第202話 第五章「九年前の裂け目」後編
『昔の記録として』
響路の奥で、別の声が鳴った。
『たまには帰れ』
アステルの固定記録。
速さも、息の長さも、いつも同じ。
ナギが左の黒い鈴へ分ける。
「記録」
右の鈴には、アカリの今日の呼吸。
「現在」
カナタは両方を聞いた。
「父ちゃんの帰還路も、昔は合ってた?」
『村を支える道としては、今も使ってる』
「じゃあ正しい」
『何を出すかは、帰る人の記憶で変わる』
「帰る話は、まだしてない!」
『うん。今はネウラの地図の話』
カナタは言葉に詰まった。
アカリは最後に訊く。
『出る前に、乗ってる人へ聞いた?』
「聞いた!」
『返事、同じだった?』
「……違った」
『地図も、返事も、違うまま持っていって』
「それでも俺は前へ行く」
『受け取った』
賛成ではない。
聞いたという返事。
響路が閉じる。
九枚目の現在図が白い帳面へ届いた。
ルゥは古地図の上へ重ねず、別の頁へ挟む。
カナタは、読みやすい三十二年前の線をもう一度見た。
古い図であることを知ったまま。
それでも翌朝、その先へ未踏路を作ると決めていた。
翌朝。
ナギは第六脈区の鐘塔へいた。
伝鐘見習いオトハと、九本の鐘を調べる。
一番鐘。
前進命令。
二番鐘。
受領。
三番から八番。
前の音を、そのまま後ろへ送る。
九番鐘の場所だけ、空。
「旧第九区と一緒に落ちた」とオトハ。
「音は残ってる」
「残響だ」
「動いてる」
「根の中では反響点が変わる」
「同じ場所を回ってない」
「希望で音を読むな」
オトハは言った直後、左手で九輪の一番下へ触れた。制度の文句を借りた自分へ腹が立つと、本来の利き手が戻る。ナギの過去を知らずに傷へ触れたと気づき、「あー」と沈黙を埋めかけてやめた。
「今の言い方は撤回する。判定の条件を聞く」
謝るが主張までは引かない。二人の関係は師弟ではなく、互いの誤りを止める同業者へ変わり始めた。
その言葉に、ナギの顔が固くなる。
ガルドが母イオラの音へ言った言葉。
残響だ。
七年だからだ。
ナギは鈴を下ろす。
「希望だけで現在とは言わない」
「なら、残響だ」
「残響だけとも言わない」
「どちらだ」
「未確認」
「仕事にならん」
「分からないって伝えるのも仕事」
オトハは前送鐘を叩く。
一音。
遠くの鐘が同じ音を返す。
「町は、決めなければ動けない」
「決めるために、分からない場所を分ける」
「式は明日だ」
「だから今日聞く」
ナギは、八番雲で使った細い現在路を九本並べる。
一番鐘から九番鐘へ一本ではない。
各区へ別々に。
「現在地」
第一脈区。
『航路塔』
第二。
『水区』
三。
九つの返事。
音の高さが違う。
息の長さも。
全員が同じ「受領」ではない。
「これでは遅い」とオトハ。
「遅い」
「認めるのか」
「でも、誰が返ってないか分かる」
九番目。
シノ。
返事がない。
ナギは空白へ丸を描く。
「第九脈区!」
再び呼ぶ。
遠くから、シノの声。
『返路札保管庫の外! 旧区の音を追ってる!』
「現在」
空白を埋める。
その直後。
もう一つ、九番目の音。
シノとは別。
古い鐘。
九回。
最後に、二回。
「合図?」
オトハの顔が変わる。
「旧返脈師の点検音」
「意味は?」
「九区確認。二脈不通」
「いつの記録?」
「九年前の事故の日にも鳴った」
「同じ?」
ナギは聞き比べる。
事故記録を、オトハが保管筒から鳴らす。
九回。
二回。
今の音。
九回。
二回。
似ている。
だが、間が違う。
事故記録は、九と二の間が一呼吸。
今の音は、三呼吸。
「同じ言葉じゃない」
「間が違うだけだ」
「鐘の間は、返事を待つ時間」
ナギの母が教えた。
鳴らさない時間も、音の一部。
「九区確認」
三呼吸。
「二脈不通」
「誰かが、今も確認してる?」
オトハの声が揺れる。
「町が自動で鳴っている可能性」
ナギは書く。
「人が鳴らしている可能性」
もう一行。
「事故記録とは間が異なる」
「どれを信じる」
「全部残す」
ナギは左耳の栓を替えた。九音と旧記録を聞き比べ、金属味と偏頭痛が来ている。
「道具のほうが疲れた。事故記録との比較はオトハ。発信源の移動はシノ。機巧の自動音はルゥへ渡す」
判定を分ける。希望が強い音ほど、自分だけで現在へ戻さない。
オトハは未送音箱の公開札へ《全町》ではなく《九区代表と発信源関係者》と書いた。聞く権利と広める権利を同じにしなかった。
「貫通式を止める?」
ナギは答えない。
式を止める権利は、自分一人にはない。
だが、この音を「昔と同じ」として消すこともできない。
「全員へ送る」
九つの現在路へ、未確認の音を流す。
第一脈区。
ロウガ。
第四区。
ルゥ。
第九区。
シノ。
第一歩号。
カナタ。
全員が、同じ音を聞く。
結論は添えない。
九回。
三呼吸。
二回。
「母さん?」
シノの声が震える。
「分からない」
「町?」
「分からない」
「でも、九年前と同じじゃない」
「そこは分かる」
ロウガの声。
『貫通式は予定どおり』
「聞いた?」とナギ。
『聞いた』
「未確認?」
『未確認だ』
「それでも前?」
『それでも前だ』
カナタの声は来ない。
ナギが呼ぶ。
「船長。現在の返事」
長い沈黙。
『聞いた』
「決める?」
『明日、みんなと』
昨日より、一歩だけ違う返事。
ナギは帳面へそのまま書いた。
第四脈区の工房で、ルゥは一日を使った。
九つの脈区を、未踏路へ順番につなぐ《前送継輪》。
第一脈区から一歩。
第二。
第三。
最後に第九。
全部を同時に押し出さず、重さを一つずつ渡す機巧。
「これなら、前へ進む町が裂けにくい」
工房長イワオが模型を回す。
「戻すときにも使える?」
シノが訊く。
「歯の向きが逆」
「裏返せば」
「前送炉へ固定する」
「外せば」
「一日かかる」
「今日作ったのに?」
「今日一日で作ったから」
ルゥは九つの輪へ銀鋲を打つ。
六本目で左親指が震えた。継ぎ路の反動痛は左手首から指先へ返り、痛い日は左手で髪さえ結べない。ルゥは工具箱の蓋を三度叩いて閉め、「自分の番ではない」と言いかけた。
代わりに設計図へ、自分とイワオ、三人の見習いの名を書く。七本目の締めを一人へ、八本目の荷重計算を別の一人へ、九本目の停止試験を最後の一人へ渡した。自分の名で仕事を残すことと、仕事を一人で抱えることは違う。
「貫通式は明朝。今は前へ使う」
「ルゥも前?」
手が止まる。
「私は、前へ行くと決めてない」
「でも前の機巧を作ってる」
「町が前へ行くなら、壊れないようにする」
「それが決めることじゃない?」
シノの問い。
ルゥは輪を一つ回す。
きれいに噛み合う。
一日ぶんの仕事。
自分の手。
イワオたちの部品。
前へ進むために使った時間。
「違う」
答えた声は、少し弱い。
「機巧師は、選ばれた道を支える」
「誰が選んだ道?」
「町」
「町はまだ話してる」
工房の外。
前進派の旗。
折返派の札。
治療区の条件。
水区の時間。
話は終わっていない。
けれど、前送継輪は形になっていく。
形ができるほど、「使わない」が難しくなる。
イワオが逆歯車を手に取る。
「これを入れれば、戻す機巧になる」
「前進効率が落ちる」
「一割」
「未踏路へ乗る時間が一刻延びる」
「戻る可能性は残る」
「一刻で患者が危ない」
「戻れなくなったら全員危ない」
ルゥは逆歯車を見る。
小さい。
入れる場所はある。
だが、明朝までに調整し直す必要。
「今は入れない」
シノが顔を伏せる。
「前へ決めた」
「決めてない!」
声が強くなる。
工房が静まる。
ルゥは深く息を吸う。
「間に合わないものを、全部入れられない」
「四番目の旗は?」
「何」
「途中を次へ渡す旗」
シノは灰青色の小旗を指す。
「今完成しなくても、逆歯車を次の人へ渡せる」
「使う機巧に入ってなければ、町は戻れない」
「戻るって決めたあと、作る」
「一日かかる」
「前へ進んだら?」
ルゥの口が閉じる。
戻ることを決める頃には、戻る機巧を作る時間がなくなるかもしれない。
「これは保険」とイワオ。
イワオは眼鏡を外した。怒りを鎮めたい時の癖だ。ぼやけたルゥへ工具を柄から差し出し、見習いが手を出した瞬間だけ自分で奪いかける。
「食べれば治る」
「今、食事の話してない」
ルゥに言われ、手を止めた。失敗させたくないあまり役目を渡せない、自分の古い癖を図面の停止条件へ書き足した。
「昔、俺も同じことを言った」
九年前。
返脈機巧を外し、前送炉を強くした。
戻る必要が出たときには、間に合わなかった。
「一日使ったから、今の形を壊したくない?」
シノが訊く。
「そんな理由で決めない」
「十二年使った人にも言える?」
イワオの火傷。
町の前送炉。
積み上げた時間。
ルゥは逆歯車を受け取った。
機巧へは入れない。
工具帯へ入れる。
「忘れない」
「使わないの?」
「決まってから、選び直す」
「間に合う?」
「間に合わせる」
「できるまで?」
「できる範囲を、今から残す」
ルゥは前送継輪の設計図へ、逆歯車の位置を赤く描いた。
――折返し改修点。
――所要、一日。
――前進後は負荷増大。
正しい答えではない。
未来の誰かが、間違いに気づいたとき、戻るための途中。
灰青色の四番旗が、工房の風で小さく揺れた。