第209話 第九章「九つの向き」前編
モドレズの九つの口が叫ぶ。
「戻るな!」
「前は一つ!」
「後ろは無駄!」
カナタの胸へ、声が入る。
「お前は未踏路士だ!」
「道を作れ!」
「後ろを歩けば、何も残らない!」
白旗の中央へ、《前》がもう一度浮かびかける。
カナタは拳を握った。
「前へ行きたい」
正直に言った。
モドレズの口が笑う。
「なら進め!」
「世界の先を見たい。誰より大きな声で、着いたって言いたい」
「進め!」
「でも」
カナタは後ろを見る。
シノの緑の一歩。
九つの町。
歩いてきた中央脈。
消えた光板。
全部が、モドレズの体と捨て脈の中に残っている。
「戻っても、足跡は消えなかった」
白旗に浮かぶ《前》を掴む。
「むしろ、見える!」
文字を引き剥がす。
白い矢印札になる。
表は前進。
裏返す。
折返。
カナタは札を、モドレズの最初の口へ貼りつけた。
「後ろへ進む!」
「言葉が変!」とルゥ。
「でも合ってる!」
カナタは白旗を両手で握る。
「戻る一歩を、無駄にするな!」
旗竿をモドレズの口へ突き込む。
シノの深緑の光が、白旗を通る。
一つ目の矢印が裏返る。
二つ目。
三つ目。
九つ。
モドレズの体に、初めて背中が生まれた。
今まで、前しかなかった獣。
後ろを見る目が、標柱の裏側に開く。
そこへ、九つの町の足跡が映る。
第三脈区で返した靴。
第九区の空席。
後脈窓。
九年前の裂け目。
貫通式の反対記録。
歩いたもの全部。
「見るな!」
獣が暴れる。
「前だけ見ろ!」
「前だけ見たから、ここへ来た!」
カナタが答える。
町の全員が、モドレズの背を踏む。
一歩。
二歩。
三歩。
歩いた道を逆にたどるたび、獣の標柱から数字が剥がれる。
三日。
二日。
一日。
距離は消えない。
ただ、向きだけが変わる。
「ここまで来た!」
モドレズが叫ぶ。
「だから、ここから戻る!」
カナタが答える。
「戻れば無駄!」
「歩かなきゃ、間違いも分からなかった!」
シノの深緑旗が九つの矢印を引く。
ロウガの赤銅旗が、九つの脈区へ力を分ける。
ルゥの銀糸が、戻る足跡と来た道を一枚ずつつなぐ。
ザンバの黒い点が、帰る道と選び直す道を分ける。
「帰る場所はネウラ!」
シノが叫ぶ。
「戻る場所は九叉心!」
二つの道が、同じではなく並ぶ。
ナギは九つの鐘を鳴らす。
「現在地!」
第一脈区。
返事。
第二。
九つ。
「行き先!」
「九叉心!」
「受け取る人!」
九区すべてから返事。
「受け取る!」
モドレズの九つの口へ亀裂が走る。
「前しかない!」
「じゃあ、前を増やす!」
カナタは拳を引いた。
自分にとっての前。
シノにとっての前。
戻る町にとっての前。
負傷者にとっての前。
芽にとっての前。
九つの向き。
「これが俺たちの――選び直す一歩だぁっ!」
拳が最初の矢印へ叩き込まれた。
轟音。
九本の矢印が砕ける。
折返札になり。
通過札になり。
最後は、九枚の小さな道標へ戻った。
モドレズの体が崩れる。
町が捨てた戻り道が、白い霧へ解き放たれる。
手紙。
住所。
地図。
言い直せなかった言葉。
それぞれ、元の場所へ戻るとは限らない。
今の持ち主を探し、現在の返事を待つ道になる。
獣は最後に、カナタへ一つだけ問いを吐いた。
「また、間違えたら?」
カナタは答えた。
「また言う!」
「何度でも?」
「決め直せる限り!」
モドレズの巨体は消えなかった。
進んだ距離の層が一枚ずつ剥がれ、九叉心へ続く地面へ落ちた。三日ぶんの殻。九年前の厚い殻。腹へ貼りついていた返路札も、読める裏面を取り戻して散る。最後に残ったのは、子どもの荷車ほどの九体の小さな獣だった。
どの個体も後脚だけ前を向き、古い地図の匂いを嗅ぐ。謝罪音を聞くと腹が一瞬軽くなるが、次に一つの命令が続けば、その方向へ札を集め始める。履歴を保存する性質は利用できる。だが便利な記録獣として固定すれば、歩いた距離を再び権威へ変える。ナギは《消滅》ではなく《九体へ分裂、継続観察》と書いた。
ネウラは、自分たちの足跡の上へ戻る。
一歩ずつ。
九つの脈区が、違う重さで。
違う速さで。
前へ進んだ三日ぶんを、歩かなかったことにせず。
すべての傷を連れて。
九叉心へ戻っていった。
モドレズの巨体が九体へ分かれたあと、九つの脈区は二歩目を返した。
そのとき、白い霧へ散ったはずの矢印札が、一枚ずつ浮かび上がった。
表の《前進》は砕けている。
けれど裏面には、すべて同じ文字が残っていた。
――戻れ。
「まだ終わってない!」
九体のうち一体が、落ちた《戻れ》札を腹へ貼った。すると残り八体も同じ向きへ並び、標柱の残骸を首として一つの輪郭へ戻していく。生物が命令文を理解したのではない。同じ向きへそろう標力が、再び群体を作った。
ルゥが叫んだ。
九本の首が、今度は九叉心の方角へ向く。
モドレズは前へしか行かない獣ではなかった。
いま選んだ向きを、二度と変えさせない獣だった。
「戻れ!」
「戻ると決めた!」
「なら迷うな!」
「全員、同じ速さで戻れ!」
獣の声が町へ降る。
第九脈区の返脈が急に強くなった。
シノの足元が後ろへ引かれる。
「速すぎる!」
「戻ってるぞ!」とカナタ。
「返事を待てない速さ!」
第八脈区の倉庫が引かれた。
固定したばかりの箱が、今度は後方へ偏る。
第七脈区の寝台が逆向きに滑り出す。
「止めて!」
サエの声。
「治療区は、この速さじゃ戻れない!」
第四脈区では、終えた炉の熱が急に後ろへ流れた。
第三脈区の芽床が起き上がる前に引きずられる。
「戻る道まで一つにしてる!」
ルゥは銀糸を引いた。
「前送と同じ!」
「違う!」
シノが深緑旗を振る。
「私たちは、戻れって命じられたんじゃない!」
九つ目に生まれかけた曲線が、獣の《戻れ》へ押し潰される。
カナタは白旗を構えた。
「道を止める!」
「全部止めないで!」とナギ。
「どっちだ!」
「今の返事を聞く!」
ナギは九本の響路を、一つずつ鳴らした。
「第九脈区!」
「速すぎる!」とシノ。
「第八!」
『荷が崩れる!』
「第七!」
『減速!』
「第六!」
オトハの小鐘。
『戻る。でも今は止まる!』
第五。
『離れた家を待つ!』
第四。
『炉熱を固定するまで三十呼吸!』
第三。
『芽を寝かせ直す!』
第二。
『水路を閉じる!』
第一。
トウマの声。
『現在位置を測り直す!』
九つの返事は、同じ《戻る》ではなかった。
「全区、今の歩幅で止まる!」
ロウガが赤銅旗を振る。
だが、旗にはもう太い前送線がない。
九本の細線だけでは、町を一度に止められない。
「一人で止めない!」
シノが叫ぶ。
「第九区、停止!」
第九の返脈が止まる。
「第八、受け取る!」
クラトが倉庫旗を下ろす。
第八。
第七。
後ろから順に、止まる意志を渡す。
町は一斉に止まらない。
九つの違う歩幅が、九つの違う場所で終わる。
最後に第一脈区が止まった。
モドレズだけが戻り続ける。
九体の小個体は、群体の影を引きずりながら白い霧を走った。戻るたび体層を一枚地面へ置くのに、同じ《戻れ》を餌としてまた一層をまとっていく。制度が一方向なら、獣の大きさも向きだけ変えて戻る。
自分の背中に町がないことへ気づかず、白い霧を九叉心へ突進する。
「今だ!」
ザンバが灰旗を振った。
「《岐点》!」
獣の《戻れ》と、町の《戻る》の間へ黒い点が落ちる。
同じ方向へ見えた二本の道が分かれた。
一つは、考えずに後退する道。
一つは、選び直す場所へ向かう道。
モドレズは前者へ突っ込んだ。
何もない白い霧を、同じ九歩だけ繰り返す。
一。
二。
九。
また一。
「輪になった?」とカナタ。
「違う」とザンバ。
「行き先を失った命令が、自分だけを動かしている」
ナギは帳面へ書いた。
――戻ることも、命令になれば前送と同じ。
「じゃあ、俺たちは?」
「もう一度、訊く」とナギ。
「現在地」
「枯星心の手前から、二歩戻った場所!」
「行き先」
「九叉心!」
「目的」
カナタは一呼吸考えた。
「正しい道へ行くため――」
「まだ正しいって決めてない」とシノ。
「じゃあ」
白旗を見る。
「もう一度、選ぶため」
ナギが頷く。
「受け取った」
九つの町は、三歩目を返した。
今度は、誰にも急かされずに。
モドレズを町の道から切り離したあとも、戻る道は安定しなかった。
前進札は裏返せる。
未踏路も、歩いた場所へなら出せる。
しかし、九区の向きは少しずつ違う。
第一脈区は中央脈の旧線へ引かれ。
第二は根水の重いほうへ。
第三は芽が光を求める方向へ。
九つが同じ九叉心へ戻ろうとしても、足跡が広がっていく。