第212話 第十章「九叉心」後編
九番目の道は、過去を作り直す力ではない。
「歩いたことを消したら」
シノは母の九輪台車へ触れる。
「母さんが残した言葉も消える」
ルゥは古い作業小屋の幻へ、銀鋲を一本投げた。
「私の机は、もう私だけのものじゃない」
幻の机と、アカリから届いた現在図をつなぐ。
机の横へ、新しい机。
知らない見習いの傷。
変わった作業小屋。
「戻るなら、今ある場所へ」
ナギは母の幻へ鈴を鳴らす。
「昔の母さんじゃない」
遠いトマリギ島から、現在のイオラの返事。
少し低くなった声。
鐘守として働く音。
『聞こえてる』
「今の返事へ」
ザンバは天頂門の幻を見た。
アステルの背中。
止めたかった。
今でも。
「あのときへ戻れば、俺はまた同じことをする」
灰旗の石突を地面へつく。
「違うと分かるまで、何度でも切る」
「なら戻れ」と獣。
「いや」
ザンバは現在の黒点を置く。
「俺が選び直せるのは、今から先だ」
カナタだけが、昔の村を見ていた。
アステル。
出発前のルゥ。
熱を出した十三歳のアカリ。
古い南橋。
苔玉の広場。
読み方を覚えなくても迷わない、見慣れた地図。
「父ちゃん」
アステルの幻が笑う。
『戻ってこい』
カナタの足が止まった。
「違う」
白旗を握る。
「父ちゃんが残した言葉じゃない」
確認できる記録は二つ。
『行ってこい』
『たまには帰れ』
今のカナタへ状況を理解して答える声ではない。
目の前の《戻ってこい》は、モドレズがカナタの望みを父の声へ着せたものだった。
幻のアステルが黙る。
カナタは上着から二枚の地図を出した。
出航日の村図。
九枚目の現在図。
最初に目へ入るのは、やはり古いほうだった。
橋の位置も。
家の形も。
自分の記憶と同じ。
現在図は線が増え、知らない札があり、読むのに時間がかかる。
「こっちのほうが、帰りやすい」
カナタは古い図の太い線へ指を走らせ、行が止まると自分も止まった。現在図は細く、知らない名前が多い。帰った時に「お前がいなくても進んでいた」と言われ、そのうえで席を一つ空けてもらいたい。だからこそ、変わっていない村の幻へ逃げれば、その願いまで消えると気づいた。
思わず言った。
ナギは否定しない。
「使う?」
カナタは古い図を見る。
今ここで《使う》と言えば、旅立つ前まで戻る白い帯が道になる。
「……決めない」
初めて、答えを先送りするためではなく、確認していないから言った。
「カゲノハ村へ帰るときの地図は、帰る前にもらう。日付を見て、今いる人に聞く」
「どの故郷を選ぶ?」とモドレズ。
「それも、今ここで決めない!」
カナタは二枚を重ねず、別々に畳む。
「今、選び直すのはネウラの道だ!」
九つの町を見る。
「今いる人が、もう一度選べる場所へ戻る!」
白旗を九叉心へ向ける。
「戻る場所は、九叉心!」
モドレズの白い帯に亀裂が入った。
旅立ちを消さない。
失敗も。
出会いも。
終えた旅も。
最初からやり直さない。
そして、まだ確かめていない帰郷の答えを、ここで分かったことにしない。
シノの深緑旗へ、九つ目の線が現れた。
後ろ向きの矢印ではない。
一度来た道をなぞり。
分かれ道の中央へ戻り。
そこから先を空ける、曲がった線。
白い帯が九叉心の手前で切れた。
昔の村は消えない。
現在の村を選んだことにもならない。
古い地図へ惹かれる自分ごと、カナタは今の九叉心へ戻った。
九叉心へ戻ったとき、ネウラの人々は前を向いていなかった。
後ろも。
九つの分岐を、順番に見ていた。
中央脈。
三日前に選んだ道。
白く枯れた入口には、ネウラの足跡が残っている。
行き。
戻り。
二本が重なり、一本の太い傷になっていた。
「消さないの?」
シノが訊く。
ルゥは中央脈の入口へ銀鋲を打った。
「残す」
「間違った道」
「だから」
銀糸で傷の縁を囲む。
灰青色の四番旗が光る。
「現在の状態」
ルゥは帳面へ書く。
――中央脈。三十二年前の旧図では星心門へ接続。
――現在、三日先に枯星心。通行不能。
――ネウラ往復済み。負傷者百三十一。死亡者なし。
――未踏路の残照あり。再利用禁止。
――再調査、次の人へ。
「長い!」
「正確!」
カナタは白い札を立てた。
自分で文字を書こうとして、止まる。
「何て書く!」
「今、読んだ」とルゥ。
「長い!」
「なら、短くしない」
シノが筆を取る。
――この道は、今のネウラには続かない。
その下へ、カナタが大きく書く。
――もどる。
一文字目だけ左右が逆だった。
「惜しい」とシノ。
「読める!」
「書けてない!」
「向こうから見れば正しい!」
「ここに向こう岸はない!」
ナギは標柱へ、小さな日付札をつけた。
「いつの正しさか」
「アカリの言葉」
「うん」
三十二年前の旧図も捨てない。
現在調査図へ、今回の往復を書き足す。
その二枚を、別々の筒へ保管する。
「古い地図を破らないのか」
トウマが訊く。
「昔は続いてたかもしれない」とルゥ。
「どうして分かる」
「古い荷の記録がある。門の残響も嘘とは限らない」
「でも、今は違う」
「うん」
トウマは三十二年間、旧図を読む仕事をしてきた。
自分の仕事が間違いだったのかと、星盤を握る。
「俺は、何を読んでいた」
「来た道」とカナタ。
「行き先じゃなくなっただけだ」
「簡単に言うな」
「難しく言えない!」
トウマは少し笑った。
「旧図は、旧図として読む」
「今の図は?」
「今の図として」
「両方読める!」
「仕事が増えた」
「いいことだ!」
「船長の弁償みたいに?」
「それは減らす!」
九つの分岐の前へ、各脈区の代表が集まった。
今度は、ロウガが先頭に立たない。
円の端。
第九脈区の隣。
「どの脈へ入る」
カナタを見る。
カナタは胸を張りかけた。
赤い脈が最も明るい。
青い脈からは港鐘。
緑の脈には育つ風。
「俺に訊くな!」
「誰に訊くの」とルゥ。
「全員!」
声を張る。
「第一脈区! どの道!」
トウマが、旧星盤と現在盤を二枚開く。
曲がらない左薬指で現在盤の端を押さえ、古い盤は右親指を使わず縄へ固定した。弟へ近づきたいから青を選ぶ気持ちも、赤の速さへ惹かれる気持ちも隠さない。
「赤は速い! ただし脈動が三刻で消える。青は二日。緑は七日以上!」
「第二!」
ナユが青い根へ耳を当てる。
透明床を棒で叩き、距離感を確かめてから膝をつく。孫の飲水量と炉工の必要量を別々に言い、家族の理由も公共の理由も一つへ丸めなかった。
「青に根水! 九区ぶん補給できる!」
「第三!」
ハツネが芽を九本の入口へ置く。
「緑は育つ! 青でも三日なら保つ。赤は熱で枯れる!」
「第四!」
イワオ。
「青は工房区の重さを支えられる。炉は止まってるから速度は急がない」
「第五!」
マドカ。
「住区の子どもは赤い脈熱に耐えられない。青か緑」
「第六!」
オトハが九鐘を聞く。
「青の向こうから、現在の港鐘が三つ!」
「第七!」
サエ。
「負傷者百三十一。最短より、揺れの少ない青」
サエ。
片耳を塞ぎ、咳の間に紙を掲げる。
「負傷者百三十一。最短より、揺れの少ない青。治療長は過負荷二、代行あり」
「第八!」
クラト。
「食料、残り四日。青なら二日。緑は足りない」
「第九!」
シノは後脈窓の記録札を広げる。
「青い脈の後ろに、戻ってきた船の跡。向こう側がある」
九つの声。
「青」
ただし、全員が同じ理由ではない。
ナギは一つずつ記録する。
「反対は?」
沈黙。
「返事なしは?」
全員がいる。
「未確認は?」
トウマが手を上げる。
「青い脈の三日目以降。港の先」
「残す」
青い道を選ぶ。
それでも、未知は消さない。
「決まりだ!」
カナタが白旗を上げる。
「最初は?」
シノが訊く。
カナタは一歩出かける。
止まる。
深緑の旗を見る。
「お前」
「私?」
「戻る道を見つけた」
「前の道は、みんなで選んだ」
「じゃあ、九つの町!」
「同時に踏んだら、また裂ける」とルゥ。
「難しい!」
ロウガが赤銅旗をシノへ向けた。
「第九脈区から」
「最後尾?」
「戻る道を先に踏んだ町だ」
命令ではない。
「先へ行ってくれるか」
ロウガは命令形へ戻りかけ、娘の名を先に呼んだ。
「シノ。先へ行ってくれるか」
頼んだあと、体は反射的に前へ一歩出る。自分で一歩戻し、娘の返事が終わるまで鏡板にも触れなかった。
シノは深緑旗を握る。
「行く」
「間違えたら?」
「言う」
「戻るか」
「みんなに聞く」
「そうか」
青い脈の前へ立つ。
旗を突く。
「星心港へ!」
一歩分の緑の足場が生まれた。
今度は戻るためではない。
選び直した先へ。
カナタが白旗を振る。
「シノの次!」
一歩分の光板。
二歩目。
二つが道になる。
「第一歩号は?」
ルゥが訊く。
「三歩目!」
「船名と違う!」
「もう慣れなさい!」
九つの脈区が、青い道へ一つずつ入った。
違う歩幅で。
最後に第一脈区が分岐を越える。
ロウガは中央脈を振り返った。
九年前なら見なかった後ろ。
今は、戻った足跡が見える。
「セラ」
小さく名を呼ぶ。
返事はない。
ナギは、返事を足さなかった。
古い第九区から持ち帰った旗竿が、一度だけ光る。
それは今の返事ではない。
歩いた道が残っている証だった。