第207話 第八章「前送を終える」前編
「できるって思った」
「うん」とルゥ。
「戻るより早いって思った」
「うん」とシノ。
「俺がやるのが、一番いいって」
ザンバが待つ。
誰も続きを代わりに言わない。
「俺が」
声が震える。
「俺が、間違えた」
声は大きくなかった。恐怖時の低い声のまま、右足を半歩戻す。白旗の中央から手を離し、端をつまむ。最初の一歩を握り続けず、他者へ返す時の姿勢だった。
古傷の膝が震えた。いつもの「助走」と言い換えず、《痛み三、歩行可》とナギの現在帳へ自分で書く。責任を受けることを、体を壊す罰にはしなかった。
白旗の《前》に亀裂が入った。
「現在の地図を見たのに、古い道へ進んだ」
亀裂が広がる。
「反対を聞いたのに、期待へ答えるほうを選んだ」
文字が半分剥がれる。
「道を作れることを、道が正しいことと同じにした」
《前》が白い光片になり、足元へ落ちた。
消えない。
一枚の小さな矢印札になる。
表は前進。
裏は折返。
「間違えた」
カナタは、もう一度言った。
シノは肩を揺らして笑いかけ、口元を手で隠した。許した笑いではない。自分も母の正しさへ逃げかけたことを、次に言う覚悟の笑いだった。
「私も、一人で戻ろうとした。止めてもらった」
互いの責任を交換せず、同じ場所へ並べた。
今度は胸の痛みから逃げなかった。
「だから、戻る」
白旗の中央に空白が戻る。
ただし、何もない空白ではない。
歩いてきた光の線が、九叉心から枯星心の手前まで、薄く残っていた。
「消えてない」
「歩いたから」とルゥ。
「道は間違ってた」
「今の行き先には」
「作ったことは?」
「消えない」
「助けようとしたことは?」
「消えない」
「落としかけたことも?」
「消えない」
カナタは顔をしかめた。
「そこだけ消したい!」
「だめ」とナギ。
「厳しい!」
「次に聞くために残す」
シノは折返札を受け取った。
「町へ言える?」
「大きく?」
「普通でもいい」
「得意じゃない!」
「大きくてもいい」
「任せろ!」
カナタは旧第九区の旗竿を一本、第一歩号へ積んだ。
「ロウガに言う!」
「何を?」
「俺が間違えた!」
「そのあと?」
「戻るぞ!」
「命令?」
「……頼む!」
「少し成長」とルゥ。
「一歩?」
「戻る一歩」
「前じゃない!」
「今は、それが前」
ザンバはモドレズへ続く黒点を見る。
「言葉だけでは町は戻らん」
「分かってる!」
「前送を終える者がいる」
「ロウガ」
「九区の現在を取り戻す者がいる」
「ナギ」
「つなぎ直す者」
「ルゥ」
「道を分ける者」
「お前」
「戻る一歩を始める者」
カナタはシノを見る。
「シノ」
「その次は?」
「俺!」
「順位じゃない」
「二歩目!」
「少しだけ合ってる」
第一歩号の船腹を、シノが五つ叩く。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
夜色の五番旗が光る。
遠く。
モドレズの腹から、九つの弱い返事。
第一脈区。
第二。
九つの町。
いる。
「迎えに戻る」
第一歩号は旧第九脈区の足跡を踏み、モドレズの中へ向かった。
モドレズの腹には、町が捨てたすべての戻り道が詰まっていた。
返路札。
古い地図。
言い直したかった言葉。
進む前に止めたかった手。
第一歩号の八脚輪は、それらを一歩ずつ踏む。
靴の返路。
皿の返路。
手紙の返路。
小さな「戻る」が、巨大な獣の中に細い道を作った。
「船長、現在」
ナギが呼ぶ。
「モドレズの腹!」
「行き先」
「九つの町!」
「目的」
「間違えたって言って、戻る返事を取る!」
「記録した」
ナギは九つの音路を開く。
獣の前進音が邪魔をする。
前へ。
あと七歩。
ここまで来た。
「一つずつ呼ぶ」
第一脈区。
「トウマ!」
返事は、最初は獣の声。
『前へ』
「今、見えてるもの!」
ナギが訊く。
沈黙。
かすかな声。
『黒い穴』
トウマの声は危機時だけ明瞭だった。曲がらない左薬指で星盤縄を締め直し、《右親指、痛みあり。観測継続》と自分の状態も返す。弟へ近づきたい願いを隠さず、それでも見えている黒い穴を港とは呼ばなかった。
「現在の返事!」
第一鐘が、低く鳴る。
第二脈区。
「ナユ!」
『前へ』
「根水は!」
『半分、流出』
ナユは透明床を棒で叩き、右手で近くの子どもを支えた。《孫の飲水を先に数えたい》という私情まで条件欄へ出す。公平を装って家族だけを隠すより、偏りを見える場所へ置いた。
水滴の鐘。
第三。
「ハツネ!」
『前へ』
「芽は!」
『伏せてる。まだ生きてる』
柔らかな三音。
第四。
イワオ。
『炉が前送に食われて、止められない』
第五。
マドカ。
『住区、二軒離れた。家族札は全員あり』
第六。
オトハ。
『統脈鐘が勝手に鳴る! 私の鐘を分けて!』
第七。
サエ。
『負傷者、百三十一。急停止は危険』
サエの掠れ声のあと、咳が三回。片耳を塞いだまま、《治療長、過負荷四。代行一名》と続く。一人で必要とされ続けることを選ばず、患者の返事を別の治療師へ渡した。
第八。
クラト。
『倉庫の荷が前へ偏ってる。戻るなら先に固定が要る』
第九。
シノは第一歩号にいる。
「現在」
「ここ」
九つの声が、ようやく一つではなくなった。
「戻りたい?」
ナギは訊く。
すぐには答えがそろわない。
トウマ。
『黒い穴へは進めない』
ナユ。
『戻れば水が足りない。でも落ちれば終わる』
ハツネ。
『芽を守れる速度なら』
イワオ。
『炉を終えられるなら』
マドカ。
『全戸が一緒なら』
オトハ。
『返事を聞いてから』
サエ。
『治療区の歩幅で』
クラト。
『荷を戻してから』
一つの「戻る」ではない。
条件つき。
不安つき。
それでも、今の返事。
「船長」
ナギがカナタを見る。
「町へ」
カナタは白旗を握った。
未踏路を声の足場へ変える。
口元へ、一歩分の光板。
声が獣の腹を蹴り、九区へ届く。
『ネウラのみんな!』
モドレズが九つの口を閉じようとする。
ルゥが銀糸で声路をつなぐ。
ザンバが黒点で、獣の声とカナタの声を分ける。
『俺が間違えた!』
町中が静かになった。
獣だけが叫ぶ。
『認めるな』
『ここまで来た』
『戻れば無駄』
カナタは続ける。
『今の地図を見た! 反対も聞いた! それでも、俺が前へ道を作るって決めた!』
喉が痛い。
でも、大きく言う。
『その道は、星心門じゃなく、枯星心へ続いてた!』
第一脈区の人々が顔を上げる。
ロウガも。
『歩いたぶんは消えない! 俺が作った道も、みんなが守った町も、途中で助けたものも消えない!』
モドレズの背中から、数字が浮く。
三日。
一刻。
七歩。
『でも、今の行き先は違う!』
白旗の空白が光る。
『九叉心まで戻って、もう一度選びたい!』
命令ではない。
『俺に、戻る道を手伝わせてくれ!』
長い沈黙。
最初に返したのは、第六脈区のオトハ。
小さな鐘。
『受け取った!』
次に、第三脈区。
『芽を数えてから、受け取る!』
第七。
『治療区の歩幅を守るなら、受け取る!』
第八。
『荷を固定する二十呼吸、待てるなら!』
第五。
『離れた二軒を戻してから!』
第二。
『根水を返す路がいる!』
第四。
『炉を終える者がいる!』
第一。
トウマの声は震えていた。
『脈導長が前送を終えるなら』
全員がロウガを見る。
九番目の返事は、まだない。
ロウガの赤銅旗は、モドレズの背骨へ食い込んでいる。
前送を終えれば、町を支える力が消える。
終えなければ、戻れない。
カナタが言う。
「ロウガ!」
声路の向こう。
「次は、お前だ!」
枯星心まで、あと六歩。
モドレズが一歩を踏むたび、黒い穴が大きくなる。
第一脈区の航路塔は、すでに半分浮いていた。
第二脈区の根水は前へ流れすぎ、町の外へ滝になっている。
第三の畑。
第四の工房。
九つの町が、一本の獣の背中へ縫いつけられていた。
ロウガは進脈塔の頂上に立つ。
九爪の右靴だけが一歩前へ出ていた。赤帯はいつもの張力より強く、前腕の鈍い傷へ食い込んでいる。鏡板には九区と娘が映る。だが今度は鏡を外し、首ごと後ろへ向けた。
四十五年の体には、振り返るだけで姿勢が崩れるほど前進が染みついていた。
赤銅旗から伸びた九本線が、両腕と両脚へ食い込んでいる。
「止まれ!」
旗を引く。
モドレズの口が答える。
「止まれば無駄」
「前へ」
「あと六歩」
カナタの声が響路から届く。
『俺が間違えた!』
ロウガの顔が歪む。
「今、それを言いに来たのか」
『戻りに来た!』
「道がない!」
『食われた!』
「なら!」
『作り直す! 後ろへ!』
「できない!」
ロウガの声が、初めて弱くなる。
「九年前、返脈で人が死んだ!」
『前送も一緒だった!』
「私が止めれば、今度は九区すべてが落ちる!」
『一人で止まるな!』
シノが、カナタの声路へ自分の響路を重ねる。
『父さん!』
「シノ」
『母さんの続きが残ってた』
セラの記録が、ナギの左鈴から送られる。
『一人で戻ったのが間違い』
『前にいる人へ、違うと言って』
『正しい道は、戻った先で選ぶもの』
ロウガの指が震える。
「知っていた」
『最後まで?』
「最後の伝脈が一部、届いた」
『じゃあ、どうして!』
「認めれば」
声が掠れる。
「私が前送を放さなかったせいで、セラが落ちたことになる」
『なるんじゃない』
シノは父を見る。
『そうだった』
ロウガの顔が歪む。
モドレズの九つの口が笑う。
「認めるな」
「ここまで守った」