第203話 第六章「貫通式」前編
貫通式の前夜。
第一歩号の甲板に、四枚の札が置かれた。
カナタ。
ルゥ。
ナギ。
ザンバ。
カゲノハ村を出るとき、アカリが渡した現標札。
裏側は、その日にいる場所を書くための空白だった。
四人の札は同じ大きさでも、置き方が違った。カナタは右手で旗を持つため札を左へ。ルゥは工具箱の角と直角へ。ナギは問いを鳴らす右手と分け、左側へ。ザンバは黒い機巧腕ではなく、生身の左手で受け取った。
ザンバの幻肢痛は金色の脈光で強くなっていた。「風向きのせい」と隠す代わりに、《痛み四、判断可》と自分の札へ書く。現在地には体も含まれると、ナギが教えたからだ。
ナギは四枚を響路台へ並べる。
「現在地」
「ネウラ第四脈区、前送工房の横!」
カナタが答える。
「第一歩号修理台」とルゥ。
「同じ場所だろ」
「工房の横と、船の上は違う」
「三歩!」
「現在地は距離だけじゃない」
ナギ。
「第一歩号、響路台」
ザンバ。
「船尾」
「今、船首にいるぞ」とカナタ。
「役目の場所だ」
「ずるい!」
「行き先」
ナギが続ける。
カナタは迷わない。
「中央脈の先。星心門」
ルゥは前送継輪を見る。
一日を使った機巧。
逆歯車は工具帯の中。
「私は、九叉心へ戻って今の脈を選ぶほうがいいと思う」
「前送輪を作ったのに?」
「作った」
「前へ使う」
「町が前進を選んだから、壊れにくくするため」
「じゃあ、一緒だ」
「意見は違う」
「でも手伝う?」
「失敗してほしくないから」
カナタの眉が寄る。
「失敗すると思ってる?」
「可能性を消してない」
ナギの番。
「私は、今いる人の返事が取れる場所まで」
「場所は?」
「まだ決められない」
「前か後ろか!」
「どっちにも、未確認がある」
「答えになってない」
「今の答え」
ナギは青い帳面を開く。
中央脈の先。
自動鐘。
現在の人の返事なし。
旧第九区。
移動する折返し音。
現在か残響か未確認。
「分からないから、決めるまで聞く」
「式は明朝」
「だから式の間も聞く」
ザンバ。
「俺は、前送路と返脈路の間」
「場所!」
「分岐」
「どっちへ行く!」
「お前が間違えたとき、切らずに止められる場所」
ザンバは言いながら、黒点を一つだけ早く置きかけた。危機では最適な一本を自分で決め、他を切る古い誘惑が戻る。椅子の脚を半指ずらし、手を止めた。
「俺も、間違えたら言われる側にいる」
監視役を、正解を持つ人の席へしない。
「間違えない!」
三人が黙る。
カナタは言い直す。
「間違えたら、大きく言う」
「誰が判断する」とザンバ。
「俺」
「それでは遅い」
「みんな?」
「違うと言った者が、一人でもいれば聞く」
「一人で町を止める?」
「止めるんじゃない」
八番目の旗を思い出す。
「先頭へ言う」
「聞かなかったら」とルゥ。
「もっと大きく!」
「それでも?」とナギ。
カナタは白旗を見る。
「……一歩、止まる」
「止まって、何をする」
「現在地と、行き先と、誰が先頭か聞く」
ナギが四枚の札へ書く。
――船長、中央脈前進。
――航路機巧師、九叉心折返し案。
――響路士、判断保留。式中も現在確認。
――監視役、分岐保持。
「ばらばらだ」
カナタが言う。
「同じ船」とルゥ。
「出航できる?」
「目的地が同じじゃない」
「明日の仕事は同じ」とナギ。
「何」
「町を落とさない」
四人は頷く。
前進を成功させるためではない。
折返しを証明するためでもない。
今いる人を落とさない。
そのために、それぞれ別の場所を守る。
シノが甲板へ上がってきた。
「決まった?」
「俺は前」
「三人は?」
「違う」
シノが少し驚く。
「それでも手伝うの?」
「俺が船長だから命令――」
工具箱が足元へ落ちる。
「冗談!」
「顔が半分本気」とルゥ。
「町を守る仕事は一緒」
カナタはシノへ向く。
「お前は?」
「九叉心へ戻る」
「式を止める?」
「一人では止めない」
「じゃあ」
「違うって言う」
「聞く!」
「本当に?」
「聞いて、前へ行くかもしれない」
「それでも、聞く?」
「おう」
シノは深緑旗を握る。
「約束して」
「何を」
「間違えたら、ロウガのせいにしない」
シノは濡れた手紙の留め具へ指をかけた。父を否定せず母の記録を解放したい。その矛盾を、カナタの責任の取り方へ預けている部分もあった。
「私も、母さんのせいにしない。戻る案が間違ったら、私が選んだって言う」
相手へ要求した言葉を、自分の札にも書いた。
カナタの口が止まる。
「町が決めた」
「あなたが、道を作るって言った」
「みんなも――」
「あなたも」
白旗が風に鳴る。
前へ行くと決めたのは、ロウガだけではない。
古い地図を信じたのも。
自分なら道を作れると思ったのも。
「分かった」
「何て言う?」
「俺が間違えた」
「まだ間違えたって決まってない」
「そのとき!」
「今の返事」
ナギが帳面へ書く。
カナタは嫌そうな顔をする。
それでも消せとは言わなかった。
貫通式まで、あと三刻。
第一歩号は進脈塔の外周へ固定されていた。
船底の八脚輪には、九つの脈区から仮の足場がつながれている。
第一脚は星盤。
第二は水路。
第三は畑の根網。
第四は炉鋼。
第五は家族札。
第六は鐘索。
第七は治療布。
第八は荷台。
八番脚の先に、シノの折返札が一枚だけ結ばれていた。
「九番目がない!」
カナタが船底を見上げる。
「八脚輪だから」とルゥ。
「第九翼をつける!」
「まだない!」
「今日、作る!」
「今日作るのは道!」
ルゥは銀鋲を一本ずつ確認していた。
前進案へ反対した。
それでも、九区が未踏路へ乗るなら、つなぎ目を弱いままにはできない。
「手伝うの、嫌?」
カナタが訊く。
「嫌」
ルゥの返事は短いが、銀鋲を抜く左手は震えていた。左親指の固定布を隠さず、九番目のつなぎを見習いへ渡す。嫌だから雑にするのでも、手伝うから賛成へ変わるのでもない。
「即答!」
「でも、町が乗る」
「成功させる」
「成功の意味が違う」
ルゥは旧地図へ赤い線を引いた。
中央脈。
未踏路。
途中から青脈へつなぐ仮の分岐。
どれも、まだ点線。
「私にとっての成功は、誰も落とさないこと」
「俺は星心門へ着ける」
「その二つが同じならいい」
「同じにする!」
「決めないで。確かめて」
ナギは進脈塔の九鐘を調整していた。
統脈鐘とは別に、九区の現在を送る。
「船長」
「何だ」
「反対って、もう一度言う」
「記録しただろ」
「出る前に、今の返事」
「変わってない?」
「変わってない」
「俺も変わってない」
「受け取った」
ナギは帳面へ記す。
――出発三刻前。響路士、反対継続。
「俺が船長だから、従う?」
「乗る」
「同じ?」
「違う」
「難しい!」
「カナタが間違ってると思うから、近くにいる」
「遠くから言ってもいいぞ」
「届かなかったことにされたくない」
カナタは返事を失った。
ザンバが、灰旗の黒点を白旗の前へ置く。
「道を分ける」
「前へ?」
「一つは、お前が決めた前」
黒点から一本。
「一つは、戻る可能性」
二本目。
「一つは、町が落ちたときの退避」
三本目。
「縁起悪い!」
「準備だ」
「成功を信じろ!」
「信じることと、退路を消すことを同じにするな」
ザンバの声は静かだった。
「昔の俺は、退路を断てば覚悟になると思っていた」
「違った?」
「戻れない者は、進みたい者とは限らん」
カナタは町を見た。
九つの脈区。
人々が未踏路へ乗る準備をしている。
子どもたちは荷を縛り。
職人は炉を落とさず。
治療師は寝台へ固定帯を巻く。
自分を待っている。
「俺がやる」
「それは聞いた」とルゥ。
「やりたい」
言い直す。
「できるって思ってる。町が戻って三日かけるより、俺が前へ一歩ずつ作りたい」
「どうして?」とナギ。
「道がないから」
「青い道はある」
「遠回りだ」
「それだけ?」
カナタは白旗を握る。
「俺は未踏路士だ」
カナタの右膝が冷えた足場で一度遅れた。いつもなら「助走」と笑って飛ぶ。今は遅れを勢いで消し、白旗の中央を強く握る。先頭に立てない自分を、置いていかれた子どもと同じに感じている。
世界の果てを見たい気持ちは本物だ。だが同じ本物の中に、「道を作る自分でなければ席がなくなる」という恐怖が混じっていた。
道がない場所へ、最初の一歩を作る。
それが自分の生き方。
「戻る道があるからって、毎回戻ったら、俺の道じゃない」
ルゥが眉を寄せる。
「誰が毎回って言ったの」
「今回は、前へ行ける」
「行けることと、行くべきことは違う」
「行ってから分かる!」
その言葉に、三人が黙った。
カナタは胸の奥で、何かがずれたのを感じた。
それでも、引き返さなかった。
進脈塔から、ロウガの声。
『貫通式、準備完了!』
九区の代表が、それぞれの塔へ立つ。
トウマ。
ナユ。
ハツネ。
イワオ。
マドカ。
オトハ。
サエ。
クラト。
シノだけが、第九脈区の塔にいなかった。
第一歩号の船縁に立っている。
「乗るのか?」
「戻る道を残す」
「反対だろ」
「だから近くにいる」
ナギと同じ言葉。
「後ろが増えた!」
「先頭を譲った話の続き」とシノ。
「後ろは、従う場所じゃない」
シノは左右の長靴を一度ずつ鳴らした。高い進脈鐘は片耳で欠けて聞こえる。ナギへ現在音を復唱してもらい、自分の聞き漏らしを隠さなかった。
ロウガは鏡板からその動作を見た。振り返らないまま、娘の名を呼ぶまで一呼吸使う。
「シノ。第九区の返事を、式中も送れ」
許可ではないが、声を消す命令でもなかった。