第215話 第十二章「戻る一歩も前へ」前編
ルゥは第四脈区で、前送炉を九つの小炉へ分ける設計をイワオたちへ渡した。
前へ送る機能は残す。
逆歯車を入れられる空白も残す。
十二年の技術を捨てず、前だけへ固定する部分を外す。
ナギは九つの鐘を《連標網》へつないだ。
一つの大鐘にはしない。
第一脈区の星鐘。
第二の水鐘。
九つの違いを、そのまま遠くへ送る。
ザンバは、損害札へ《決めた者》《実行した者》《止められなかった者》《現在の修復担当》の欄を増やした。
さらに《身体条件》《反対を聞いた時刻》も加えた。責任を疲労のせいだけにしないためであり、身体の限界を無かったことにして英雄化しないためでもある。黒い機巧腕で欄を刻み、生身の左手で担当者へ札を渡した。
「増えた!」とカナタ。
「責任を一人へ集めず、一人の責任も消さないためだ」
「難しい!」
「書け」
カナタは毎日、九区を回った。
鏡枠を運び。
水槽を洗い。
苗の名を書き。
炉鋼を担ぎ。
仮家の屋根を直し。
伝鐘管を磨き。
返事のできる患者へ、一人ずつ謝り。
荷箱を数え。
返路札の宛先を読み直す。
三十三日で全部は終わらなかった。
観測鏡は残り一枚。
根水は配給中。
二炉は再点火待ち。
仮家には四家族。
重傷者二人は治療継続。
返路札は二十七枚が未確認。
「出航していいのか」
カナタが損害板を見る。
「残る人へ渡した」とルゥ。
「終わってない」
「終わってない形と、担当と、次の確認日を残した」
「四番目」
「そう」
カナタは一枚ずつ、受取人の返事を聞いた。
最初の送り先は歩雲群ヤエ。
メグから八つの返事。
『中央根へ入った?』
「入った!」
『警告、届いた?』
「遅れて!」
『戻った?』
「大きく!」
『何が?』
「間違えたって言った!」
メグの笑い声。
『聞こえた』
受領。
それで、遅れた警告はようやく一つの道を終えた。
ネウラの修復は終わらない。
九叉心の観察区では、モドレズの小個体九体が別々の囲いを歩いていた。航程殻は地図の更新履歴へ利用できる。だが一方向の命令札を三日続けて置く試験では、二体が囲いの境へ同じ向きに並び、体側へ新しい層を作った。
観察係は九区輪番。小個体を町の象徴や番獣にせず、便利さが権威へ変わる兆候も公開する。制度を直した後も、生物と人の習性が戻る可能性を監視する仕事が残った。
それでも、第一歩号がいなくても続けられる仕事へ変わった。
第一歩号がネウラを出る前日。
カゲノハ村から、二枚の地図が同時に届いた。
一枚は、カナタが出航した日の村図。
もう一枚は、今日の現在図。
人名札の角は丸く、旧道の誤線は赤糸で囲ってある。左手の筆圧が途中で弱い箇所には、《眩暈、一呼吸休止。セノへ先頭を渡す》と小さく書かれていた。地図を作る人の体調も、その日の現在から外さない。
右上の日付。
――出航後、一年と七か月、十九日。
「古いほう、見やすい!」
カナタは反射的に出航日の図を取った。
昔の南橋。
苔玉の広場。
小さな作業小屋。
自分の家。
線が少なく、全部知っている。
今日の図には、知らない道が増えていた。
北発着場の枝が半歩伸びた。
旅人宿の横に配達小屋。
薬師渡りの入口は四十三歩移動。
倉庫になった家には、南と北の二つの戸。
「どっちを先に使う?」
連標網の向こうで、アカリが訊いた。
「古いほう!」
答えは早かった。
ルゥが工具箱へ手を伸ばす。
「試してから殴って」とナギ。
「殴るのは決定!?」
アカリは、村の荷下ろし場に小さな試験荷車を置いていた。
中身は空箱。
安全縄つき。
セノとフィオが左右を支える。
『配達先、キヌ婆』
「知ってる!」
カナタは反射で答えたあと、古い図の字を一行飛ばした。ルゥが指摘する前に、自分で指を線へ戻す。
「待て。今のキヌ婆は、どこへいる?」
知っている名前から場所を決めず、受取人へ問いを返した。
カナタは古い図の上へ指を置く。
「南橋を渡って、三番根道!」
『受け取った』
アカリは古い宛名札を《宛標》へ結ぶ。
――南小枝三番、キヌ婆の家。
黄緑色の旗が傾いた。
細い線は、カナタが指した昔の南橋へ進む。
荷車も、現在図では閉じられた細道へ向いた。
「合ってる!」
カナタが胸を張る。
線は、橋のあった縁で止まった。
先には空。
安全縄が張り、荷車が一歩手前で止まる。
「止まった!」
『古い住所では、ここまで』
「旗が壊れた?」
『住所が、今の受取人へ続いてない』
「キヌ婆は同じ人だぞ!」
『いる場所が違う』
アカリは古い札を破らなかった。
裏へ日付を書き、《旧住所》の袋へ入れる。
次に、旅人宿へ五回の呼び声を送る。
「キヌ婆。今、どこ」
返事。
『旅人宿の受付。受け取るよ』
食器の音、帳面をめくる音、旅人へ湯を出す声。昔の家を管理するキヌ婆と、今日の宿守であるキヌ婆は同じ人だが、返す仕事と場所は違う。アカリは右手で新札を渡し、左手で旧札を赤糸へ束ねた。
アカリは新しい札を書く。
――旅人宿受付、キヌ婆。
住所だけではなく、現在の受取人名。
黄緑色の旗へ結ぶ。
《宛標》が一度、迷うように揺れた。
それから、古い橋ではなく、今日の荷車路へ弱く傾く。
途切れていた黄緑の線が、現在図の上で再び動いた。
「進んだ!」
カナタが叫ぶ。
『道は作ってない』
「でも方向!」
『今日の受取人へだけ』
荷車は、セノたちが確認した現在の板を一枚ずつ進む。
旅人宿の受付へ着く。
キヌ婆が空箱を受け取った。
五回。
『受け取った』
アカリは試験札へ記す。
――旧住所札、旧南橋で停止。
――現在受取人名と本人返事により再始動。
――《宛標》は道を作らない。
――案内前に現在図の確認が必要。
「古い地図が間違いだった?」
カナタが訊く。
『出航日の配達なら合ってた』
「今は?」
『記録』
「新しい地図は?」
『今日使う図』
カナタは二枚を見る。
古い図のほうが、今も読みやすい。
手を伸ばしかける。
止める。
「新しいほうを使う」
カナタは古い図を捨てず、現在図の上へも重ねなかった。読みやすさへ惹かれる自分を隠さず、《字はルゥか当日の案内役へ聞く》と大きく書く。分からない字を勢いで別の字へ決める癖を、質問へ変えた。
ルゥが訊く。
「どうして?」
「今使うから」
「古いほうは?」
「捨てない。どこから変わったか見る」
ナギが続ける。
「地図が新しければ、それだけで着ける?」
「……読める人もいる」
「誰」
「その日にいる人。分からなかったら聞く」
アカリが現在図を一枚めくる。
『帰るときは?』
カナタは、すぐに「今の村」とは言わなかった。
「帰る前に、新しいのをもらう」
『一枚で足りる?』
「地図は読む人も必要だ」
『受け取った』
「できればアカリが読め!」
『その日、村にいるか分からない』
「待つ!」
『村全部を?』
カナタの口が止まる。
「……案内役が返せるまで、入口で現在を聞く」
『それなら記録する』
響路の奥から、アステルの古い声。
『たまには帰れ』
ナギが左の黒い鈴へ分ける。
「記録」
右。
アカリの現在。
「ここ」
カナタは父の声へ答えを求めなかった。
同じ言葉がもう一度鳴るだけだった。
『たまには帰れ』
カナタは二枚の地図を、別々の袋へ入れる。
古い袋へ。
――出航日。
新しい袋へ。
――今日。
字は少し大きすぎた。
それでも、両方読めた。
第一歩号の修理には、九日かかった。
一日目。
ルゥは、船底へ貼りついた前進札を剥がした。
二日目。
八脚雲着輪の一本が、後ろへしか踏まなくなった。
「成長!」
「故障!」
三日目。
両面折岸舵の片方へ折返札が入り込み、船首と船尾が互いを前だと思い始めた。
第一歩号は修理桟橋の上で一時間、横向きに進み続けた。
「新しい!」
「直す!」
四日目。
イワオが、前送炉から外した逆歯車を持ってきた。
五日目。
シノが《九歩返し》の輪板を船尾へ取りつけた。
六日目。
ナギが、来た道の現在を聞く九つの小鈴を並べた。
七日目。
ザンバが全部を見て言った。
「重い」
「手伝え!」と三人。
八日目。
灰旗の《岐点》で、前へ回す力と後ろへ回す力を分けた。
九日目。
ルゥが最後の銀鋲を打つ。
最後の鋲は、左親指の痛みで一人では打てなかった。ルゥが角度を決め、イワオの見習いが槌を持ち、シノが停止札を読み、カナタは船体を支える。設計板には四人の名と《次に変えた者の名を追記》という空欄がある。
自分の名で残す機巧は、誰にも触らせない完成品ではない。次の改造者へ作者性を渡せる仕組みだった。
「完成」
船尾に、大きな輪が一つ増えた。
九本の細い脈が輪の中心へ入り。
表には前進。
裏には折返。
「《九転脈輪》」
「第九翼!」
カナタが胸を張る。
「輪!」
「九番目!」
「だから輪!」
「船を後ろへ飛ばせる!」
「一脈ぶんだけ!」
「世界の果てまで戻れる?」
「炉が壊れる!」
「トマリギ島は?」
「二番旗を使いなさい!」
「組み合わせれば!」
「試さない!」
九転脈輪は、時間を戻す機巧ではない。
壊れる前の船にも戻らない。
使った食料も増えない。
歩いた航路の重さを拾い、一脈だけ向きを返す。
ただし、条件が三つ。
四つ目として、操作者の身体条件も加えた。ナギが感覚過負荷なら複数人で現在確認。ルゥの指が動かなければ手動解除を別担当へ。ザンバの幻肢痛が判断へ影響する日は本人申告。カナタの右膝が着地条件を満たさない時は、船長命令より減速を優先する。
強い人が無理をして初めて動く機巧にはしなかった。
来た道が記録されていること。
現在地が確認できること。
船員全員が、折返しを受け取ること。