第205話 第七章「捨て脈」前編

統一された餌を失い、九つの口が別々の音へ噛みつく。

「ナギ!」

「同じにしない!」

青い帳面が風にめくれる。

「反対は反対! 返事なしは返事なし! 壊れた鐘は壊れたまま!」

「混乱する!」とロウガ。

「もう混乱してる!」

ナギの声が町中へ届く。

「一つにしたから、誰が困ってるか分からなくなった!」

モドレズの九つの口が開いた。

違う音を、すべて前へ曲げようとする。

カナタの白旗が重くなる。

中央の空白へ、一本の太い矢印が入り始めた。

先。

ではない。

前。

「俺の旗まで!」

「道を止めて!」

ルゥが銀糸を白旗へ打つ。

「止めたら町が落ちる!」

「今の道が獣の体になってる!」

「もっと先へ出せば、口が追いつかない!」

カナタは旗を振る。

「星心門!」

巨大な光板。

今までより長い。

白い霧の奥へ伸びる。

モドレズが口を開く。

板の先端から呑み込んだ。

光板が獣の舌になる。

「餌!」

ルゥが叫ぶ。

「もう一枚!」

「出さないで!」

「あと一歩!」

モドレズの声と、カナタの声が重なった。

白旗の《前》が半分まで入る。

ザンバが旗竿でカナタの手を打った。

「痛っ!」

「同じ声だ」

「町を助ける!」

「獣もそう言っている」

「一緒にするな!」

「何が違う」

カナタは答えられない。

モドレズが二歩目を踏む。

九つの脈区が加速した。

白い霧が裂ける。

その向こうに、巨大な空洞。

根ではない。

星の光を失った、黒い穴。

「枯星心……」

ロウガの顔から血の気が引く。

「地図の星心門じゃない!」

ルゥが銀糸を引く。

「根の死骸が落ちる穴!」

カナタの作った道は、目的地へ届かなかった。

見えるまで進んだ結果、見えたのは終わった根の底だった。

「止めろ!」

ロウガが赤銅旗を引いた。

抜けない。

モドレズの九つの標柱が、旗の九本線へ食い込んでいる。

「前送を解けない!」

「後ろへ分ける!」

ザンバが灰旗を振った。

「標術――《岐点》!」

黒い点がネウラの進路へ入る。

一本は枯星心へ。

一本は、来た道へ。

モドレズの九つの口が、来た道を先に食べた。

分岐の後ろが消える。

「戻る先がない!」

「ある!」

声が、第一歩号の下から飛んだ。

シノ。

逆走台車でモドレズの腹へしがみついている。

高い絶叫はシノの弱い耳で欠け、代わりに腹へ貼りついた返路札の振動を靴底で読んでいた。右手で台車棒、左手で九歩返しの板。別々の動作を同時に進めるほど、返事の時刻を一つ飛ばしやすくなる。

「手順の中に休憩はない」

限界の言葉が出た。ナギは返路札を一枚だけ代わりに数え、シノへ九区すべてを背負わせなかった。

母の深緑旗を背負い。

折返札を口にくわえ。

片手で《九歩返し》の金属板を掲げていた。

「道は消えてない!」

「見えないぞ!」

「獣の中に食われただけ!」

シノは台車の棒を、モドレズの標柱へ突き刺す。

一本の矢印が裏返った。

裏返った札へ、モドレズの腹孔が集まる。舌は紙を食べず、そこに残る《戻せる可能性》の標力だけを剥がした。札の物質は残るが、裏面が読めなくなる。獣は道を壊すのではなく、選択肢として見えなくする。

表は前進。

裏は折返。

獣が絶叫する。

九つの口がシノへ向く。

「後ろを見るな!」

「ここまで来た!」

「戻れば死ぬ!」

九つの口が、町の恐れを使って叫ぶ。

シノは一人で旗を振り上げた。

「第九脈区、折返――」

「待って!」

ナギの声。

「今、九区だけ戻ったら裂ける!」

「でも!」

「第八区の受取返事がない!」

九年前。

壊れた鐘。

届かなかった返事。

同じ場面。

シノの腕が止まる。

その一呼吸を、モドレズの尾のない背から伸びた白い棘が打った。

「うわっ!」

逆走台車が弾かれる。

シノの体が白い霧へ投げ出された。

「シノ!」

カナタが白旗を向ける。

「シノの手前!」

一歩分の光板。

モドレズの腹へ生まれる。

すぐ前へ引かれる。

シノは逆方向へ跳んだ。

光板の後ろ側へ着地する。

「そっちじゃない!」

「私には、こっちが前!」

深緑旗が光る。

空白の九つ目に、細い曲線が浮かびかける。

モドレズの棘がもう一度振られる。

カナタは光板を蹴り、シノの腕を掴んだ。

二人の体が獣の腹から外れる。

下には、枯れた脈壁の裂け目。

「第一歩号まで!」

白旗を振る。

光板が生まれる。

前へ曲がる。

モドレズの口へ。

「違う!」

「獣が引いてる!」

ルゥが銀鋲を投げた。

《継ぎ路》!」

カナタの腰。

シノの旗。

第一歩号の船縁。

三つを銀糸でつなぐ。

引く。

モドレズも引く。

糸が張る。

ナギは九鐘を鳴らす。

「第一歩号、受け取る!」

船腹の現在鐘が返る。

からん。

「受取返事あり!」

ザンバが黒い点を置いた。

「落ちる道を分ける!」

一つは第一歩号。

一つは脈壁の裂け目。

モドレズの九つの口が、第一歩号側を食べた。

「そっちを選ぶか!」

ザンバが黒い点を蹴る。

四人とシノ、第一歩号の重さが裂け目側へ折れた。

「船ごと!?」

ルゥが叫ぶ。

「全員だ!」とカナタ。

「やっぱり全部!」

第一歩号は枯れた脈壁へ横向きに突っ込む。

最初に八脚雲着輪が白い骨を蹴った。

一歩。

二歩。

三歩目で根が割れる。

船体が裂け目へ落ちる。

船首の終路鐘が鳴りかける。

から……。

誰も、ここで終わりたいとは思っていない。

「出口は!」

「ない!」とシノ。

「作る!」

「今は落ちるほう!」

第一歩号は、星脈市が捨ててきた古い道の中へ消えた。

頭上では、モドレズが九つの町を背負い、枯星心へ向かっていた。

残り九歩。

九つの口が、一斉に数え始める。

「ここまで来た」

「あと九歩」

「戻れば無駄」

その声は、裂け目の中まで追ってきた。

捨て脈には、前がなかった。

後ろも。

上も下もない。

星脈市が使わなくなった道だけが、黒い空間へ折り重なっている。

古い橋。

途中で消した住所。

配達されなかった手紙。

削り直す前の歯車。

変更前の地図。

誰かが「違う」と思いながら、言えずに進み続けた足跡。

それらが薄い光の帯になり、第一歩号の周囲を漂っていた。

「俺たち、落ちてる?」

カナタが船縁から覗く。

「止まってる」

ルゥは操舵輪へ銀糸を巻きつけていた。

「重さを決める脈がない」

「じゃあ飛んでる!」

「炉が消えてる」

「浮いてる!」

「同じ場所から動いてない!」

「停泊!」

「港じゃない!」

ナギは鈴を鳴らした。

音がどこへも届かず、すぐ手元へ戻る。

「今、ここ」

「返事は?」

「私たちの音だけ」

「町は?」

耳を澄ます。

遠く。

九つの声が、モドレズの中から響く。

前へ。

あと八歩。

「現在の返事じゃない」

「何だ?」

「言わされてる声」

ナギは青い帳面を開いた。

貫通式の前に取った九つの返事。

反対。

条件。

減速。

今の町から出ている一音とは違う。

「本当の返事は?」

「聞こえない」

「いない?」

「分からない」

「助けを求めてない?」

「分からない」

「難しい!」

「だから、勝手に答えを足さない」

シノは甲板の端へ座っていた。

母の深緑旗を膝へ広げる。

「私も、間違えた」

「戻ろうとしたこと?」

「一人で戻ろうとした」

「でも、止めた」

「ナギが止めた」

「聞いたから止まれた」とナギ。

シノは頷く。

「母さんは、聞けなかった」

「聞かなかった人もいた」

「父さん」

「セラも、第八区の返事を待てなかった」

「母さんも」

二人の間に、誰か一人へ全部の責任を置かない空白ができる。

ザンバは船尾から灰旗を伸ばした。

黒い点が周囲の道へ触れる。

一本は古い第九脈区。

一本はネウラの今いる場所。

もう一本はモドレズの腹の中。

「三つとも、今の町にとっての前へ引かれている」

「じゃあ行ける!」

「行けば枯星心だ」

「手前で曲がる!」

「何度、前へ曲げる気?」

ルゥの声が低い。

カナタは白旗を見る。

中央の空白へ半分入った《前》の文字。

「道を作らないと、町が落ちる」

「作った道で落ちてる」

「今度は違う」

カナタの声が低くなり、右足が半歩先へ出た。怖い時ほど大声ではなく一音ずつ低くなる。説明が長くなり、まだ見えない星心門の形まで語り始める。

ルゥは銀鋲を一本抜いた。怒りを数える癖だが、今日は投げない。左手の痛みで工具を握れないことと、カナタへ腹を立てていることを混ぜず、右手で地図を二枚差し出した。

「何が?」

「もっと強く作る」

「獣も強くなる」

「追いつけないくらい!」

「カナタ!」

ルゥが操舵輪を叩いた。

甲板へ音が響く。

「間違えたって言いなさい」

「まだ終わってない!」

「終わりの話じゃない!」

「星心門まで着けば――」

「ない!」

ルゥは二枚の地図を投げた。

旧地図。

現在図。

頁が開く。

中央脈は、途中で黒く消えている。

「行き先がない道を作った!」

「地図が間違ってた!」

「その地図を選んだのは?」

「ロウガだ!」

「手伝うって決めたのは?」

カナタの口が止まる。

ナギが青い帳面を開いた。

「反対、聞いた?」

「ああ」

「現在図、見た?」

「ああ」

「行き先が聞こえないって、言った?」

「ああ」

「それでも決めたのは?」

「俺だ」

「じゃあ」

「でも!」

拳を握る。

「町中が、俺の道を待ってた!」

「うん」とナギ。

「俺が戻るって言ったら、みんなが歩いたぶんはどうなる!」

「歩いたまま」とルゥ。

「戻ったら消える!」

「消えない!」