第213話 第十一章「九番目の旗」前編
青い脈へ入って三刻。
壁を流れる星光が強くなった。
遠くから鐘。
ごおん。
ごおん。
ごおん――。
「港だ!」
カナタが船首で叫ぶ。
「今度こそ!」
「現在の鐘!」とナギ。
「三回、返事あり!」
「まだ見えてない!」とルゥ。
「音がある!」
「二番目の旗みたいなこと言わないで!」
霧が開く。
星根の中に、大きな空洞が現れた。
何百本もの根が交わり、中央に青い星炉が浮かんでいる。
その周囲を、船と町が輪になって走っていた。
星心港。
受入列の中に、トウマの弟がいた。三年前の手紙より肩幅が広く、炉番の防火布を左肩だけへ掛けている。トウマは昔の家で呼んでいた愛称を口にしかけ、止めた。
「今、港では何て呼ばれてる」
「炉区の人は、役番で呼ぶ。家では前のままでいい」
現在の呼び名を確かめてから、兄弟は抱き合った。戻らなかった三年を消さず、今の相手へ返事をする再会だった。
ネウラの旗が一斉にはためく。
今度は前だけではない。
来た道へ。
今いる場所へ。
九叉心へ。
それぞれの向きへ細い光を残している。
「着いた」
シノが言った。
「戻ってから!」
カナタが笑う。
「遠回りだった?」
「三日ぶんと、戻る三日ぶん」
「無駄?」
「負傷者と、失った水と、苗へ聞いて」
「聞く!」
港の受入鐘が鳴る。
ナギが現在地を送る。
「星心港、外周!」
港側から返事。
『受け取る!』
終路鐘が鳴る。
ごおん――。
中央脈へ向かう旅。
九叉心へ戻る旅。
青い脈を選ぶ旅。
三つを分け、最後の道だけへ終点を置く。
第一歩号の八脚輪が港へ降りた。
八本目の足先が、青い根の形へ変わる。
「着港!」
「減速できた!」とルゥ。
「成長!」
次の瞬間、船尾の折返札が港の標柱へ引っかかった。
第一歩号が一歩だけ後ろへ戻る。
船首が受入門へ当たった。
からん、と看板が落ちる。
――現在版の地図を確認してください。
「惜しい!」
「弁償!」とシノ。
「今のは札!」
「札を結んだのは?」
「俺!」
「認めるのは早くなった」
「成長!」
星心港の人々は、三日遅れではなく、予定より九日遅れで来たネウラを迎えた。
中央脈へ進んだ日。
折り返した日。
九区ごとの待ち時間。
それらを足すと、港側の準備日はとうに過ぎていた。
最初に水を渡し。
負傷者を運び。
芽床を日当たりへ置き。
止めた炉へ再点火の種火を貸す。
それから、現在の地図を見せた。
「星心門は二十八年前に青脈へ移った」
港の測量師が言う。
「中央脈が枯れ始めたから」
「知らせは?」とトウマ。
「三度送った」
「届いてない」
「返事は?」
「統脈鐘の一音が返った」
――前進中。
誰が受け取ったのか。
誰が地図を更新しなかったのか。
一音では分からない。
「一音では、届いたことにならない」
ナギが言った。
星心港とネウラの間へ、九本の連絡路を作ることが決まる。
地図を更新した者。
受け取った区。
未返答。
すべてを別々に残す。
しかし、青い脈を選んだからといって、損害は消えなかった。
星心港が渡せる根水は、失った十一槽の七槽ぶん。
残り四槽は、十日間の配給でしのぐ。
第三脈区の苗は、今期の収穫を二割減らす。
第四脈区の二炉は、再点火まで三十四日。
第五脈区の十四軒は、港外周の仮家へ移る。
第七脈区の重傷者六人は、第一歩号の出航日にも治療中だった。
第八脈区の食料損失により、次の交易便へ渡す予定の荷を一部取りやめる。
さらに青い脈は、中央脈より狭かった。
九つの脈区は一列では通れず、三群に分かれて港へ入り直す必要がある。
その再配置だけで、一か月以上。
「選び直したのに、まだ困るのか」
カナタが言った。
「選び直しは、代金を返してくれない」とシノ。
シノは言いながら、欠けた前歯を隠さず笑った。正しい戻りを教える賢者ではない。負傷者と水と苗の損失を数え、その代金を引き受けたうえで、戻った選択を今日の最善と呼んでいる。
「青が間違い?」
「今の条件では、受け取れる道」
「正解じゃない?」
「明日も同じとは限らない」
ナギは青脈の地図へ確認日を書く。
――本日。
港の青い星炉が、ネウラの九つの鐘を一つずつ照らした。
選び直した先は、最初から正解として待っていた場所ではない。
現在の返事を交わし。
不利益も受け取り。
今日ここを使うと決めた場所だった。
星心港の外周に、深緑の大旗が立てられた。
九つの矢印。
八つは、歩いてきた道をなぞる。
九つ目は分かれ道へ戻り、そこから何も描かれていない空白へ開いている。
「これが、九番目の旗」
カナタが見上げる。
「一本目は、行きたい場所へ立てる旗」
自分の白旗。
「二本目は、帰る場所へ」
遠いトマリギ島の青い旗。
「三本目は、別々に進む者が、また会う場所へ」
銅色の小旗。
「四本目は、自分で踏めない続きを、次の誰かへ渡す場所へ」
灰青色。
「五本目は、今いる者を数える場所へ」
夜色の点。
「六本目は、まだ知らない誰かの一歩を空ける場所へ」
透明な布。
「七本目は、歩き終えた道へ『ここまで』を残す」
暮色の灯。
「八本目は、同じ道を歩く誰かへ先頭を渡す」
薄青い足跡。
最後に、シノは深緑旗へ触れた。
「九本目は?」
「進んだ道が違うと気づいた場所へ立てる旗」
「戻る旗?」
「歩いた道を消さず、選び直せる分岐まで戻る旗」
「二番目と違う?」
「二番目は帰る場所を持つ。九番目は、選び直す場所を残す」
「戻ったら、同じ道を選んでもいい?」
「使う時点の地図と返事を確かめて、もう一度選んだなら」
「何回まで?」
「決め直せる限り」
「十回でも?」
「札の弁償は十倍」
「厳しい!」
ロウガが、旧第九脈区の金属板を運んできた。
四十三人の名。
セラ。
返脈師たち。
戻る途中で失われた者たち。
深緑の大旗の下へ置く。
その前には、九区の損害札も一枚ずつ並べられた。
割れた観測鏡。
失った根水。
種へ戻した苗。
消えた炉。
仮家へ移った住民。
遅れた警告。
百三十一人の負傷記録。
崩れた荷。
混ざった返路札。
旗を立てたから終わったことにはしない。
「十二年前」
ロウガは人々の前に立った。
「ネウラは前送炉を強くし始めた」
町が静かになる。
「前送で根崩れを逃れた日がある。水を送り、病人を運び、冬を越えた。十二年を、すべて間違いだったとは言わない」
イワオが顔を上げる。
「九年前、旧第九区を失ったあとも、前送で守った八区がある。それも消さない」
ロウガは一度、四十三人の名を見る。
「だが、守ったものを理由に、失ったものを隠した」
赤銅旗を下ろす。
「三日前、現在図より旧図を選んだ。反対を聞いても前送を止めず、未踏路へ町を押した。今回の判断は、私の誤りだ」
ロウガは言い終えた直後、体だけが前へ一歩出た。九爪の靴が旗壇を噛む。会場が息を呑む前に、自分で同じ一歩を戻した。
「謝ったから前進の癖が消えるわけではない。今の一歩も損害記録へ入れる」
三回同じ高さで乾いた笑いを出し、四回目だけ低くなった。自分を許した笑いではなく、体の古さを認めた笑いだった。
カナタが前へ出る。
「俺も」
白旗を下ろす。
「道を作れることを、道が合ってることと同じにした。九つの返事を聞いたのに、自分の前を選んだ」
第一脈区へ。
「鏡を割った。ごめん」
第二へ。
「水を失わせた。ごめん」
第三。
「苗を今期の畑から外した。ごめん」
第四。
「炉を止めた」
第五。
「家を動かした」
第六。
「警告を遅らせた」
第七。
「怪我を増やした」
第八。
「食料と荷を壊した」
第九。
「返す札を混ぜた」
「ごめん」
九回。
同じ大声にはしなかった。
各区の代表へ向き直り、何をしたかを別々に言った。
返事も別々だった。
「修理へ来て」とトウマ。
眠そうだった声が危機時の明瞭さへ変わった。トウマは「失敗ではなく保留」と言いかけ、割れた鏡を失敗と書く。右親指で枠を持てないため、左の独自結びをカナタへ教えた。謝罪を聞くことと、技術を渡すことを別にしなかった。
「水を運んで」とナユ。
ナユは配給順へ孫の名も書いた。身内だから隠すのでも、平等を装って最後へ回すのでもない。偏りを公開し、別の水路師と相談する。カナタには水桶の前を歩かせず、最後尾でこぼれた量を数えさせた。
「苗の名を覚えて」とハツネ。
「次の炉試験に立ち会え」とイワオ。
「家の持ち主へ直接聞いて」とマドカ。
「謝罪音と警告音を同じ箱へ入れないで」とオトハ。
「患者の返事を急かさないで」とサエ。
サエは道具を丁寧に返した。怒りの合図だった。長く話せず咳へ変わるため、紙へ《謝罪を聞くことも患者の仕事にしない》と書く。その夜だけは代行へ全床を渡し、二刻眠った。誰にも必要とされない時間を、治療の失敗とは呼ばなかった。
「壊れた箱を数えて」とクラト。
シノはすぐには許さない。
母セラの金属板にも、新しい一文を足さなかった。《母は正しかった》とも《母も間違えた》とも一行へ縮めない。返事を待たず戻った判断、四十三人を集めた救助、平衡を崩していた身体、ロウガを敵一人にしなかった途中手紙。それぞれを別の札で残す。
故人の名誉を守ることと、生者へ都合のよい答えを言わせることを分けた。
「謝る相手、四十三人いる」
「ああ」とロウガ。
「今の九区にもいる」
「ああ」
「母さんには返事がない」
「ああ」
「それでも話す?」
「話す」
カナタへ向く。
「あなたの弁償札は、九百三十二枚」
「そっち!?」
「町を落としかけたぶんは、札だけでは払えない」
「何をすればいい」
「各区の修理を、終わったことにしない」
「全部、俺が直す!」
「一人で決めない」