第208話 第八章「前送を終える」後編
「九年、前へ進めた」
「戻れば全部、無駄」
赤銅旗へ《前》の文字が入る。
ロウガは旗を両手で握る。
「私は町を守った」
『うん』とシノ。
「八区を残した」
『うん』
「九年、止めなかった」
『うん』
「それでも」
シノは母の旗布を広げる。
『間違えた?』
枯星心まで、あと五歩。
第一脈区の先端が黒い穴へ入る。
ロウガは目を閉じた。
「間違えた」
赤銅旗の《前》に亀裂が入る。
言った反動で、ロウガは前へ一歩出た。公開謝罪のあとにも体だけが先頭へ戻ろうとする。自分で気づき、同じ一歩を後ろへ返した。
「今の一歩も記録しろ」
オトハへ頼む。言葉で認めたから癖が消えるわけではない。戻ろうとする身体も、続く実務の一部にした。
「九年前、私は止まらなかった」
一本目の線が獣から外れる。
「三日前、九叉心で後ろを見なかった」
二本目。
「今日、未踏路を前送へ使った」
三本目。
「私は――」
ロウガは赤銅旗を引いた。
「前へ進むことを、守ることと同じにした!」
九本の線が一斉に外れる。
「《万脈前送》、ここまで!」
暮色の七番旗が、第一歩号の帆柱で光った。
終路鐘が鳴る。
ごおおん――。
九年間続いた前送路だけが、最後まで響く。
町の生活。
旅。
守った八区。
それらは終わらない。
前だけへ送る仕組みを終える。
モドレズの背骨から赤銅の光が抜けた。
九つの町が沈む。
「落ちる!」
人々の悲鳴。
「今、ここ!」
ナギが九鐘を鳴らす。
第一脈区。
第二。
九つの現在。
夜色の五番旗が、町ごとに点を置く。
「一頭じゃない!」
オトハが第六脈区で叫ぶ。
「九つの町!」
モドレズが九つの口を開く。
「前へ!」
「戻るな!」
夜色の点を、一つへ呑もうとする。
「《岐点》!」
ザンバが灰旗を振る。
黒い点を九つの口の間へ置く。
一本道が九本へ分かれる。
「それぞれの道へ戻れ!」
モドレズは口を増やす。
十八。
二十七。
すべてを前へ曲げようとする。
「六番旗!」
ルゥが透明な小旗を投げる。
シノが受け取った。
六つの開いた弧。
中央の空白。
「第九脈区の後ろへ、一歩ぶん空ける!」
透明な場所が生まれる。
モドレズが食べた道の中。
前でも後ろでもない、一歩。
「行ってこい!」
ロウガが叫ぶ。
今度は命令ではない。
自分が終えた前送の向こうへ、娘の一歩を送り出す言葉。
シノは逆走台車を蹴った。
透明な空白へ飛ぶ。
足元に何もない。
深緑旗を振る。
「九叉心へ!」
一歩分の緑の足場が生まれた。
弱い。
すぐ前へ引かれる。
「一歩じゃ道にならない!」
モドレズの口。
カナタは白旗を構える。
シノの背中を見る。
「お前の次!」
「後ろよ!」
「今は、そこが前だ!」
旗を突く。
「標術――《未踏路》!」
一歩分の光板が、シノの緑の足跡の後ろへ生まれる。
カナタが踏む。
二歩目。
二つの足跡がつながる。
食われたはずの道が、短く戻った。
「できた!」
「私の一歩!」
「俺の二歩目!」
「順位じゃない!」
「戻る順番!」
シノの深緑旗が大きくはためいた。
九つ目の空白へ、まだ名のない曲線が生まれ始めた。
最初に戻るのは、第九脈区だった。
ただし、一歩を返す前にしなければならないことがある。
「第八区、受け取る?」
シノが響路へ叫ぶ。
クラトの声。
『まだ! 荷が前へ偏ってる!』
九年前なら、時間がないと返事を待たなかった。
今は、モドレズの口が迫っている。
枯星心まで四歩。
「何呼吸!」
『二十!』
「待つ!」
シノは緑の足場に立ったまま、旗を下ろさない。
カナタが歯を食いしばる。
「二十、長い!」
「返事を聞く!」
第一歩号は第九区の横へ着く。
ルゥが灰青色の四番旗を広げた。
「荷の固定、今の形を記録!」
第八区の倉庫で、クラトたちが箱の位置を書き込む。
クラトは白箱の境界へ炭線を引き、濡れた指先へ粉をつけた。「見えているから大丈夫」と言いかけ、箱列を一度離れて見直す。自分の視野の弱さを隠さず、二列目の確認を若い倉庫員へ渡した。
戻る途中に崩れたら、どこから直すか。
次稿欄を残す。
ナギが数える。
「十七!」
「十八!」
「十九!」
『固定完了! 第八脈区、受け取る!』
「第九脈区、返す!」
シノは深緑旗を振った。
第九区の前進札が一枚ずつ裏返る。
道の脈流が、一歩だけ後ろへ動いた。
第九脈区が戻る。
どくん――。
星根の鼓動が逆向きに鳴る。
モドレズが絶叫する。
「前へ!」
「ここまで来た!」
「戻れば無駄!」
「歩いたから、違うって分かった!」
シノが答える。
「第八脈区、次はあなた!」
クラトが倉庫旗を上げる。
「受け取る!」
深緑の一歩が、第八区へ渡る。
薄青い八番旗が光る。
先頭を渡すのではない。
戻る番を渡す。
クラトは、第七区へ訊く。
「受け取れるか!」
サエの返事。
『寝台を後ろへ向ける。三十呼吸!』
サエは片耳を塞ぎ、半歩だけ同じ場所を往復する。迷いの癖だ。寝台を一律に返さず、意識のある患者へ一人ずつ向きを説明した。声が出ない者は目線、手、呼吸で返す。治療長の「命優先」が、本人の選択まで奪わないように。
「長い!」
カナタが叫ぶ。
「負傷者百三十一!」とサエ。
「待つ!」
カナタが自分で答えた。
モドレズの口が一歩近づく。
ザンバが黒点を置き、枯星心へ落ちる道を二つに分ける。
ルゥが銀糸で、治療区の寝台を一台ずつ今の床へつなぐ。
ナギが名前を数える。
百二十九。
百三十。
「一人足りない!」
『第六区へ治療に出した!』
オトハの鐘。
『ここ! 受け取ってる!』
「現在、確認!」
『治療区、準備完了!』
「第八、返す!」
第八脈区が一歩戻る。
第七へ番が渡る。
寝台は速く戻れない。
町全体が、治療区の歩幅へ合わせるのではない。
第七だけがゆっくり戻り、第八と第九がその差を支える。
「同じ速さじゃなくていい!」
ルゥが銀糸を調整する。
「九区が違うから、戻り方も違う!」
第七から第六。
オトハは統脈鐘の綱を切った。
ごおん、と大鐘が一度だけ鳴る。
終路鐘が応える。
――統脈、ここまで。
九つの小鐘が別々に鳴る。
第六区が戻る。
第五。
マドカは離れた二軒の家族札を確認する。
母の寝台前では片目を閉じて距離を測り、腰の痛みへ椅子を勧められても「返事が来てから休む」と言う。母本人が、薬を飲みたくないと首を振った。
「今それ?」
マドカは泣きながら怒り、薬を一度置いた。守るために先回りする娘と、格好悪く拒む母の現在を、家族札へ両方残した。
「一軒、返事なし!」
「賛成と見なさない!」とナギ。
「探す!」
カナタは未踏路を家の手前へ出す。
中には、耳の遠い老人が一人。
「鐘が聞こえなかった」
「今、戻る!」
「どこへ?」
「九叉心!」
「昔の家?」
「今の町ごと!」
「なら行く」
五人目の返事。
第五区が戻る。
第四。
イワオは炉を見た。
眼鏡を外し、ぼやけた炉を三歩離れて見る。細部へ手を出し続ければ、全体を終えられない。三人の見習いへ一基ずつ停止を渡し、自分は最後の一基だけを担当した。
「食べれば治る、は今日はなしだ」
自分から言い、足首の縄痕へ固定布を巻いた。
「終える」
「再点火、三日かかるぞ!」
職人が叫ぶ。
「三日で済む」
イワオは炉旗を下ろす。
「町が落ちれば、二度と点かん」
暮色の七番旗が、炉の仕事へ終標を置く。
火が消える。
熱は消えない。
再点火のため、炉心へ記録される。
第四区が戻る。
第三。
ハツネは芽床を一つずつ起こす。
細札を遠ざけて苗名を読み、片方の手袋を外す。足指で浅根札を拾い、数を一つ多く報告しかけて訂正した。現在の土へ合わない苗は、昔の畑へ戻さず種へする。帰る場所を複数持たせる農師の選択だった。
「全部は間に合わない!」
「何を残す!」とカナタ。
「根の深い芽!」
「浅い芽は!」
「次稿へ種を取る!」
灰青色の旗が、未完成の畑を次へ渡す。
第三区が戻る。
第二。
ナユは前へ流れた根水を、戻る道へ一度に返さない。
透明床を棒で確かめ、左手で九本の水量を書き、右手は転びかけた作業員へ伸ばした。仲の悪い工房員と同じ水路を一本だけ担当し、指示を増やしすぎたところで相手へ順番を返す。反対派と一緒でも成功できるという、私的な目標を仕事へ混ぜた。
九つの小水路へ分ける。
ザンバの岐点。
「一つへ集めるな」
「水が足りない!」
「分けたまま運べ」
第二区が戻る。
最後。
第一脈区。
ロウガは進脈塔の端に立っていた。
前には枯星心。
後ろには八つの町。
九年前から初めて、全区が見える。
「父さん!」
シノが深緑旗を向ける。
「次は、あなた!」
ロウガは赤銅旗を見る。
太い一本線は消えている。
九本の細い脈だけが、それぞれの町へ伸びていた。
「受け取る」
第一脈区の前進札を抜く。
裏返す。
――折返。
「第一脈区、戻る!」
九つ目の逆脈が鳴った。
どおおん――。
ネウラ全体が、枯星心の手前で止まる。
次の鼓動。
一歩、後ろへ。
モドレズの体が大きく反った。
九つの矢印は、前へしか曲がれない。
町が後ろへ進むほど、獣の背骨が折れる。
九歩返しは、九人が同じ一歩を踏む術ではなかった。
それぞれが、自分の場所を確かめ。
次の区へ返事を求め。
渡し。
受け取り。
違う歩幅で戻る仕組みだった。
九つの町が初めて、統脈鐘ではなく、互いの声で動いた。