第204話 第六章「貫通式」後編

進脈塔の鐘が一つ鳴った。

残り二刻。

カナタは白旗を肩へ担いだ。

反対を聞いた。

現在図も見た。

戻る方法も知った。

それでも、自分で前を選んだ。

その事実が、白旗の中央へ薄い一本線を描き始めていた。

明朝。

第一脈区の《進脈塔》には、九つの町の旗が集められた。

航路士の星。

根水師の雫。

農師の芽。

炉守の火。

住区の家。

伝令の鐘。

治療師の布。

倉庫の箱。

最後に、第九脈区の返路札。

旗ではない。

表に前進。

裏に折返。

ロウガは、それを最も端へ置いた。

「第九区の旗は?」

カナタが訊く。

「シノが持っている」

「返路札でいいのか?」

「前へ進む式だ」

シノの顔が固くなる。

ナギが九鐘へ手を置いた。

「現在確認」

第一脈区。

『進脈塔、現在』

第二。

『根水槽、現在』

ナユは透明床を棒で一度叩き、《本人、眩暈なし》と付け足した。水だけでなく、測る者の距離感も現在条件へ入れる。

第三。

『畑区、芽床固定。現在』

ハツネは細札を腕いっぱい離し、苗数を一度多く言いかけて訂正した。「札が遠い」と隠さず、《浅根六百二十、再確認済み》まで返す。

第四。

『炉、半火。現在』

第五。

『住区、全戸点呼。現在』

第六。

『統脈鐘とは別線。現在』

第七。

『負傷者百二人。現在』

サエは片耳を塞ぎ、咳を二度こらえた。《治療長、感覚過負荷二。代読者あり》と、初めて自分の状態も点呼へ入れた。

第八。

『食料五日。現在』

第九。

シノが船腹を五つ叩く。

「第一歩号上。現在」

最後。

カナタ。

「船長、現在!」

ルゥ。

「航路機巧師、現在」

ザンバ。

「監視役、現在」

ナギ。

「響路士、現在」

八脚輪の六番脚が鳴る。

からん。

「第一歩号、現在!」

十三の現在。

ナギは舌先で五拍を数えた。人数が合っても、返事の中身が同じとは限らない。聞き分けられない高音はオトハへ、機巧の歪みはルゥへ、床の振動はシノへ確認を渡す。十三を一つの安全へ丸めなかった。

町は九区。

船は四人と一隻。

統脈鐘の一音では数えられなかった場所が、ひとつずつ残る。

ロウガが赤銅旗を掲げた。

「行き先、星心門!」

「現在位置、未確認」とナギ。

町中がざわめく。

ロウガは眉を寄せた。

「記録だけ」とナギ。

「消さない」

カナタは白い霧の前へ出た。

枯れた中央脈。

壁は白く、乾いた骨のよう。

脈の光は途切れ。

鼓動の間隔も長い。

どく……ん――。

九つの脈区が、重そうに一歩進む。

人々が塔を見上げる。

「未踏路士!」

「道を!」

「星心港へ!」

「前へ!」

期待の声。

不安の声。

ナギの九鐘では別々に聞こえる。

統脈鐘では、一つになる。

――前へ。

カナタは白旗を握った。

「行き先は!」

ルゥが訊く。

「星心門!」

「場所は!」

「枯れた根の向こう!」

「見える?」

白い霧。

何もない。

それでも、カナタは旗を突いた。

「標術――《未踏路》!」

一歩分の光板が生まれる。

ネウラの前。

枯れた星根の空洞へ。

「次!」

二枚目。

さらに前。

「次!」

三枚目。

光の道が白い霧を貫く。

歓声が上がった。

カナタの胸が熱くなる。

道がない場所へ、道を作る。

いつもの感覚。

迷いが、足の下から消えていく。

「まだ行き先が見えてない!」

ルゥが叫ぶ。

「見えるまで作る!」

「それ、昨日と同じ!」

「昨日より前だ!」

「時間の話じゃない!」

ルゥは銀鋲を九つの旗へ打ち込んだ。

「標術――《継ぎ路》!」

銀糸が第一脈区から第九脈区へ走る。

九つの町を一つにしない。

それぞれの重さを保ったまま、カナタの光板へつなぐ。

「一歩ずつ渡して! 全区同時に乗せないで!」

「時間がない」

ロウガは赤銅旗を掲げた。

「枯脈の鼓動が止まる」

「九区の返事を!」とナギ。

「統脈鐘は鳴った」

「今の返事!」

「変わらない」

「決めないで!」

ロウガは旗を振り下ろした。

「標術奥義――《万脈前送》!」

第一脈区の道が前へ動いた。

第二。

第三。

九つの町が、巨大な荷物のように光板へ押し出される。

「早い!」

カナタが喜ぶ。

「重ねてる!」

ルゥの銀糸が強く張った。

九区それぞれの歩幅が、同じ前進へ引かれる。

治療区のゆっくりした脈車。

工房区の重い炉。

水区の揺れる塔。

全部が同じ速さで進む。

「ロウガ! 少し緩めて!」

「緩めれば光板が消える!」

「消えたら次を作る!」とカナタ。

「だから押す!」

カナタは四枚目。

五枚目。

白い霧へ道を伸ばす。

腕が重くなる。

九区ぶんの期待と重さが、一歩へ集まる。

「船長、現在!」

ナギが呼ぶ。

「進脈塔の前!」

「行き先!」

「星心門!」

「見えてるもの!」

「白い霧!」

「聞こえる返事!」

カナタは耳を澄ます。

統脈鐘。

前へ。

その下の九鐘。

トウマの迷い。

ナユの水不足。

ハツネの芽。

イワオの半火。

マドカの点呼。

オトハの未回答。

サエの減速要請。

クラトの食料。

シノの反対。

「聞こえてる!」

「なら、速度を!」

「道ができたら緩める!」

今ではない。

あと一歩。

もう一歩。

見えるまで。

その言葉が、白旗の中央へ入っていった。

貫通式が始まって一刻。

九つの脈区は、枯れた中央脈の外へ出ていた。

周囲は白い霧。

星根の壁も、脈光もない。

カナタが作る光板だけが、町を支えている。

一歩。

次。

さらに次。

第一歩号は先頭で道を出し。

ロウガの前送が町を押し。

ルゥの銀糸が区画をつなぎ。

ザンバの黒点が負荷を分ける。

ナギは九つの現在を聞き続けた。

「第一脈区、速度を一割落として!」

『星盤が安定しない!』

「第二脈区、根水漏れ!」

『栓を閉める!』

「第三脈区、芽床が左へ!」

『受け取った!』

「第七、寝台が揺れすぎ!」

『減速要請!』

ナギはそれぞれを統脈鐘へ送る。

だが、ロウガの《万脈前送》が、すべての音へ同じ拍を与える。

前へ。

前へ。

前へ。

「鐘が返事を食ってる!」

オトハの声が第六脈区から届く。

「統脈鐘を弱めて!」

『弱めれば前送がずれる』

ロウガ。

「ずれを送ってる!」

『今はそろえる!』

「今を消さないで!」

ナギの青銅鈴が熱を持つ。

九つの音が重なりすぎて、違いを聞き分けられなくなる。

トウマの警告が、前へ。

サエの減速が、前へ。

シノの反対も、前へ。

すべて同じ言葉へ変わる。

「カナタ!」

ナギが叫ぶ。

「返事が一つになってる!」

九音が重なり、ナギの耳には高い輪郭だけが白く残った。金属味、偏頭痛、平衡の揺れ。

「道具のほうが疲れた。第六区、現在音の分離を受け取って!」

オトハが二本の槌で命令と現在を分け、サエが低音の患者返事だけを数える。ナギは一人で九区を聞き切ろうとせず、それでも未確認欄を閉じなかった。

「今は動かす!」

「誰の返事か分からない!」

「町の返事!」

「町は人じゃない!」

昨日と同じ言葉。

今度は、カナタの耳へ届いた。

それでも、白旗を振る。

「あと一歩!」

次の光板。

その瞬間。

町中の返路札が浮いた。

保管庫。

倉庫。

シノの逆走台車。

表の《前進》だけが赤銅の光を受ける。

裏の《折返》が剥がれた。

一枚。

十枚。

千枚。

折返しの文字だけが、白い霧へ落ちていく。

「何だ、あれ」

カナタが身を乗り出す。

剥がれた文字は光板の下へ集まった。

曲がった矢印。

戻る向き。

選ばれなかった道。

言い直されなかった言葉。

返されなかった荷。

聞かれなかった反対。

すべてが、前へ押し潰される。

一本の長い骨になる。

骨の先に、矢印の頭。

次。

さらに次。

九つ。

九本の巨大な矢印が縦に重なり、一頭の獣になった。

後脚まで前向きだった。進行側の足は標柱へ爪を掛け、腹側には剥がれた返路札が鱗のように貼りつく。目の代わりに、旗・音・航路の並びを感知する九つの孔があり、同じ向きへそろった瞬間だけ白く開いた。

体側には、進んだ日数が層になる。三日ぶんの薄い殻。九年前の厚い殻。さらに古い中央脈図の匂いを腹へ溜め、舌で旧地図の端を舐めた。人間の主張を理解しているのではない。歩いた距離を失いたくない恐れと、一方向へそろう標力を餌としていた。

体は、通過した距離を刻む標柱。

脚はすべて前へ曲がり。

背中には、歩き終えた日数。

一日。

二日。

三日。

口は矢印の先端。

後ろには、尾も目もない。

「標災」

ザンバが灰旗を抜く。

《不可逆獣モドレズ》

「知ってるのか!」

「古い軍路で似たものを見た」

「何をする!」

「歩いた距離を理由に、戻る道を食う」

「食った道は腹へ貼る」

ザンバが返路札の鱗を見る。完全に消すのではなく、自分の履歴へ取り込む生物だ。戻る一歩を踏むたび、その層を失うため抵抗する。

町の謝罪音が一つ混じった瞬間だけ、腹側が軽く浮いた。責任を別の誰かへ送る声より、自分の選択を名乗る声へ弱いらしい。

モドレズが一歩を踏んだ。

光板の後ろが消えた。

割れたのではない。

カナタたちが通った最初の一枚が、最初からなかったように白い霧へ戻る。

「道が!」

「前へ作れ!」

ロウガが叫ぶ。

「後ろを食われてる!」とルゥ。

「前があればいい!」

ロウガの声と、獣の九つの口が重なる。

「前があればいい」

「ここまで来た」

「戻れば無駄になる」

「あと一歩」

町の人々の口からも、同じ声が漏れる。

「ここまで来た」

「あと一歩」

「前へ」

ナギの九鐘が、一斉に同じ音を鳴らした。

違う形の鐘。

違う現在。

それでも出る音は一つ。

前へ。

「違う!」

ナギは九本の音路を両手で引き裂いた。

一本ずつ、統脈鐘から外す。

第一脈区。

第二。

九つ。

鐘がばらばらに鳴る。

警告。

悲鳴。

減速。

反対。

モドレズが頭を振った。