第201話 第五章「九年前の裂け目」前編

「九年前、何があった」

ザンバが訊いた。

シノの深緑旗が揺れる。

答える前に、後ろの保守路から赤銅の光が来た。

ロウガ。

いつから聞いていたのか分からない。

「私が命じた」

男は後脈窓へ近づき、九叉心の古い光跡を見る。

「当時、前方の根崩れまで三十呼吸。全区を返す時間はないと判断した」

「母さんは間に合うって言った」とシノ。

「推測だ」

「父さんの三十呼吸も!」

「前に崩れが見えた」

「後ろには道があった!」

「見えなかった」

「見なかった!」

シノの声が窓へ響く。

ロウガは記録箱へ手を伸ばした。

九本の針の中央に、小さな記憶石を差し込む。

「見るなら、最後まで見ろ」

後脈窓へ、九年前の景色が浮かぶ。

若いロウガ。

長い深緑の髪を結んだセラ。

足指が長く、裸足で落ちた縄を拾う。数を数える時は左指から折るため、周囲と順番が逆だった。急な上下変化で平衡を失う古傷があり、台車が揺れた瞬間、右手へ道具を持ち替えすぎている。

『揺れが引けば戻る』

不調を隠す声が、記録の端に一度だけ入っていた。判断の正しさだけでなく、身体の限界も事故条件だった。

旧第九脈区。

前方では星根が崩れ、白い亀裂が迫っている。

『残り三十呼吸!』

第一脈区から叫び。

『九歩返しを始める!』

セラが深緑旗を掲げる。

『第九区、返脈準備! 第八区へ受取返事を!』

鐘が鳴る。

第八区から返事がない。

荷鐘が壊れていた。

『返事なし!』

『もう一度!』

セラは待つ。

二十七呼吸。

二十六。

前方の亀裂が近づく。

ロウガが赤銅旗を振る。

『前八区を先へ送る!』

『待って! 第八の返事がまだ!』

『待てない!』

『第九区だけ戻したら裂ける!』

『前に道がある!』

『後ろにもある!』

『見えない!』

『私が見てる!』

声がぶつかる。

統脈鐘が鳴った。

――前へ。

壊れた第八区の鐘は、返事を送れなかった。

それでも統脈鐘は全区の決定として響いた。

セラは、第九区の人々を見る。

子ども。

老人。

返路工。

前方の八区は遠ざかり始めている。

『戻る!』

セラは決めた。

深緑旗を振る。

『返脈開始!』

第九区だけが後ろへ動く。

ロウガの《前送》が前八区を引く。

二つの方向。

つなぎ目が悲鳴を上げる。

『止めて!』

『戻せ!』

『前へ!』

互いの言葉が、相手へ命令として届く。

誰も受け取る返事をしない。

星根が裂ける。

旧第九脈区は、外へ投げ出された。

四十三人。

セラ。

白い光の向こうへ消える。

記録はそこで途切れた。

ただし、この記録だけが九年前ではない。第一脈区の報告書はセラを《返事を待たず逆走した反逆者》と記し、第七脈区の治療記録は《崩落前に四十三人を集めた救助者》と書く。ミギワの台車帳には、セラ自身が停止条件を一つ見落とした傷も残る。

反逆者。救助者。無謀者。どれも一部で、どれか一つへ復元しない。今ここで質問しても、記録のセラは新しい答えを返さなかった。

「母さんが一人で戻ったから」

シノの声が震える。

「私が前を放さなかったからだ」

ロウガは言った。

初めて、理由を一つにしなかった。

「第八区の鐘が壊れていた」

ナギが記録を見た。

「返事なしを、賛成として扱った」

「統脈鐘を鳴らしたのは私だ」

「母さんも、返事を待ち切らなかった」とシノ。

「二人とも間違えた?」

カナタが訊く。

ロウガの顔が固まる。

「町を八区残した」

「それも本当」とルゥ。

「第九区を落とした」

「それも本当」

「どちらかだけにできないのか」

「一つにしない」とナギ。

古い記録。

現在の答え。

守ったもの。

失ったもの。

同じ道の中に、並べて残す。

ロウガは後脈窓を閉じようとした。

シノが九本目の針を押さえる。

「まだ」

「記録は終わった」

「捨て脈に続きがあるかもしれない」

「ない」

「見たの?」

「落ちた区画は、星根の外だ」

「見てない」

「生存者はいない」

「現在の返事は、ない」

ナギが言った。

「でも、記録の終わりが事故の瞬間とは限らない」

ロウガは手を止める。

「明日の式を変える気はない」

「見つけても?」とシノ。

「町を守る」

「何から?」

「戻ることから」

ロウガは後脈窓を閉じた。

九叉心が金色の壁へ消える。

「明朝だ」

男は保守路を前へ歩く。

「ネウラは止まらない」

シノは追わなかった。

逆走台車へ乗る。

棒を後ろへ向ける。

「一人で戻る気?」

ナギが訊く。

「返脈式を止める」

「九区だけで?」

「母さんの道を証明する」

シノの視線が出口へ固定され、指先が台車の留め具を探した。戻る選択でまた区を失えば、父を否定した自分のせいになる。その恐怖から、母の正しさを証明するという別の一本線へ逃げかけている。

ナギは旗を取り上げず、問いだけを置いた。

「母さんが間違えた場所も、一緒に持てる?」

シノはすぐ答えず、九矢印を八本まで弾いた。九本目には触れなかった。

「それ、九年前と同じ」

シノの手が止まる。

「前の人へ違うって言う」とナギ。

「聞かなかったら?」

「大きく言う」

「それでも?」

「返事を取る」

「時間がない」

「時間がないから、一人で決めた事故を見たばかり」

シノは逆走台車から降りた。

すぐには頷かなかった。

けれど、母の旗を一人で掲げることもしなかった。

カナタは二人を見ていた。

自分も、三人の反対を聞きながら前進を決めた。

違いはある。

自分には未踏路がある。

自分なら間に合わせられる。

そう思っている。

その思いが、九年前の二人と何が違うのか。

カナタはまだ、答えを言葉にしなかった。

説明会のあと。

第一歩号へ戻ると、《連標網》の受信輪が五回震えていた。

カゲノハ村からの現在報告。

ナギが鈴を一つだけ開く。

「アカリ」

『ここ』

遠い声。

その奥に、朝の三つ鐘。

荷車の車輪。

旅人宿の食器。

今日そこで暮らしている者の音だった。

『現在地、新しい配達小屋の前』

響路の向こうで、紙を左手へ持ち替える音がした。アカリは地図と宛名を左、薬や荷を渡す時だけ右を使う。間違えた線は消さず赤糸で囲い、人名札の角だけ丸く切る。

一度、返事が途切れた。初登場時の高熱以来、冷えと過労で立ちくらみが出る。以前なら自分の体調だけ現在図から外したが、今日はセノへ荷車の先頭を三十歩渡し、《案内役、一呼吸休止》と書き足した。

「行き先」

『旅人宿。修理部品を一箱』

「先頭」

『アカリ』

「受け取る人」

『宿守のキヌ婆』

少し間があり、別の鐘が五回返る。

『受け取るよ』

旅人宿受付のキヌ婆は、昔の家の鍵も今の宿の帳面も持っている。だからこそ、古い住所だけで呼べば昔の家へ引かれてしまう。今日の返事には食器の触れる音と、旅人へ湯を出す現在の仕事が混じっていた。

ナギは現在欄へ一行ずつ書いた。

アカリが一枚の紙を響路へかざす。

『九枚目』

「何が?」とカナタ。

『今の村の地図』

「八枚も送ったのか?」

『直したぶんだけ』

前の地図から変わった場所。

南橋の荷車路は一段下へ移った。

朝火窓が二枚増えた。

旅人宿の裏へ、小さな修理場。

カナタの家だった倉庫には、新しい出入口。

古い広場の中央には、苔玉ではなく荷解き台。

「変わりすぎ!」

『村が使ってるから』

「古いほうは間違い?」

『使っていた日には合ってた』

「じゃあ、今も半分くらい合う!」

『半分の橋は渡れない』

アカリは黄緑色の《宛標》を少し持ち上げた。

宛名札には、こう書いてある。

――南小枝三番、キヌ婆の家。

『今日、最初にこれを結んだ』

「キヌ婆の家だろ」

『昔の住所』

旗は、古い南橋の方角へ弱く傾いた。

しかし、橋が外された縁で、黄緑の線は途切れていた。

『名前は知ってる。昔の場所も残ってる。でも、今の受取人まで続かなかった』

「飛べば――」

『荷車は飛ばない』

「未踏路なら!」

『使える人はいない』

アカリは古い札を外した。

消さずに《旧住所》と書き、別の袋へ入れる。

『今の札は、まだ書き直してる途中』

「名前は同じだろ」

カナタの声が少し低くなった。帰る場所が変わる話へ触れた時の声だ。右足が半歩先へ出て、静止した地図へ注意が偏り、足元の工具箱を一つ見落とす。

説明が長くなりかけた。キヌ婆の昔の戸口、南橋、干し棚。質問されていない細部を並べれば、記憶が今の住所になると思った。カナタは途中で白旗の端をつまみ、口を閉じた。

『名前だけで、どこにいるかは決まらない』

カナタはネウラの古地図を見た。

三十二年前の中央脈。

真っすぐで。

文字が大きく。

自分にも読みやすい。

その横には、ルゥが書いた現在調査図。

細い線。

未確認。

消えた根。

読みにくい。

『ネウラでは、どの地図を使うの』

「古いほう」

カナタは答えた。

ルゥが横から睨む。

「今の図も見たでしょ」

「見た。でも、古いほうには星心門がある!」

『その地図、いつ確認した?』

「三十二年前!」

『今は?』

「道がなければ作る!」

アカリの返事が止まる。

責める言葉ではなく、紙を置く音だけが届いた。

『使う地図には、使う日の札をつけて』

「古い図を捨てろって?」

『捨てない。前に合ってたことも残す』

「じゃあ使える!」