第214話 第十一章「九番目の旗」後編
カナタは「全部俺が直す」と言いかけた口を閉じた。責任まで独占すれば、修復を受け取る人の道をまた奪う。白旗の端をつまみ、九区の代表へ一人ずつ担当を訊く。
「じゃあ、担当を聞く!」
「それから、次に間違えたとき」
「大きく言う!」
「間違える前に聞く」
「難しい!」
「九番目だから」
星心港の職人たちが、小さな九番旗を作った。
深緑の布。
九つの矢印。
中央には開いた分岐。
シノがカナタへ渡す。
「第一歩号の九番目の旗」
「使えば、どこまで戻れる?」
「歩いた道まで」
「歩いてない場所へは?」
「未踏路」
「俺の出番!」
「戻る前に出さないで」
「間違えたら?」
「言う」
「誰が?」
「歩いてる人全員」
「俺だけ気づいたら?」
「伝える」
「聞かなかったら?」
「大きく言う」
「得意!」
「でも、決めるのは一人じゃない」
「難しい!」
「九番目だから」
カナタは深緑の小旗を、白旗の隣へ結んだ。
帆柱には、八枚の旗。
白。
銅。
灰青。
夜。
透明。
暮色。
薄青。
深緑。
二番目の青い旗は、遠いトマリギ島で帰る場所を守っている。
「船に八枚!」
「全部で九本」とルゥ。
「数が合った!」
「二番目は船にない!」
「でも九番目!」
「数のために旅してない!」
ザンバは灰旗の九本目を見た。
黒点から前へ出た線が、一度戻り、別の分岐へ向かっている。
「お前の九番目は?」
カナタが訊く。
「選び直す道だ」
「何を?」
「誰の後ろを歩くか」
「俺をやめる?」
「今は続ける」
ロウガは赤帯を以前より一段緩く巻き、鏡板を外したまま見送りへ立つ。前へ出かける九爪を自分で一歩戻し、シノの返事が終わってから旗を上げた。謝罪の翌日も、六週間後も、同じ練習を続けていた。
「今は!?」
「間違えたら言う」
「優しく!」
「旗竿で」
「言葉は!?」
「そのあとだ」
「順番が逆!」
星心港に笑い声が広がった。
深緑の大旗は、前にも後ろにも固定されず、風が来るたび九叉心と青い脈を交互に指した。
星心港へ着いて七日。
本格的な再配置へ入る前に、ロウガは旧第九脈区へ戻った。
一人ではない。
シノ。
ナギ。
それから、今の九つの脈区から一人ずつ。
第一脈区のトウマ。
第二のナユ。
第三のハツネ。
第四のイワオ。
第五のマドカ。
第六のオトハ。
第七のサエ。
第八のクラト。
第一歩号は、八脚輪で捨て脈の記憶を踏む。
深緑の大旗が先頭。
カナタは二歩目を出したがった。
「今回は留守番」
シノが言った。
「なんで!」
「弁償札を九百枚書く」
「今じゃなくても!」
「戻ってから言い訳した人が、また先延ばし?」
「書く!」
ルゥとザンバも第一歩号へ残った。
ルゥは船の修理。
ザンバは監視。
「俺を?」とカナタ。
「主に」
「札から逃げない!」
「今、船縁を見た」
「外の景色!」
「紙を持て」
旧第九脈区では、四十三本の旗竿へ新しい札を結んだ。
過去を書き直す札ではない。
今日、誰が来たか。
何を直したか。
何を持ち帰らないか。
一枚目。
――返脈師セラ。
――記録を受領。
――継ぎ環は復元しない。
ホウの左利き用工具と、ミギワの煤測定糸も同じ棚へ置いた。ホウの記録には《逆走機構の事故責任者》とあるが、別の申請書では停止条件を追加しようとして却下されている。ミギワの台車帳は古い手順へ固執する一方、机の上に空白札を残すことだけは譲らなかった。
ナギは二人の固定作業音を鳴らし、現在の問いを重ねなかった。旧友の証言と記録が食い違うまま、直せる機巧と戻さない町の判断材料へした。
ロウガが書いた。
「直せるぞ」
イワオが断面を見る。
「今の部品なら」
「直さない」
ロウガは答えた。
「なぜ」とトウマ。
「町へ戻すために、ここを今の第九区へつなげば、二つの区を一つへ重ねることになる」
「住める場所が増える」
「誰の町として」
トウマは黙る。
旧第九区は、四十三人が歩き終えた場所。
今の第九区は、そのあとを生きている人々の町。
同じ番号でも、同じものではない。
「戻さないことも、選び直し?」
オトハが訊く。
「直せるから直す、ではない」
ルゥの言葉を、シノが借りた。
「何のために直すかを、今いる人へ聞く」
旧区の返鐘塔だけは直した。
修理には、モドレズの小個体一体が落とした航程殻を使った。殻は通った距離を正確に保持し、塔の傾きを測る目盛りになる。ただし獣そのものを塔へ飼い付けない。記録を取ったら殻だけ受け取り、小個体は九叉心の観察区へ返す。利用と所有を同じにしないためだ。
現在の返事を取るためではない。
来た者が、自分の現在を残すため。
ナギが五つ叩く。
「ナギ。旧第九脈区。今、ここ」
一人ずつ続く。
ロウガの番。
鐘へ手を置く。
「ロウガ」
声が止まる。
九年前なら、肩書きを先に言った。
脈導長。
町を前へ導く者。
今は。
「ロウガ。旧第九脈区。今、ここ」
五つ。
返事はない。
それでも、言葉は記録された。
帰還後。
ロウガは第一脈区の進脈塔から、今の第九脈区へ仕事場を移した。
「辞めるの?」
カナタが訊く。
「脈導長は続ける」
「後ろにいるのに?」
「前だけを見ない脈導長になる」
「長い!」
「肩書きは変えない」
ロウガの机へ、最初に届いたものは片方の靴だった。
持ち主は第三脈区。
「返すのに二日」とシノ。
「返路を使う」
「許可する側?」
「一緒に運ぶ側だ」
父と娘は、逆走台車へ乗る。
シノが棒を後ろへ突き。
ロウガが返路札を読む。
「表は前進」
「裏は?」
「折返」
「読めた」
「九年遅い」
「ああ」
シノはすぐ笑わず、逆走台車の片側だけを父へ渡した。許したから同じ台車へ乗るのではない。父が今どの札を読むか、仕事の中で見続けるためだった。
ロウガも「父さんと呼べ」とは言わない。赤帯の張力を一段緩め、娘の半歩の往復へ速度を合わせた。
すぐに許す言葉はない。
それでも、同じ台車へ乗る道は始まった。
第一歩号は、星心港へ着いてから三十三日、ネウラの修理と再配置へ残った。
最初の七日は、負傷者と水と炉。
次の九日は、九つの脈区を青い脈へ通せる三群へ分ける作業。
残り十七日は、戻る道を日常の仕事へ渡すために使った。
「三十三日も止まった!」
カナタが言う。
「止まってない」とルゥ。
「毎日働いた!」
「なら分かってるでしょ」
「船が進んでない!」
「町が進める形を作ってる」
星脈市ネウラには、後ろ向きの扉ができた。
正確には、扉の表と裏を決めなくなった。
家へ入る者がいれば入口。
出る者がいれば出口。
同じ扉が、二つの向きを持つ。
道には、細い返路が一本ずつ加えられた。
落とし物は、九区を二日かけて一周しない。
拾った者が返路札を裏返す。
持ち主のいる区画へ、逆向きの小さな脈車が走る。
「焼き根芋、一つ!」
カナタが流れる屋台へ手を伸ばす。
「三枝銭!」
店主が芋を投げる。
カナタが受け取る。
代金を投げ返す。
銭は返路へ落ちた。
店主の背中側から箱へ入る。
「戻った!」
「今度は本当に」とシノ。
「芋も戻せる?」
「食べる前なら」
カナタは一口かじる。
「間違えた。甘いのがよかった」
「食べた道は戻らない」
「九番旗!」
「使い方が違う!」
返路札保管庫は、《選び直し場》へ名前が変わった。
シノは入口札を表から読まず、今日も裏面を確かめる。返脈師見習いの仕事は、町を昔へ戻すことではなく、住所変更、誤配、避難、進路修正を日常的に扱うことへ変わった。
最初の一週間で、戻す必要のない食器を三度返し、持ち主が今の傷を気に入っている工具を一度勝手に修理しかけた。戻る側も正解ではない。失敗札を九列目へ残し、通常航法として直していく。
棚は四つに分けられた。
戻せるもの。
戻せないもの。
戻さないもの。
未確認。
宛先を間違えた手紙は、戻せる。
削りすぎた歯車は、元の鉄には戻らない。
別の部品へ使う。
言い直したい言葉は、相手が受け取るなら送り直せる。
最初に言った言葉は、消えない。
旧第九区は直せても、今の町へ重ねない。
四十三人は戻らない。
名前と歩いた道を残す。
「分けるの、難しい」
オトハが四つの棚を見る。
伝鐘室も《返事編集室》へ変わった。オトハは最古の未送音箱を開き、幼い自分が「前へ送ります」と答える声を聞く。現在の自分は、記録へ「待って」と返した。
ただし全箱を公開しない。持ち主がいる声は本人へ。治療情報は必要な担当へ。共同体の判断へ関わる命令だけ公開会へ。聞かなかった音を開く勇気と、他人の秘密を守る責任を同じ制度へ置いた。
「戻せると思ったものが、戻せないこともある」
ナギが答える。
「戻せないと思った返事が、遅れて来ることも」
地図庫にも、四つの欄ができた。
現在の道。
以前の道。
修正案。
確認日。
古い地図は捨てない。
現在図の上へ重ねて、見えなくもしない。
ルゥは百二十七年前の中央脈図へ、赤い札をつけた。
――過去版。
その横に、今日の青脈図。
――現在版。
さらに、確認した人の名。
トウマ。
オトハ。
シノ。
「地図は紙だけじゃないのか」とカナタ。
「誰が、いつ確かめたかも地図」とルゥ。
「読める人がいないと?」
「線だけ残る」
カナタは自分の損害札を一枚足す。
――第一歩号、旧図を使用し進入。折返し済み。
「長い!」
「正確!」
第一歩号の四人も、担当を持った。
治療区では、カイセが正式な返路配達見習いになった。入口、出口、人数、自分の体調を四つとも声に出す。最初の日は自分の体調だけ忘れ、エンに《肋骨、痛み二》と追記されて休んだ。
エンの小棚は誰にも整理させない。戻った靴、温石、兄の最後の一滴瓶、遊び途中の札がばらばらに置かれている。大人が意味を一つに整えない、八歳の現在だった。