のが届くまで怖かった」

大人びた敬語へ逃げず言えた。エンは兄の袖を黙って掴む。信用している時の沈黙だった。

「戻る道、便利だろ!」

カナタが胸を張る。

「シノが作った」と少年。

「俺も一歩!」

「二歩目」とナギ。

「今は順位を言っていい!」

シノは返却札へ、持ち主の印をもらう。

「これで仕事、終わり?」

「終わり」

「終路鐘!」

「靴一足に鳴らさないで」

「終わったぞ!」

「終わったから、次の靴を返す」

カナタの顔が曇る。

「終わりなのに続く?」

「一つの仕事が終わる。仕事そのものは続く」

「七番目の話!」

「毎回、全部の旗を持ち出すの?」

「持ってるから!」

第三脈区の少年が、返路札の裏を見た。

「これ、前と後ろ、どっち?」

「行き先があるほう」とシノ。

「僕が靴を返すときは?」

「返す人にとって、そっちが前」

少年は札を何度も裏返した。

「向きって、決まってないの?」

「道に決めてもらうと、町みたいになる」

シノの声が少し硬くなる。

返路札保管庫へ戻る途中。

カナタは、空の九列目を見た。

「シノは、何を戻したい?」

「町」

「どこへ?」

「九叉心」

「そのあと?」

「選ぶ」

「青い脈?」

「今のところ」

「正しい?」

「分からない」

「それで戻るのか?」

「戻る力は、正しい道を当てる力じゃない」

「じゃあ何の力?」

「違うって言う力」

シノは空の九列目へ、昨日の靴の返却札を置いた。

戻った物。

でも、昔と同じ状態へ戻ったわけではない。

少年は一日、友達と片方ずつ靴を履いた。

その時間も、返路札に記録されている。

「戻っても、途中は消えない」

治療所では、エンが戻った靴をすぐには履かなかった。自分だけの小さな棚を作り、温石と日付のない約束札の隣へ置く。兄が勝手に左右をそろえようとすると、靴底を三度こすって怒りを抑えた。

「ここ、私の並べ方」

待っていた子どもも、戻った物を昔の位置へ戻すだけではない。今の自分が置く場所を選んだ。

シノが言った。

カナタは、空の九列目へ置かれた返却札を見た。

旧第九脈区へ戻っても、失われた町が元どおりになるわけではない。

戻った靴には、少年と友達が片方ずつ履いて過ごした一日が残った。

戻るとは、途中を消すことではない。

そのことは分かった。

それでも翌朝、彼は三十二年前の地図の先へ道を作るつもりでいた。

ネウラの食堂では、食べ終えた皿を後ろへ下げられなかった。

卓上の脈路が、すべて前向きだからだ。

皿は食べ終わると隣の席へ進み。

さらに次。

九席を一周して、ようやく洗い場へ着く。

「この皿、三回目だぞ!」

カナタが焼き根豆の皿を見た。

「食べ残したから」とルゥ。

「残したんじゃない! 次へ渡した!」

「次の人も食べなかった」

「好き嫌い?」

「焦げてる」

「香ばしい!」

「黒い」

「夜色!」

「食べ物の旗を増やさないで」

食卓には、第一歩号の四人とシノ、ロウガが座っていた。

九席あるうち、三席は空。

皿だけがそこを通る。

「空席へ食事を出すのか?」

ザンバが訊く。

「九人そろわない日も、卓路は九席ぶん動く」とシノ。

「空いているなら、止めればいい」

「止める仕組みがない」

「作れ」とカナタ。

「明日、町ごと前へ作る人に言われたくない」

「机と町は違う!」

「大きさだけ」

ロウガは食事へほとんど手をつけなかった。

座って食べる習慣がない。脈導長になってからは、歩きながら片手で済ませてきた。卓へ固定されると、九爪の靴が何度も前へ出ようとする。赤帯の張力を指で確かめ、鏡板越しに空席を見る。

前腕の感覚が鈍いため、椀の熱さも目で湯気を見て判断した。ひと口も取らないのは喪に服すためではなく、止まった食卓で何をすればよいか分からないからだった。

皿が前へ流れるたび、空席の一つを見る。

「誰の席だ?」

ナギが訊く。

「空席だ」

「名前は?」

「ない」

「昔は?」

ロウガは答えない。

シノが皿を止めるため、折返札を一枚置いた。

「母さん」

一席目。

「旧第九脈区の副返脈師」

二席目。

「返脈工のホウ」

三席目。

「台車師ミギワ」

ホウの席には、柄を左利き用へ逆に削った欠け歯車。細部を見すぎて全体を見落とすため、作業後に必ず三歩下がった職人だった。記録には《事故機構を設計》とある一方、別の作業札には《停止条件を三度申請》と残る。どちらも消せない。

ミギワの席には、煤の染みた測定糸と欠けた皿。右眉の中央が途切れ、笑いと咳が混じる人だったという。古い手順を守りすぎた記録と、空白札を机へ置くことを主張した証言が食い違っている。

二人は現在の問いへ新しく答えない。道具と記録と、座った者ごとに違う思い出だけが、空席へ一人の正解ではない輪郭を作った。

「三人だけ?」とカナタ。

「ここでよく食べてた人」

「四十三人は?」

「家ごとに空席がある」

食堂の奥。

別の卓にも空席。

その先にも。

ネウラは前へ進みながら、九年前の席を空けたままにしている。

戻らないと決めたのに、空白は消していなかった。

「ロウガ」

ザンバが呼んだ。

「何だ」

「空席を数えるなら、後ろを見ている」

「忘れてはいない」

「なら、なぜ返脈を悪とした」

「町を裂いたからだ」

「前送も裂いた」

食卓の脈路が動く。

ロウガの皿が、シノの前へ流れる。

手つかず。

「食べないなら戻す」

シノが折返札を置く。