第211話 第十章「九叉心」前編
九叉心までの戻り道は、三日かかった。
前送では一日で進んだ距離だった。
「戻るほうが遅い!」
最初の夜、カナタは言った。
「行きは九区を押したから」とルゥ。
「帰りは?」
「帰りじゃない」とシノ。
「折返し」
「言葉が違うだけで遅い!」
「返事を待ってるから」とナギ。
「待つと遅い!」
「うん」
「否定しないのか!」
「遅くなる」
ナギは現在帳を開く。
「でも、誰が遅れてるか分かる」
第一脈区。
星盤の修理で十二呼吸。
第二。
水路の漏れで二十。
第三。
苗の積み替え。
第四。
炉熱の安定。
第五。
家族点呼。
第六。
響路の張り直し。
第七。
負傷者の処置。
第八。
荷の固定。
第九。
返事を受け取る。
「全部必要?」
「全部、今いるもの」
カナタは帳面を見る。
世界の果てへ向かったころなら、遅れる理由を一つずつ飛び越える道を作っただろう。
今も、作りたい。
だが、作る前に訊く。
「第七区、近道いる?」
『いらない!』
サエの返事が即座に来た。
「速くなるぞ!」
『寝台が揺れる!』
「分かった!」
少し残念だった。
第一歩号は、九つの町の横を進んだ。
先頭ではない。
最後尾でもない。
必要な場所へ移る。
第二の夜。
シノは宿の寝台で眠れなかった。町が戻っているのに、体は前向きの壁を頭側だと思う。枕を前へ、後ろへ、横へと九回回し、最後はどちらでもない向きに置いた。
戻ることへ賛成した少女も、日常の体まで一夜で折り返せるわけではない。隣室のロウガも、鏡板を外した壁へ背を向けられず、食事を持ったまま歩いていた。父娘は会わず、同じ夜に別々の癖を持て余した。
ナギの右鈴が鳴った。
ちりん。
後ろではない。
九叉心の横。
捨て脈の深い場所から、移動する音。
「旧第九区?」
シノが身を乗り出す。
「同じ間隔」
ナギは左鈴も鳴らす。
こちらには、セラの記録音。
五つ。
今、ここ。
右鈴にも五つ。
だが、わずかに違う。
最後の一音だけ、金属が二度触れる。
「人?」とカナタ。
「分からない」
「残響?」
「動いてる」
「じゃあ今の返事!」
「動いているものから、昔の声が出ることもある」
「難しい!」
ナギは帳面を二列に分ける。
――現在位置が変化している信号源。
――発声内容は、過去記録と似る。
「会えば分かる?」
「会っても、声の主が今いるとは限らない」
シノは母の深緑旗を握る。
「それでも探す」
「九叉心へ戻ったあと」とナギ。
「今は?」
「町の返事を取る」
シノは頷いた。
探したい相手がいる。
それでも、今いる九区を置いて一人では行かない。
第三の夜。
モドレズが戻ってきた。
九体の小個体のうち、三体がまた並び始めていた。腹には町の航程札。体側には戻った三日ぶんが薄い層になっている。クラトは「距離を自動記録できる」と利用を提案し、ナギは便利さを否定しなかった。
ただし一体でも《正しい道》の札を長く与えれば、ほかを集めて群体になる。観察係を九区で輪番にし、餌として同じ命令を反復しない。生物の利用条件まで、町の制度変更へ含めた。
白い霧の向こう。
九歩の輪を何百回も歩き、脚をすり減らしている。
前の矢印。
裏の《戻れ》。
どちらも欠け。
それでも口は動く。
「ここまで戻った」
「あと少し」
「今さら止まるな」
「九叉心まで戻れば、青い道を選べ」
カナタの眉が上がる。
「今度は青へ行けって言ってるぞ」
「答えを替えただけ」とザンバ。
「合ってるかもしれない!」
「だから危ない」
「なんで!」
「正しい答えでも、考えるなと命じれば同じ獣だ」
モドレズが町の後ろへ食いついた。
今度は、戻る速度を上げない。
行き先を先に決める。
「青脈へ!」
「青が正しい!」
「現在図にある!」
「もう選び直す必要はない!」
九叉心は、まだ霧の向こう。
現在の返事も、まだ十分に取れていない。
それでも町の旗が、少しずつ青い方向へ引かれる。
「答えを食わせるな!」
モドレズの小個体は青い現在図を舐め、正解だからではなく、全員が同じ向きへ札を傾けたことへ反応していた。正しい情報でも、問い直せない命令として与えれば餌になる。
ナギが九鐘を鳴らす。
「現在地!」
九つの返事。
「行き先!」
九つの答え。
青。
別の脈。
まだ決めない。
休みたい。
星心港へ。
根水を補給できる場所。
安全確認のあと。
違う声が、モドレズの一つの答えを割る。
「カナタ!」
シノが叫ぶ。
「獣の手前へ一歩!」
「お前の一歩?」
「私が置く!」
深緑旗の曲線が光る。
シノはモドレズの前へ、折返札を投げた。
札は表を向く。
――前進。
獣が噛む。
シノが旗を引く。
札が裏返る。
――折返。
モドレズの首が、自分の腹へ曲がった。
「今!」
カナタは白旗を突く。
「二歩目!」
光板がシノの札の後ろへ生まれる。
モドレズは、自分が決めた青い道へ突進しようとし。
自分で食べた折返しへ戻される。
九つの口がぶつかった。
矢印の頭が砕ける。
獣はまだ消えない。
だが、町から離れた。
「倒した?」
「まだ」と三人。
「最近、そればっかりだ!」
九叉心の光が、白い霧の先に見えた。
九本の星根。
選び直す場所。
そこへ着くまで、誰も行き先を一つにはしなかった。
九叉心まで、あと一歩。
星根が九本に分かれる巨大な空洞が、前方へ開いていた。
中央脈は白く枯れ。
右から二本目は青い光。
左から三本目は緑。
最も外側には赤い脈。
ほかの根にも、それぞれ違う鼓動がある。
「戻った!」
カナタが叫ぶ。
「まだ一歩」とシノ。
「見えてる!」
「だから、最後を空ける」
「六番目!」
「今は、受け取る人を待つため」
九つの脈区は、分岐の手前で止まった。
ナギが各脈へ響路を伸ばす。
返事を取る前に。
モドレズが最後の姿を現した。
獣は、もう矢印ではなかった。
道だった。
九叉心から、ネウラが来た三日前まで。
さらに九年前。
その先。
カナタがカゲノハ村を出た日まで。
歩いてきた道すべてが、一本の白い帯となって重なる。
「何だ、これ」
帯の中に、景色が浮かぶ。
逆さ銀樹。
星喰いの夜海。
空の岸。
双灯樹。
歩雲群。
もっと後ろ。
トマリギ島。
三脚群島。
天頂門。
カゲノハ村。
出航場には、十五歳のカナタが立っている。
白旗は空白。
アステルが笑う。
『行ってこい』
その隣に、もう一つの道が開く。
カナタが旅立たなかった村。
父の《帰還路》を守り。
ルゥの作業小屋を手伝い。
アカリへ薬を届け続ける少年。
『戻るなら、ここまで戻れ』
モドレズの声。
『間違えた分かれ道は、最初だ』
カナタの足が、白い帯へ向く。
右膝の古傷は不思議なほど痛まなかった。旅へ出る前の体まで戻れると、獣が感覚を整えている。声は低く、右足が半歩先へ出る。置いていかれる恐怖へ最も近い反応だった。
「父ちゃん」
アステルが手を差し出す。
昔の広場。
壊れていない橋。
出航前のルゥの机。
病気のまま小さなアカリ。
何も変わっていない故郷。
「カナタ!」
ナギの声が遠い。
「それ、今の返事じゃない!」
「分かってる!」
分かっている。
それでも胸が引かれる。
帰還路は、帰る者の記憶を足場にする。
モドレズはその性質を食い、選び直しを巻き戻しへ変えている。
「旅に出なければ、間違えなかった」
獣の声。
「村を壊さなかった」
「人を危険にしなかった」
「父の死を知って、傷つかなかった」
「戻れ」
ルゥの前にも、古い作業小屋が現れた。
そこでは手首も痛まず、銀鋲は一本も欠けていない。自分の図面へ誰も書き足さず、カナタの停止係だけをしていれば失敗もしない。
ルゥは工具箱の蓋を三度叩いた。自分の名で機巧史へ残したい願いと、誰にも変えられたくない恐れを分ける。無傷の机より、後輩の傷と自分の誤線がある現在の図を選んだ。
銀鋲は少なく。
机は自分だけのもの。
誰も勝手に図面を書き足していない。
『旅に出なければ、失敗しなかった』
ナギの前。
母の声は七年前の高さで、問いを変えても同じ笑いを返す。ナギは信じたいほど、右耳の鈴を外し、左手の記録へ時刻を置いた。金属味がする中で一人の耳を信用せず、遠いトマリギ島へ現在確認を送る。
母イオラが島を出る前のトマリギ島。
七年の不在も。
白迷海も。
待つ痛みもない。
『止めればよかった』
ザンバの前。
機巧腕の幻肢痛まで消え、切った道の全てを切る前へ戻せる。だが生身の左手には、各地で受け取った弁償札の感触が残っていた。痛みを消す過去より、名前で反対される今の席を選ぶ。
天頂門。
アステルが自分の旗を門へ打ち込む一歩前。
『終点を置け』
『村へ戻らせるな』
『そうすれば、お前は裏切られない』
四人の足元に、最初の分岐が開く。
「戻る場所は、間違えた分かれ道」
シノが叫ぶ。
「でも、全部の分かれ道じゃない!」
深緑旗を白い帯へ突く。
「今、選び直すのは九叉心!」
モドレズが笑う。
「なぜ」
「もっと前にも選択はあった」
「そこへ戻れば、すべて救える」
シノの腕が震える。
母セラが逆走を始める前。
ロウガが前送を放さなかった瞬間。
自分が生まれる前。
戻りたい場所はいくらでもある。
だが、戻れない。
時間は返らない。
人は戻らない。