第200話 第四章「後ろ向きの食卓」後編

皿が一歩、ロウガへ戻る。

ロウガは札を外した。

皿がまた前へ進む。

「父さん」

「決めた」

「食べないって?」

「ああ」

「じゃあ、洗い場へ送る」

「前へ送れ」

「同じ場所へ行くから?」

「そうだ」

「二日かかる」

「構わん」

「明日、皿が足りなくなる」

ロウガは皿を見る。

ほんの小さなこと。

前へ送り続けることで、洗い場から遠ざかる。

「戻せ」

「今、何て?」

「洗い場へ戻せ」

「戻るって言った」

「皿の話だ」

「町も同じ」

ロウガの左手が皿へ伸び、右手は鏡板を押さえた。娘へ名を呼ぶ前に一呼吸置く癖が出る。

「シノ。皿は戻す。町は、まだ違う」

初めて娘の名を先に置いた。結論は変わらない。それでも制度だけへ答えず、誰へ返している言葉かを認めた。

「違う」

「大きさだけ」

今度は、シノがカナタの言葉を使った。

カナタは嬉しそうに頷く。

「俺の弟子!」

「違う」

「返事が早い!」

ナギは空席へ鈴を近づけた。

古い声が聞こえる。

笑い声。

皿を叩く音。

女の声。

『ロウガ、食べるのが遅い』

セラの記録。

ナギは現在の返事を求めなかった。

記録は、今の問いに答えない。

「聞こえるのか」

ロウガが訊く。

「残ってる」

「何と」

ナギは迷った。

「言っていい?」

「聞いたのは私だ」

「食べるのが遅いって」

食卓の空気が止まる。

シノが吹き出した。

カナタも笑う。

ルゥは口元を押さえ。

ザンバだけは真顔だった。

「今も遅い」

ロウガは皿を引き寄せ、一口食べた。

「記録に従ったわけではない」

「分かってる」とナギ。

「今、食べるって決めた」

古い声は、新しい命令にはならない。

けれど、今の人が選ぶための一つの足跡にはなる。

食事のあと。

ロウガはシノへ、九年前の返脈事故の記録箱を渡した。

「後脈窓を開くなら、これを使え」

「許すの?」

「止めても行く」

「分かってる」

「ただし、戻る道があると分かっても、明日の決定は変えない」

「見る前に?」

「町を守るためだ」

ザンバが空席を見る。

「俺も、そう言って道を切った」

「後悔しているか」

「言葉を変えれば、傷が消えると思うな」

「答えていない」

「後悔している」

ザンバは短く答えた。

「だが、当時の俺が守ろうとしたものまで嘘にはしない」

ロウガは彼を見る。

「では、どうする」

「間違いを、守ったものの陰へ隠さない」

食卓の皿が、折返札で一つずつ洗い場へ戻っていく。

小さな返路。

町にはまだ、それしかなかった。

ネウラが眠る刻。

シノは逆走台車へ母の記録箱を載せた。

カナタ、ルゥ、ナギ、ザンバも乗る。

「五人乗り?」

カナタが台車の細さを見る。

「四人」

「俺を数えてない!」

「ザンバの椅子」

「椅子は置いてきた」とザンバ。

「じゃあ五人!」

「第一歩号は?」とナギ。

「修理台」

「現在を数えるなら六」

「船は来ないぞ!」

「遠くても現在」

「五番目、難しい!」

逆走台車は、前を向いたまま後ろへ走る。

四本の車輪のうち、二本だけが逆向き。

右の車輪はシノの右手、左は左手で別々に制御する。左右同時に別の仕事を進めるため、同乗者はどちらが本当の進路か不安になる。高音の警告鐘は聞き落とすことがあり、台車棒から来る低い振動とナギの口元で補った。

前へ送られるたび、シノは半歩だけ戻り、同じ半歩を進む。意味のない往復に見えるが、自分の足が町の命令だけで向きを変えていないか確かめる癖だった。

シノが棒を脈壁へ突く。

一歩ぶん戻る。

星根が脈打つ。

どくん――。

二歩ぶん前へ送られる。

「進んでる!」

「戻ってる!」

「景色が前へ流れてるぞ!」

「町より遅く進めば、町の中では後ろ!」

「計算がずるい!」

台車は第九脈区の裏側へ入った。

道のない保守路。

家の背中。

店の裏口。

人々が捨てた物だけが、脈壁へ引っかかっている。

前から見れば整った町。

後ろから見れば、直し損ねた傷と、戻し損ねた荷物の集まりだった。

「一番雲と同じ」

カナタが呟く。

「後ろからしか見えない」

「前の人は、前を見る仕事だから」とシノ。

「だから、後ろを見る人も必要」

台車の前に赤い札が浮いている。

――逆走禁止。

カナタが顔を近づける。

「読める!」

「本当に?」とルゥ。

《前へ急げ》!」

「逆!」

「字が後ろ向きだ!」

「正面から読んでる!」

シノが札を裏返した。

裏面には、手書きの小さな文字。

――戻る者へ。後ろは、前より狭い。

その下に、別の細字があった。

――狭い時ほど、一人で急がない。

母セラの返脈記録は、単に町を昔へ戻す設計ではなかった。九叉心へ戻り、現在図を読み直す時間を作るためのものだった。前と後ろを同じ厚さにした靴、袖へ隠した返路札、娘宛ての途中手紙。物ごとに残る意図は少しずつ違い、一つの英雄像へはそろわない。

「母さんの字」

台車は第九脈区の端へ着いた。

半円形の窓。

窓の外は、星根の内壁と外皮の間。

町が通り過ぎたあとの光が、細い隙間を流れている。

シノは記録箱から九本の針を取り出した。

一本目。

旧第九脈区。

二本目。

第八区の倉庫脈。

九本目まで、窓枠へ刺す。

《後脈窓》を開く」

「標術?」

「機巧」

「気合いは?」

「最後」

「使うんだ!」

九本目を刺す。

窓の金色が透明になった。

来た道が見えた。

星根の内側ではない。

後ろへ残った光の傷。

ネウラの九つの脈区が踏んだ跡。

中央脈をまっすぐ進む線。

そのずっと後ろ。

九本の星根が、花のように分かれている。

「九叉心」

シノが指さす。

中央の線は白く乾いていた。

右から二本目は青い光。

左から三本目は緑。

最も外側には赤い脈が強く流れている。

ナギが鈴を一つずつ向けた。

中央脈。

返事がない。

古い地図の残響だけ。

『星心門、正面』

三十二年前の案内音。

同じ言葉を繰り返す。

「記録」

ナギは左の鈴へ移した。

青い脈。

遠くから三つの鐘。

今の時間の揺れ。

「現在の返事」

緑の脈。

風と芽の音。

港鐘はない。

赤い脈。

強い熱。

途中で音が途切れる。

「中央だけ、昔の声しかない」

「星心門は移った」とルゥ。

「門がある場所へ、根が変わったのかも」

銀鋲を窓へ当てる。

《継ぎ路》

銀糸が中央脈の光跡へ伸びる。

途中で消えた。

さらに先を探る。

何もない。

「向こう側がない」

ルゥは銀糸を外した途端、左親指を右手で包んだ。《継ぎ路》の反動痛が強い日は、糸の向こう側がないことを自分の力不足と誤認しやすい。

「私の手が届かない、じゃない。接続先が検出できない」

技術用語へ逃げるのではなく、限界と観測結果を分けて言い直した。ナギも中央脈の無応答を、残響・現在・未確認の三欄へ分ける。二人の違う方法が、同じ結論を別々に支えた。

ルゥの声が低くなる。

「枯れてるだけじゃない。途中で根そのものがなくなってる」

「未踏路なら作れる」

カナタが言う。

「距離は?」

「着くまで」

「何へ?」

「星心門」

「場所は?」

「地図の先」

「その地図の声は、三十二年前!」

「門はある!」

「青い脈の先に!」

シノが母の記録箱を開く。

中には、深緑色の古い旗布。

九つの矢印。

最後の一つは後ろへ曲がっている。

布の下に、細い金属板。

ルゥが読み上げる。

《九歩返し》

図が刻まれている。

九つの脈区。

最後尾の第九区が最初に一歩戻る。

次に第八。

第七。

順番に、前の脈区へ返す力を渡す。

最後に第一脈区が向きを変える。

「一斉に戻らない?」

「一斉に向きを変えたら、根の脈が裂ける」とルゥ。

「後ろから順に。前の区が、後ろの足跡を受け取ってから戻る」

「八番目の旗みたいだな」

「違う」とシノ。

「先頭を渡すんじゃない。間違えた場所へ、順番に戻る」

「誰が最初?」

「最後尾」

「やっぱり八番目!」

「戻る方向では、最後尾が一番前だから」

「順位が変わった!」

「順位じゃない!」

ナギは九つの図へ、小さな現在欄を書き足す。

「戻る前に、一人ずつ返事を取る」

「時間がかかる」とシノ。

「返事を取らずに動いたら、九年前と同じ」

金属板の裏。

細い傷で文章が刻まれている。

――前脈、終路を確認してから返すこと。

――一つでも前進を続ければ、返脈は裂ける。

「終路を確認」

カナタは七番目の小旗を見る。

「前へ進む道を、一度終える?」

「戻る前に」とシノ。

「終えたら、また進める?」

「選び直してから」

カナタは中央脈の白い傷を見る。

ナギが現在の返事を持つ青い脈を見る。

ルゥが日付の違う二枚の図を見る。

ザンバは、黒い点を中央脈と九叉心の間へ置いた。

「ここが分岐だ」

「三日前だぞ」とカナタ。

「距離の話をしていない」

戻る場所は、故郷ではない。

間違えたと気づける分かれ道。

その違いが、後脈窓の透明な面へ映っていた。