第216話 第十二章「戻る一歩も前へ」後編
「多い!」
「九番目だから」とシノ。
「一人でも反対したら?」
「回らない」とナギ。
「船長命令!」
「回らない」
「緊急!」
「現在を聞く」
「落ちてるとき!」
「落ちながら聞く」
「長い!」
「間違った方向へ速く行くより短い」
試運転。
第一歩号を修理桟橋から一脈だけ前へ出す。
カナタが輪へ手をかけた。
「折返し!」
「現在確認!」
ナギが止める。
「船長!」
「ここ!」
「航路機巧師!」
「操舵輪!」
「響路士!」
「九鈴!」
「監視役!」
「船尾」
「第一歩号!」
八脚輪の現在鐘。
からん。
「行き先!」
「修理桟橋!」
「受け取る人!」
シノが桟橋から五つ叩く。
「受け取る!」
「今!」
カナタが九転脈輪を引く。
第一歩号が一脈ぶん後ろへ飛んだ。
正確に修理桟橋へ戻る。
「成功!」
船尾が、看板へ当たる。
――折返し後、後方確認。
看板が真ん中から割れた。
「弁償!」
「道は合ってた!」
「船の向きが違った!」
カナタはすぐ「全部俺が直す」と言わず、看板の持ち主と修理担当を訊いた。ルゥは工具箱を投げず、銀鋲を一本渡す。ザンバは最初に言葉で止め、ナギは事故後の五つを触覚でも確認した。九転脈輪より、四人の止まり方のほうが先に変わっていた。
「選び直す!」
「壊したあとに便利に使わないで!」
九転脈輪は無事だった。
看板は戻らなかった。
その傷も、第一歩号の来た道へ加わった。
出航の日。
ルゥは星心港から先の地図を二枚広げた。
一枚。
空へ雨が昇る《逆雨原アマガエリ》。
もう一枚。
歩雲群ヤエへ戻る道。
「次は、どっち!」
カナタが訊く。
「まず現在版の日付」とルゥ。
「読める!」
「何日?」
「今日!」
「数字!」
「増えてる!」
「読めてない!」
ナギが二つの航路へ呼ぶ。
歩雲群から八つの返事。
逆雨原からは、十滴のような小さな音。
一。
二。
九。
最後の一滴だけ、少し遅い。
「向こう側がある」
「逆雨原!」
カナタは右の道を指す。
「左」とルゥ。
「地図の裏から見た!」
「表を見て!」
白旗を右へ向けかける。
止まる。
「今の地図、どっちが表?」
カナタは分からない字を勝手に決めず、指で日付と凡例を一つずつ追った。右膝を二度振り、「助走」と言いながらも痛みを現在札へ書く。最初の一歩を急ぐ前に、読める人と踏める体を確かめた。
ルゥが文字の読める側を見せる。
「こっち!」
左。
カナタは白旗の向きを直した。
「間違えた!」
「出る前に?」
「選び直した!」
「九転脈輪を使わずに!」
「俺、成長した!」
「地図を確認しただけ!」
星心港の桟橋には、ネウラの人々が並んでいた。
トウマ。
ナユ。
ハツネ。
イワオ。
マドカ。
オトハ。
サエ。
クラト。
ロウガは、シノの一歩後ろ。
「脈導長が後ろ!」
「現在地だ」とロウガ。
「いつ前へ戻る?」
「必要な仕事が前にあるとき」
「今は?」
「見送り」
シノが深緑の小旗を振る。
「出航点呼!」
ナギが応える。
「船長!」
「ここ!」
「航路機巧師!」
「操舵輪!」
「響路士!」
「ここ!」
「監視役!」
「船尾」
「第一歩号!」
八脚輪の現在鐘。
からん。
「行き先!」
「逆雨原!」
「先頭!」
カナタが答える。
「航路はルゥ!」
ルゥは薄い片眼鏡をつけたまま、遠い標を見た。見えるふりをしない。髪の銀鋲は八本。残り二本は修理担当へ貸してあり、自分の工具が他人の手にあることへもう怒らなかった。
「道を出す人!」
「必要になったら俺!」
「反対を聞く人!」
「全員!」
ナギは右耳の鈴と左耳の栓を確認し、舌先で五拍。ザンバは《痛み二、判断可》を左手で記す。誰か一人が常に聞く側・止める側ではない。四人とも、反対を返す役へ入った。
「間違えたら!」
「大きく言う!」
朝火炉へ火が入る。
八脚雲着輪が一歩。
二歩。
桟橋の端で畳まれる。
帆が膨らむ。
第一歩号は、左の青白い星根へ入った。
カナタは船尾の九転脈輪を見る。
一回だけ、試したい。
手が伸びる。
「何する気?」とルゥ。
「触ってない!」
「今、触る前の顔!」
「顔で決めるな!」
ザンバの旗竿が、手の甲へ当たる。
「痛っ!」
「間違っていない道で、戻る必要はない」
「確かめるだけ!」
「確かめた」とナギ。
「現在版、返事あり、受取先あり」
「全部ある!」
「進んでいい」
カナタは九転脈輪から手を離す。
船首へ走る。
「逆雨原まで!」
「地図どおり!」とルゥ。
「途中で新しい道があったら!」
「現在を聞く!」とナギ。
「間違えたら!」
「止める」とザンバ。
「優しく!」
「最初は言葉で」
「成長!」
「お前がな」
星心港から、九つの鐘。
違う音。
同じ見送り。
「行ってこい!」
ロウガ。
「戻ってこい!」
ネウラの人々。
「選び直して!」
シノ。
カナタは白旗と深緑の小旗を振る。
「行ってきます!」
第一歩号は、戻った道ではなく、選び直した先へ進んだ。
六週間後。
星脈市ネウラの地図庫では、古い地図が一番奥へ追いやられなくなった。
現在図の隣。
日付をつけて並べる。
中央脈の旧図。
青脈の現在図。
九叉心へ戻った航跡。
どれも、今の道を一枚で決めないための記録になった。
第一脈区の星盤は、九本の根を順番に見る。
第二の水路には、逆向きの栓。
第三の畑では、芽を半歩ずつ起こす訓練。
第四の前送炉は、九つの小炉へ生まれ変わった。
第五の家には、前後を決めない扉。
第六の鐘は、反対も未確認も違う音で残す。
第七の寝台は、患者ごとの速さで動く。
第八の荷には、戻す先と受取返事。
第九の《選び直し場》には、四十三本の旗竿。
その隣には九つの小さな観察囲いがあり、モドレズの小個体が別々の向きへ歩く。航程殻は地図庫へ一日だけ貸し出し、翌朝には返す。同じ命令札を二日続けて置かない。小獣を《戻り路の守り神》と呼ぶ案は、履歴を権威へ変えるとして退けられた。
それでも子どもたちは勝手に仮名をつける。名を持つことと、答えを預けることは違う。その境界も、観察帳へ書かれた。
ロウガは毎朝、一人ずつ名前を読む。
返事を待つためではない。
今日、どの道を選んだかを話すため。
「今日は、第三脈区へ戻り路を作った」
最初の日は、声が硬かった。
六週間たっても、まだ硬い。
公開報告を終えるたび、ロウガの右足は反射で前へ出る。本人はその一歩を戻し、《本日も先頭癖あり》とオトハの記録へ自分で追記する。シノは父をすぐ許さず、仕事の返事だけは返す。二人の関係を、和解済みの一語へ閉じなかった。
けれど、途中で前を向き直さなくなった。
最後まで旗竿を見て話す。
シノの肩書きは、《返脈師見習い》のまま残った。
最初の通常返脈では、宛先変更の手紙を一つ昔の家へ戻しかけた。二度目は、戻さないと決めた欠け皿を勝手に直しかけた。シノは空棚へ自分の失敗札を置き、町が戻り始めた夜に枕を九回回したことまで笑って話せるようになった。力が出ても、戻る側の正しさは完成しない。
「標術が出たのに?」
連標網の向こうからカナタが訊く。
『正しい戻り方、まだ一つしか知らない』
「九回戻れば一人前?」
『九回も間違える前提?』
「冒険だ!」
『地図を読んで!』
「矢印なら!」
『裏も!』
カゲノハ村では、アカリがネウラから届いた地図を現標板へ貼った。
左手で地図、右手で受取札。立ちくらみが来ると《一呼吸休止》を現在欄へ書き、セノへ先頭を渡す。昔なら自分だけを記録から外した少女が、今は待つ側の体も道の条件として残していた。
中央脈。
行きの足跡。
戻りの足跡。
青い脈。
横へ、現在のカゲノハ村の地図。
古い薬師橋。
新しい薬師渡り。
終わった道と、今使う道。
セノが訊く。
「カナタ、帰ってくる?」
「いつか」
「どの道で?」
「帰る前に届く、その日の地図で確かめる」
アカリは答えた。
二枚の地図の間へ、今日の日付札を置く。
古い図を今日の命令にしないための札だった。
連標網の鈴が鳴る。
第一歩号からの現在報告。
――現在地、昇雨脈入口。
――行き先、逆雨原。
――船長、右を指した。
――現在図を確認し、左へ修正。
――船長、右膝痛み二を申告。
――航路機巧師、遠景片眼鏡を使用。
――響路士、九音判定を三名へ分担。
――監視役、幻肢痛あり。判断可。
進路だけでなく、進む者の今日も届いた。
署名、ナギ。
アカリは返事を書く。
――受け取った。
――帰る前に、新しい地図を頼んで。
――帰るときも、その日の地図を。
紙を鈴へ結ぶ。
旅人宿ではキヌ婆が今日の受付から五回返し、治療区ではカイセが自分の体調札まで読み、エンは小棚の物を勝手に並べ直した兄へ短く怒った。オトハは公開しない音箱を一つ閉じ、サエは代行へ床を渡して眠り、イワオは見習いが改造した逆歯車へ自分の名より先に三人の名を書いた。
大事件の答えだけでなく、役目を持たない時間と、直りきらない癖と、次の失敗が、それぞれの町で続いていた。
音路は、トマリギ島。
三番港。
ミナモ。
無灯泊。
迎え岸。
双灯港。
歩雲群。
星脈市。
多くの場所を通り、第一歩号へ向かう。
道がないなら、最初の一歩になればいい。
けれど、歩いた道が違うと分かったなら。
意地を張って前を増やす必要はない。
歩いた足跡を消さず。
間違えたと言い。
現在の返事を聞き。
選び直せる場所まで戻ればいい。
戻る一歩は、負けでも、無駄でもない。
歩いたからこそ踏める、次の一歩だ。
世界の果てから始まった旅は、初めて自分から来た道へ船首を向けた。
それでも、冒険は後ろへ進まなかった。
遠い星根の先。
一粒の雨が、空へ向かって落ちていった。
了