第217話 第一章「雨の向かうほう」前編
道がないなら、最初の一歩になればいい。
誰かが二歩目を重ねれば、足跡は道になる。
三歩目が別の方角へ進んでも、また会う旗があれば道は途切れない。
四歩目を、自分より先へ行く誰かに渡すこともできる。
五歩目を急がず、今いる者を数えることもできる。
六歩目を置く場所に先客がいたなら、一歩ぶん空けて迎えればいい。
七歩目まで歩いた道が終わるなら、「ここまで来た」と旗を立てればいい。
八歩目の先頭を誰かへ渡しても、自分の足跡は消えない。
九歩目で道が違うと気づいたなら、選び直す場所まで戻ればいい。
では、十歩ぶんの道を、一つ上の道へ渡すとき。
小さな足跡は、もう一つの大きな足跡へ潰してもいいのだろうか。
十は、一から九を消す大きな数字ではない。
一歩ずつの重さを抱え、次の数え方へ渡す節目だ。
カナタは、十へまとめれば、一から九を守ったことになると思っていた。
星脈市ネウラを出て、十日目。
逆雨原までは、四日で着くはずだった。
星心港の航路士は、確かに言った。
――空へ昇る雨を見つけたら、雨が来たほうへ進め。
カナタは前半だけを聞いた。
空へ昇る雨を三日追い、その雨が逆雨原から離れているとルゥが気づき、九転脈輪で分かれ道まで戻り、現在図を読み直し、さらに三日。
分岐へ戻る最後の一刻だけ、カナタの右膝は船の冷えを拾っていた。最初の一歩が半拍遅れたのを、本人は「助走を長くした」と言い張った。ルゥは反論する代わりに、遠景用の薄い片眼鏡をかけ、古い航路図と今の雨筋を交互に見た。髪の銀鋲は危険度の順に十本。いちばん外側の一本を抜いたままなのは、操舵輪を握る左親指へ《継ぎ路》の反動痛が戻っていたからだ。
「右膝」
「助走」
「手首」
「操舵に必要な範囲」
互いに嘘の名前だけは正確に知っている。ナギは二人の申告を青い帳面の端へ書き、ザンバは何も言わず、船首へ一番近い退路を一つ増やした。
飛空艇《第一歩号》は、順調に雨へ追い越されていた。
「雨が後ろから前へ行った!」
船首で、カナタが叫ぶ。
大粒の雨が甲板の下から現れ、帆柱をすり抜け、青空へ昇っていく。
一滴。
二滴。
十滴目が、カナタの鼻先をかすめた。
「逆雨なんだから上へ行くの!」
操舵輪を握るルゥが怒鳴る。
「俺たちも上へ行けば追いつける!」
「来たほうへ進むの! 行くほうじゃない!」
「雨に前と後ろがあるのか!」
「今、あんたが間違えたほうが前!」
第一歩号の船首では、《八脚雲着輪》が一本ずつ空を踏んでいた。
一番脚は、歩雲群ヤエでもらった星根の歩幅。
二番脚は、ネウラの水脈へ合わせて短く直したもの。
三番脚には、ミナモの銀枝。
四番脚には、カゲノハ村の古木。
残りも全部、別の町から来た部品でできている。
カナタはそれらをまとめて《第八翼》と呼んでいた。
「第八翼を上へ!」
「脚!」
「今は雨を踏んでる!」
「踏めてない! 流されてる!」
八本脚は、昇る水滴を一つずつ掴もうとした。
一番脚は右へ。
二番脚は左へ。
三番脚は上へ。
残り五本は、どの雨を踏むか相談するように空を掻いた。
甲板中央では、ナギが帆柱へ青い鈴束を十個並べていた。
九つまでは、見慣れた響具だった。
カゲノハ村の現標鈴。
トマリギ島の始標鈴。
三番港の再会鈴。
銀枝都市ミナモの次稿鈴。
無灯泊の五打輪。
迎え岸の両岸鈴。
双灯港アケヨイの終路鈴。
歩雲群ヤエの輪番鐘。
星脈市ネウラの折返鐘。
十個目だけは、空だった。
輪郭だけの透明な受け皿。
まだ会っていない場所から返事が来たとき、最初に鳴るための空きだった。
「下から九つ!」
ナギが叫ぶ。
「何が!」とカナタ。
「今の返事!」
「どこの!」
「全部!」
「まとめて聞け!」
「まとめたら誰の返事か分からない!」
雨が鈴束へ当たる。
九つの鈴が、一斉に鳴った。
同じ音ではない。
カゲノハ村は、六つ鐘のあとに荷車の車輪。
トマリギ島は、低い帰鐘と二度の呼び鈴。
三番港は、三方向から少しずつ遅れて届く風音。
ミナモは、歯の数が違う二つの歯車。
無灯泊は、船腹を叩く五つ。
迎え岸は、表と裏から重なる二音。
双灯港は、短い終路鐘。
歩雲群は、八つの足音。
ネウラは、後ろから一度だけ返る脈音。
カナタには、全部が騒がしい鐘に聞こえた。
ナギには、九つの現在地だった。
左右の耳には、音の違う銀鈴と、厚さの違う耳栓。右で問いを送り、左で返事を書くため、同じ手に問いと答えを持たない。九音が重なるたび、ナギは舌先で五拍を数えた。五拍目のあとに金属の味が残る。感覚過負荷の前兆だった。
「聞き分け、続行できる?」とルゥ。
「今は。十個目が鳴ったら、もう一人に現在音を渡す」
能力の限界を隠さず先に役目を分ける。それは、全部を一人で聞こうとしていたころにはできなかった返事だった。
甲板の後ろで、ザンバが椅子の脚を九転脈輪へ引っかけていた。
灰色の旗には、黒い点から九本の線が伸びている。
九本目は一度後ろへ戻り、別の分岐から先へ続いていた。
「三度、雨を追うなと言った」
「俺には?」
「主にお前へ」
「聞いてない!」
「知っている」
ザンバは鈴束を見る。
黒い機巧腕は椅子の脚を輪へ固定したまま、細かく震えていた。強い標力の前では、もうない指が旗竿を握る幻肢痛が戻る。ザンバは壊すための右腕で輪を押さえ、生身の左手で椅子の留め具を一段だけ緩めた。逃げるためではない。自分が動けなくなったとき、ほかの三人が椅子ごと退路を選べるようにするためだった。
「十個目が濡れている」
ナギが振り向いた。
空だった透明な受け皿に、一滴だけ水がたまっている。
雨は上へ流れている。
なのに、その一滴だけは落ちずに残った。
小さく震える。
ちりん。
初めて聞く音だった。
透明な受け皿は、一度鳴ったあと黙った。
ナギはすぐに手を伸ばさなかった。
鈴へ触れる前に、青い帳面を開く。
「時刻。現在位置。雨の向き。ほかの九音」
「先にもう一回鳴らせ!」とカナタ。
「触ったら、私の音が混じる」
「鳴らないかもしれないぞ」
「だから記録する」
ナギはすぐに「返事」と書かず、空欄の横へ小さな石を一つ置いた。初めて聞く声ごとに拾う石。名を確かめるまでは、石にも名前を刻まない。
一拍。二拍。五拍。
待つあいだ、カナタの右足がもう船首へ出ていた。ナギはその靴先を見てから、透明な受け皿へ問いを送る。
ナギは受け皿の縁へ耳を近づけた。
水の中に、細い音が何本もある。
一つは、雨匙が器へ当たる音。
一つは、十まで数える子どもの声。
一つは、途中で切れた警鐘。
最後に、遠くから誰かが呼んでいる。
『……一滴、足りない』
「人だ!」
カナタが受け皿へ顔を近づける。
ナギが額を押し返した。
「近い!」
「誰だ!」
「分からない」
「返事する!」
「今いる場所を先に」
ナギは帆柱を五つ叩いた。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
「第一歩号。今、ここ」
透明な水滴が震えた。
返事は一つではなかった。
ちりん。
小さな雨匙。
ごおん。
途中で切れる警鐘。
そして、少女の声。
『そこ、どこ?』
「空!」とカナタ。
「広すぎる!」とナギ。
「昇る雨の中!」
『どの雨?』
「雨に種類があるのか!」
『あるよ!』
少女の返事が、今度ははっきり届いた。
『苗雨? 薬雨? 響雨? 余滴?』
「最後!」
「どうして分かるの?」とルゥ。
「俺たちは余る!」
「胸を張らないで!」
ナギは雨の音を一つずつ聞いた。
船腹を包む水の中には、土の匂いがない。
薬草の苦みも。
塩気も。
金属を冷やした響きもない。
代わりに、九つの連標網の音が薄く混じっている。
「響雨に近い。でも、いろんな場所を通った水」
『じゃあ、十ノ雨桁へ来る雨!』
少女の声が急に大きくなる。
『空枡へ入る前に、離れて!』
「空いてるなら入れる!」
『船は一滴じゃない!』
「大きい一滴!」
『数え方の問題じゃない!』
ルゥが前方を見た。
青空の中に、巨大な透明球が浮かんでいる。
逆雨が集まり、町ほどの水滴になっていた。
第一歩号は、その中心へまっすぐ吸われている。
「舵を切る!」
操舵輪が回る。
二枚の《両面折岸舵》が開く。
片方は昇る雨を掴み。
片方は、九転脈輪が拾った来た道へ向く。
前と後ろが引き合った。
雨球がさらに膨らむ。
「水没する!」
「水は入ってない!」
「心は沈んでる!」
「前にも言った!」
透明な受け皿が二度目に鳴る。
『右へ十歩!』
「どっちの右!」
『雨桁の右!』
「見えない!」
『じゃあ、私の声へ!』
カナタは白旗を抜いた。
「行き先、決まった!」
「少女へ道を出す前に船を止めて!」
「標術――《未踏路》!」
旗を雨の中へ突く。
「十番目の返事まで!」
白旗を握る位置が、いつもの中央から端へずれていた。後悔や恐怖を隠すときの持ち方だ。カナタは相手の声へ行くことと、相手が求めた方向へ行くことが同じではないと知っている。それでも体は先へ出る。
「声の手前まで!」とナギが言い直す。
「受け取った!」
光板の終点を、少女そのものではなく、少女が示した空きへ半歩ずらした。
一歩分の光板が生まれた。
雨に触れた瞬間、板は上へ折れた。