第210話 第九章「九つの向き」後編

「このままじゃ、分岐の手前でばらばらになる!」

ルゥが銀糸を引く。

「一つに縫う?」

「だめ!」

カナタとシノが同時に言った。

「三番目で覚えた!」とカナタ。

「同じ道にするんじゃない」とシノ。

「じゃあ、どうつなぐ!」

シノは深緑旗を見る。

八つの矢印。

九つ目の空白。

母から受け取った横向きの車輪。

「向きを返す」

「全部?」

「一つずつ」

シノは最初の矢印へ指を置く。

第一脈区が歩いた中央脈。

消さない。

その線を九叉心まで逆にたどる。

二つ目。

第二脈区が水を落とした跡。

三つ目。

畑区が芽を守った遅い道。

九つの道を、同じ形へしない。

それぞれの足跡を、それぞれの向きだけ返す。

旗の九つ目に、輪が生まれた。

閉じた円ではない。

分かれ道まで戻り、そこで開く曲線。

シノの胸に言葉が響く。

高音の鐘が遠くなり、視界の奥行きが崩れた。標術が出たから身体の制約が消えるわけではない。シノは片目を閉じ、台車棒をナギへ預ける。

「手順の中に休憩はない」

言いかけて止めた。

「休憩を手順へ入れる。三呼吸、九つ目の向きをルゥが保持して」

戻る力を一人で持ち続けないことが、母の続きを正史にする最初の使い方だった。

――標術《折返》

歩いた道を消さず。

向きを返し。

選び直す場所まで導く力。

「標術――《折返》!」

深緑旗を振り下ろす。

第一脈区の足跡が裏返る。

道そのものは同じ。

標柱の矢印だけが九叉心へ向く。

第二。

第三。

九つ。

今まで後ろだった場所が、戻る者にとっての前になる。

「道が曲がった!」

カナタの目が輝く。

「向きだけ!」

「十分!」

「戻る間だけ」

「何回使える?」

「歩いた道のぶん」

「世界の果てまで戻れる?」

「全部の足跡を一度に抱えたら倒れる!」

「じゃあ、一歩ずつ!」

「そのための術!」

第一歩号の船尾へ、深緑の光が触れる。

八脚輪が後ろへ向く。

ただし、八本すべてではない。

一番脚は星盤の足跡。

二番脚は水路。

それぞれ、自分が踏んだ場所をたどる。

「第八翼が後ろ向きに歩く!」

「脚!」

「後ろ翼!」

「増やさない!」

シノは旗を支えながら笑った。

母の正しさを証明する旗ではない。

前へ進む人を否定する旗でもない。

自分たちが違うと気づいたとき、歩いた道を責めずに選び直す旗。

「九番目」

カナタが言った。

「まだ」

「何が足りない?」

「戻った先で選ぶこと」

「標術は出たぞ!」

「力が出たら、答えまで出るわけじゃない」

深緑旗の九矢印を爪で弾き、最後の輪だけは鳴らさなかった。標術《折返》は正しい道を当てる力ではない。戻った先で誰かと選ぶため、答えを空けておく力だった。

「難しい!」

「九番目だから」

九叉心の光が、遠くに見え始める。

戻る道の終わり。

次の選択の始まり。

シノは旗を下ろさなかった。

最後の脈区が分岐へ着くまで、九つの向きを一つずつ返し続けた。

戻る道は、来たときより狭かった。

モドレズに食われた光板。

前送で削れた根壁。

落ちた水。

崩れた荷。

進むときには後ろへ置いてきた損傷が、戻る者の正面へ現れる。

「前、家!」

カナタが叫ぶ。

「見えてる!」

第五脈区から離れた家が一軒、戻り道の中央へ引っかかっていた。

前送の衝撃で基礎札が外れ、住区より二歩先へ流された家だ。

中には、耳の遠い老人と、その孫。

さきほど返事を取った二人だった。

「未踏路で横へ避ける!」

「家ごと?」とルゥ。

「全部!」

「今だけは、それでいい!」

カナタは家の手前へ一歩分の光板を出す。

もう一枚。

横へ。

家を載せるには足りない。

第五区の大工たちが家族札を投げる。

「二歩目、受け取れ!」

カナタは札の示す位置へ板を置く。

家は町の道へ戻った。

老人が窓から顔を出す。

「昔の場所じゃないぞ」

「今の第五区!」

「ならいい」

家は戻った。

だが、柱は二本折れ。

家具は半分壊れ。

屋根には未踏路の光が焼きついている。

「直す!」

カナタが叫ぶ。

「何軒?」

マドカが住区板を見せた。

「離れた家、十四。基礎損傷、三十二。仮寝所へ移った住民、六十三」

「全部――」

「できるまで?」とルゥ。

カナタは言葉を止めた。

町は九叉心へ戻る。

時間は進み続ける。

ナギが帳面の新しい頁を開いた。

「九区の損害を、九区の声で残す」

「俺が壊したぶんは、最初に俺へ!」

「町の判断で進んだぶんもある」とマドカ。

「ロウガの前送も」とイワオ。

「私の継輪も」とルゥ。

「私が折返しを急ぎかけたぶんも」とシノ。

責任は一つの旗へ集まらない。

だからといって、カナタの分が軽くなるわけでもない。

第一脈区。

星盤の観測鏡が三枚割れ、現在脈を測る仕事が二日止まった。

カナタはトウマの前へ立つ。

「今の図を見たのに、古い図の先へ道を出した。俺が間違えた」

「鏡を磨ける?」

「磨く!」

「割った面は戻らない。新しい鏡の枠を運べ」

「受け取った!」

第二脈区。

根水槽十一基から水が流れ、残量は四日ぶん減った。

ナユは配給板へ、子ども、患者、炉工の順を別々に書く。

「俺の水を全部出す!」

「船の水は四人ぶん」とナユ。

「じゃあ、運ぶ!」

「青脈へ着いたら、補給水を十一槽へ分ける。順番を勝手に一つにしないで」

「受け取った!」

第三脈区。

浅根の苗、千八百四十本。

そのうち六百二十本は、戻る途中に抜いて種へ替えなければならなかった。

ハツネは種袋を三十七に分ける。

「全部育て直す!」

「同じ季節には戻らない」

「じゃあ、次の畑!」

「土を運んで。名前も書く」

「字が多い!」

「謝る人が読めないままにしない」

第四脈区。

前送炉九基のうち、四基が停止。

二基は再点火まで一か月。

イワオの工房では、ルゥが一日かけて組んだ前送継輪を解体していた。

「壊すの?」

見習いが訊く。

「ほどく」

「一日かけたのに」

「一日かけたから、どこを外せばいいか分かる」

ルゥは最初の銀鋲を抜いた。

九つの歯車を一つへ集める太軸。

戻る道では、それが邪魔になる。

工具帯へ残していた逆歯車を取り出し、図面へ赤く書く。

――再配置後に試験。

――受取人、イワオと見習い三名。

「前へ使った一日は、無駄?」

「間違った形を作った時間」

ルゥは答えた。

「でも、その間違いがなければ、今の直し方は分からなかった」

「じゃあ正しかった?」

「違う。残ったものがあるだけ」

第五脈区。

カナタは十四軒すべての基礎札へ、自分の名を書いた。

直す人の名ではない。

未踏路を出した者の名。

第六脈区。

三本の伝鐘管が切れ、治療区の減速要請が七呼吸遅れた。

オトハは《遅延》を消さず、カナタの謝罪音も同じ箱へ入れない。

「ごめん!」

「大きい」

「届いた?」

「届いた。修理は別」

第七脈区。

負傷者は百二人から百三十一人へ増えた。

重傷は六人。

サエは、カナタを寝台の前へ立たせなかった。

「謝る相手が休んでる」

「起きたら言う!」

「起きることを仕事にしないで」

「じゃあ、札に書く」

「読める字で」

カナタはルゥに教わりながら、一枚ずつ書いた。

――俺が急いだ。ごめん。返事ができる日に、もう一度聞く。

第八脈区。

荷箱二百十九が崩れ、食料は一日ぶん減った。

クラトは、壊れた箱を《戻せる》《別の箱へ使う》《捨てる》《未確認》へ分ける。

「全部直す!」

「腐った根芋は戻らない」

「食う!」

「治療所へ行く?」

「捨てる!」

第九脈区。

返路札九百三十二枚が混ざり、百六枚は宛先札を失った。

シノは一枚ずつ現在の持ち主へ問い直す。

「俺の弁償、九百三十二?」

「最初の倉庫事故と、貫通式の判断は別件」

「増えた!」

「数えたから」

九つの謝罪は、一度の大声では終わらなかった。

受け取る者。

まだ聞けない者。

修理を頼む者。

許さない者。

返事はそろわない。

カナタは、それぞれを別の頁へ残した。

戻った道の代金は、数字だけでは数えられなかった。

だから、名前と、壊れた場所と、次にする仕事で残した。

治療区の小棚では、カイセとエンも自分たちの損害札を書いた。カイセは妹の体調ばかり記し、自分の古傷と疲労欄を空けている。エンが気づき、兄の札へ《肋骨、笑うと痛い》《怖かった》と一つ多く書いた。

「多い!」

「仕事が終われば痛くない、って言ったから」

「それ、エンの言い訳だろ」

「兄さんにも貸す」

エンは戻った靴を自分だけの棚へ置き、誰にも勝手に整えさせない。カイセは危険な配達を褒められるより、怖かったと書かれた札を捨てずに受け取った。