第206話 第七章「捨て脈」後編

ルゥはカナタの胸を指で押した。

「世界の果てへ行く旅を終わらせても、消えなかったでしょ」

「今度は終わりじゃない!」

「だから?」

「戻るんだ!」

「何から遠ざかるの?」

「前!」

「何の前?」

答えが出ない。

星心門。

世界の先。

自分が作るはずだった道。

どれも、今は見えない。

「俺は未踏路士だ」

「だから間違えない?」

「道を作るのが俺だ!」

「作った道が違った」

「まだ!」

「町が枯星心へ落ちるまで、あと八歩」

ナギの声は大きくない。

「いつなら、間違えたことになる?」

ナギは詰問する声ではなく、母の返事を七年待った時と同じ静かな声で訊いた。希望を消したいのではない。希望が誰かを落とす時点を、本人の言葉で決めてほしかった。

ザンバは黒い機巧腕を旗から外し、生身の左手でカナタの白旗の端を受けた。切る手ではなく、受け取る手だった。

「俺も、正しいと思った道を止められなかった」

助言ではなく、同じ失敗をする者として隣へ立った。

七歩。

六歩。

落ちてから。

誰かが死んでから。

戻れなくなってから。

「俺が弱かった」

白旗の《前》は動かない。

「ロウガが急いだ」

動かない。

「モドレズが道を食った」

動かない。

ルゥも、ナギも、シノも、ザンバも、何も言わない。

カナタは拳を握る。

喉の奥が痛い。

世界の果てまで、道を作ってきた。

無理だと言われるたび、前へ進んだ。

それが自分だった。

間違えたと認めることは、その全部へ泥を塗るように感じた。

「俺は……」

まだ、言えなかった。

捨て脈の奥で、薄い緑の光が一つ浮かぶ。

古い第九脈区。

第一歩号の八脚輪が反応した。

一本の白い足が伸びる。

何もない空を踏む。

そこに古い脈壁が、一呼吸だけ現れた。

「歩ける!」

「道を出すな」とザンバ。

「まだ何もしてない!」

「船が先に覚えた」

「賢い!」

「持ち主より」とルゥ。

「そこは言うな!」

八脚輪が二歩目を踏む。

第一歩号は、捨て脈の記憶へ沿って進み始めた。

カナタが言えなかった言葉を、古い第九脈区の足跡が待っていた。

旧第九脈区は、半分だけ残っていた。

家の壁。

折れた水路。

逆向きの脈車。

食堂の卓。

四十三本の小さな旗竿。

旗布はない。

名前だけが、金属板へ刻まれている。

セラ。

ホウ。

ミギワ。

返脈師。

台車工。

子ども。

老人。

九年前に「戻ったせいで失われた者」と呼ばれてきた名前。

その中央に、一台の逆走台車があった。

シノのものと同じ形。

ただし車輪は九本。

台車の棒を、一人の女の残照が握っている。

長い深緑の髪。

九つの矢印旗。

「母さん」

シノが第一歩号から降りた。

足元に道はない。

旧第九区の床が、一歩だけ彼女を受け止める。

ナギが左の鈴を上げた。

「記録」

「今の返事じゃない?」

「うん」

「分かってる」

シノは母の残照へ近づく。

セラは振り向かない。

前方へ叫んでいる。

『第一脈区、前送を止めて!』

返事はない。

『ロウガ!』

遠くで赤銅の光。

『残り八区を引く!』

『待って! 返す順番が――』

星根が崩れる。

セラは第九区の旗を振る。

『返脈開始!』

九つの矢印が後ろへ曲がる。

第九区だけが戻る。

前八区は進む。

二つの力がつなぎ目を引き裂く。

景色が白く弾けた。

後脈窓で見た記録は、ここまでだった。

だが捨て脈では、時間が続いている。

これは現在のセラが応答しているのではない。捨て脈へ残った記録層が、保存された順に再生されているだけだ。問いを変えても、彼女は記録時に残した言葉しか返さない。ナギは左の黒鈴へ《固定資料》と分け、右の現在鈴を鳴らさなかった。

セラは倒れた台車から起き上がった。

旧第九区は星根の外へ落ちている。

重さがない。

四十三人が、壊れた町へしがみつく。

『返したのが間違いだったのか!』

誰かが叫ぶ。

セラは裂けた前方を見る。

『違う』

『じゃあ、どうして!』

『一人で戻ったのが間違い』

その直前、セラは額を二度叩き、台車の握りを右から左へ持ち替えていた。平衡感覚を失いかけた徴候だ。別の記録では《迷いなく決断》と書かれているが、足元の映像には迷いと身体の崩れが残る。

ロウガを単純な敵と見ていた証拠もない。途中手紙には《あの人は前を守る。私は戻る時間を守る。どちらか一人では町にならない》とあり、結びは未完成だった。

深緑旗から、細い光を前へ投げる。

届かない。

『戻る道は、後ろだけで作れない』

光は、前八区がいた場所の手前で消える。

『前にいる人へ、違うと言って』

セラは台車の記録板へ文字を刻む。

――歩いた道を消さないで。

――間違えた場所まで、みんなで戻って。

――そこから、もう一度。

「続きがあった」

シノの声が震える。

残照のセラは、四十三人を一か所へ集める。

五つの音を叩く。

今、ここ。

返事。

ひとつ。

ふたつ。

四十三。

全員がいる。

セラは、古い第九区の脈炉を終える。

七番目の旗に似た暮色の光。

『炉路、ここまで』

使えない前進器を切り離す。

残った重さを、町の床へ分ける。

壊れた区画は、捨て脈の中で一つの足場になった。

『助けは来る?』

子どもの声。

セラは嘘をつかなかった。

『分からない』

『帰れる?』

『今の町へは、戻れない』

『じゃあ、ここが帰る場所?』

セラは答えるまで時間をかけた。

『今は、ここ』

四十三人は、捨て脈に残った道を集めて暮らし始めた。

壊れた住所。

返されなかった食料。

捨てられた水路。

町が前へ進むたび、後ろへ落としたものが旧第九区へ届く。

皮肉なことに、ネウラが戻さなかった物が、四十三人を生かした。

一日。

二日。

七日。

記録は断片になる。

最後に、セラは九輪台車から一つの車輪を外した。

横向きへ回る輪。

前でも後ろでもない。

向きを変えるための輪。

『シノへ』

娘宛ての声は、今ここにいるシノを見て選ばれたものではない。幼い娘を思い浮かべた過去の一文だ。だから励ましにも命令にもせず、シノは受取時刻と記録の限界を一緒に書いた。

初めて、娘の名を呼ぶ。

まだ幼いシノへ届くはずのない声。

『戻ることを、母さんの正しさにしないで』

シノの息が止まる。

『前へ行く人を、間違いにしないで』

『一緒に見て、違ったら、一緒に戻って』

セラは車輪を記録箱へ置く。

『正しい道は、戻った先で選ぶもの』

残照が薄くなる。

最後の景色。

四十三本の旗竿。

布は使い切られ、家や水路の修理に回されている。

名前だけが残る。

その後、何年生きたのか。

どこへ移ったのか。

記録はない。

現在の返事もない。

ナギは右の鈴を鳴らす。

何も返らない。

「いない、とは言わない」

「うん」

「生きてる、とも言わない」

「うん」

「分からないまま残す」

「うん」

シノは母の台車へ触れた。

九本目の車輪を外す。

自分の逆走台車へつける。

輪は前にも後ろにも向いていない。

横へ回り、向きを変えられる。

「母さんは、戻ったことを後悔してない」

「一人で戻ったことを後悔した」とルゥ。

「私も、一人で戻ろうとした」

「止まれた」とナギ。

「返事を聞いたから」

シノは深緑旗の九つ目を見る。

空白。

「九つ目は、後ろ向きの矢印じゃない」

「何になる?」とカナタ。

「まだ分からない」

「向きを変える輪!」

「旗に車輪は描かない」

「格好いいぞ!」

「今は、母さんの話」

カナタは口を閉じた。

セラの最後の言葉。

正しい道は、戻った先で選ぶ。

自分は、戻る前に「前が正しい」と決めた。

旧第九区の四十三本の旗竿が、何も言わずに立っている。

答えを求めても、返事はない。

だから、生きている自分が言わなければならない言葉が残っていた。

カナタは白旗の《前》へ手をかけた。

引く。

動かない。

「地図が悪かった」

文字は動かない。

「ロウガが止まらなかった」

動かない。

「モドレズが道を食った」

動かない。

「俺の力が足りなかった」

亀裂すら入らない。

「順番が逆」

ルゥが言った。

「何の?」

「悪かったものを数える順番」

「全部悪いだろ!」

「全部に、自分を隠してる」

「隠れてない!」

「最後に置いてる」

ナギが青い帳面を開く。

「私が反対って言った」

「ああ」

「ルゥが現在図を見せた」

「ああ」

「ザンバが退路を残した」

「ああ」

「シノが戻る方法を見せた」

「ああ」

「それでも前へ行くって決めた」

「ああ!」

「誰が?」

「俺だ!」

声が旧第九区へ響く。

白旗の《前》が、わずかに揺れた。

「じゃあ、最初に言うことは?」

「俺が決めた!」

「その次」

「失敗した!」

「何を?」

「道を!」

「違う」とルゥ。

「何が違う!」

「道は、あんたが決めたことを形にしただけ」

「じゃあ、俺が――」

喉が詰まる。

世界の果てまで、道を作ってきた。

最初の一歩を信じた。

父の夢を続けた。

村を救った。

ナギの母へ届いた。

ミオたちの別の道を開いた。

キリの続きを残した。

リラの今を数えた。

ユラたちの一歩を空けた。

ヨイの終わりを受け取った。

メグへ先頭を渡した。

自分の「前へ」は、何度も誰かを救った。

間違えたと認めれば、それらまで偽物になる気がした。

「俺は、前へ行きたかった」

モドレズの声が遠くで笑う。

「なら進め」

「お前は未踏路士だ」

「道を作れ」

カナタは耳を塞がない。

「期待された」

「うん」とナギ。