第218話 第一章「雨の向かうほう」後編
第一歩号の船首が乗り上げる。
船体は雨球ごと、空へ向かって跳ね上がった。
「近づいた!」
「だから離れてって言われたでしょ!」
透明な受け皿から、少女の絶叫が響いた。
『大きい一滴が来るぅぅぅ!』
第一歩号の周囲は、水だった。
透明な水の塊が船を丸ごと包んでいる。
それなのに、甲板へ水は入らない。
雨粒一つ一つが空へ向かって流れ、船体の外側で巨大な球を作っていた。
「息ができる!」
船首で、カナタが歓声を上げる。
「水没してない!」
ルゥが操舵輪へしがみつく。
「じゃあ、なんで水の中だ!」
「逆雨が船を包んでるの!」
「同じだろ!」
「船底が濡れてない!」
「俺は濡れた!」
「あんたは船首から顔を出したから!」
カナタの髪だけが雨球の外へ出ている。
逆雨は髪を一本ずつ空へ引き上げ、黒い角のように立てていた。
ナギは十個の鈴を胸へ抱え、透明な水膜へ耳を当てる。
「町がある」
「見える!」とカナタ。
「音の話!」
雨球の向こうに、浅い皿のような大地が広がっていた。
土から何千本もの川が立ち上がり、空へ流れている。
田畑から雨が昇り。
家々の屋根から水が離れ。
湖は表面から一枚ずつ剥がれるように、青い空へ消えていく。
大地の上には、十本の巨大な梁が階段状に浮かんでいた。
一ノ雨桁。
二ノ雨桁。
さらに上へ。
十ノ雨桁まで。
それぞれの梁には町と畑が載り、下面には何百個もの逆さ傘が開いている。
昇る雨を受け止め、上の桁へ渡す仕組みらしい。
「逆雨原《アマガエリ》」
ルゥが濡れない地図を広げる。
「十本の雨桁で、空へ帰る雨を数える町」
「着いた!」
「まだ雨の中!」
「町が見える!」
「空枡へ飛んでる!」
最上段の十ノ雨桁。
町の中央に、巨大な雨枡が十個並んでいる。
九つは青い水で満ちていた。
最後の一つだけ空。
第一歩号を包む雨球は、その空枡へまっすぐ昇っている。
「ちょうど空いてる!」
「船を入れる場所じゃない!」
空枡の横に、小さな傘舟が浮かんでいた。
上へ流れる雨を帆に受け、下面の細い板で雨桁へ張りついている。
舟の先端に、一人の少女が立っていた。
淡い水色の髪を、十本の細い三つ編みにしている。
十本は一から順に結ばれていなかった。今日は七本目から始まり、二、九、四と続いている。毎朝、違う順へ結ぶのがアマネの私的な決まりだった。右手に雨杓子を持ちながら、人を止める方向だけは左手で示す。細い一滴を見つける目は鋭いが、全体を確かめるときは必ず三歩下がる。笑えば、片方だけ小さく欠けた前歯が見えた。
右手に長い柄の雨杓子。
左手に空色の旗。
布には、小さな雫が十個並んでいた。
九つは白く光り。
十個目だけ、輪郭しかない。
少女は杓子を伸ばし、空へ逃げる一粒の雨玉を追っていた。
「あと一滴……!」
雨玉が杓子へ入る。
少女の顔が明るくなる。
「十滴目!」
直後、その背後から船一隻ぶんの雨球が迫った。
「大きい十滴目が来たぞ!」
カナタが叫ぶ。
少女が振り向く。
「それは一滴って数えない!」
「水だ!」
「船も入ってる!」
「四人も!」とナギ。
「椅子も」とザンバ。
「増やさないで!」
傘舟と第一歩号の進路は、完全に重なっていた。
「ルゥ、右!」
「右に九ノ雨桁!」
「左!」
「返雨塔!」
「下!」
「逆雨が上へ押す!」
「上!」
「空枡!」
「じゃあ前!」
「少女!」
カナタは白旗を振る。
「標術――《未踏路》! あの子の手前!」
一歩分の光板。
逆雨に触れ、空枡への坂へ折れる。
「道まで十滴目へ送られてる!」
少女が叫ぶ。
「便利!」
「今は事故!」
第一歩号は光の坂へ乗り上げた。
雨球ごと上へ跳ねる。
傘舟を越えた。
「助かった……」
少女が息を吐く。
その瞬間。
船尾の九転脈輪が、傘舟の雨綱へ絡んだ。
「戻り輪を止めて!」
「第九翼!」
「名前はどうでもいい!」
九転脈輪が来た道を拾う。
傘舟だけが後ろへ引かれた。
少女の体が空へ投げ出される。
「取る!」
カナタが船首を蹴る。
「来ないで!」
「任せろ!」
「何を!?」
「全部!」
「数を増やさないで!」
アマネは叫びながらも、空枡、傘舟、第一歩号、逃げる雨玉を一度ずつ数え直した。怖いと視野が中央へ狭まり、周囲の助けを「いない」と思い込む。その癖を知っているからこそ、声に出して周辺を数える。
「船一、舟一、人は――」
「四人と一人!」とナギ。
「椅子は数えない!」
ザンバだけが少し不満そうにした。
二人は空中で激突した。
カナタは少女を抱え。
少女は十滴目の雨玉を抱え。
ナギは少女の旗を掴み。
三人まとめて、光の坂へ落ちる。
雨玉が一度弾む。
二度。
三度目で、船首の二枚鍋蓋の間へ入った。
二枚が雨の重さを掴む。
「第六翼が十滴目を取った!」
「鍋蓋!」
少女とルゥの声が重なる。
二枚の鍋蓋が回転した。
第一歩号も。
雨球も。
傘舟も。
一回。
二回。
三回。
空枡の上で、巨大な渦ができた。
「赤い栓を閉じて!」
少女がカナタの襟を掴む。
「どれだ!」
「十個あるうち、一番右!」
「俺の右?」
「枡の!」
「回ってる!」
「じゃあ私の右!」
「お前も回ってる!」
「ナギ、聞いて!」
ルゥが叫ぶ。
ナギは目を閉じた。
十個の空枡から、水の音が返る。
九つは満ちた低音。
一つだけ、空の高い音。
「カナタの左! 三歩上!」
「俺の左なら分かる!」
「今、上下が回ってる!」
「じゃあ全部左!」
ルゥが銀鋲を二本投げた。
一本が操舵輪へ。
一本が空枡の赤い栓へ。
「《継ぎ路》!」
光糸を引く。
栓が半分閉じた。
間に合わない。
第一歩号を包む雨球は、船ごと空枡へ入った。
「入った!」
「船ごと数えないで!」
空枡の底が開く。
第一歩号は、集められた雨と一緒に十ノ雨桁の内部へ落ちた。
今度は本当に下へ。
「逆雨なのに落ちる!」
「枡の中だけ重さを返してる!」
「面白い!」
「前!」
透明な管の先に、十個の計雨輪が並んでいた。
一つ目を抜ける。
船首へ青い札が貼りつく。
――一。
二つ目。
――二。
三。
四。
ナギの鈴が輪を通るたび、九つの現在音と十番目の少女の声が別々に鳴った。
「十まで読める!」
カナタが胸を張る。
「数字だけ!」
「成長!」
「今、減速して!」
十個目の計雨輪を抜ける。
その先には、透明な袋の山があった。
一滴。
三滴。
九滴。
どれも青い札をつけられている。
――余滴。
「前、袋!」
少女が叫ぶ。
「見えてる!」
「止まって!」
「終路鐘!」
カナタが船首の鐘を引く。
から……。
最後まで鳴らない。
「なんで!」
「私は余滴蔵へ着きたくない!」と少女。
「私は修理桟橋!」とルゥ。
「私は今の返事を記録したい!」とナギ。
「俺は椅子へ戻りたい」とザンバ。
「俺は着きたい!」
「一人だけ!」
第一歩号は止まらない。
余滴袋の山へ船首から突っ込んだ。
一列目が弾ける。
二列目が空へ舞う。
三列目の袋が、船体へ雨を浴びせる。
最後は、柔らかな水袋の中へ深々と刺さった。
ぼふん、と青い霧が広がる。
しばらくして、余滴袋の山からカナタの腕だけが突き出た。
「着雨……!」
少女が隣から這い出す。
十本の三つ編みすべてに、小さな水袋がぶら下がっている。
「ここは、余りを置く倉庫!」
「雨の港みたいなもんだろ!」
「余滴を九百八十七袋、混ぜた!」
「水は混ざるものだ!」
「誰の雨か分からなくなった!」
ナギが青い帳面を拾い、濡れた頁を一枚ずつ確かめる。
「それは困る」
「お前まで!?」
「返事も、誰の声か分からなくなったら困る」
少女は細長い板を取り出した。
数字を書く。
「弁償」
「袋は柔らかいぞ!」
「数は重いの!」
少女の名は、アマネといった。
十五歳。
逆雨原アマガエリの《余滴拾い》見習い。
そして、第一歩号が混ぜた九百八十七袋を、もう一度一滴ずつ数え直す係だった。
「一、二、三、四……」
アマネは透明な雨匙で、床へ散った水を小さな枡へ戻している。
「十」
十滴たまると、枡の底が開く。
水は一本上の管へ吸い込まれ、大きな雨玉になった。
残ったのは三滴。
アマネは別の袋へ入れる。
「それも上へ送ればいいだろ」
カナタが言う。
「十滴ない」
「三滴ある」
「十滴で一雨」
「三滴も雨だ!」
「この町では、まだ余り」
「あと七滴足せばいい!」
「どこから?」
カナタは周囲を見る。
床に一滴。
「一つ!」
「四滴」
別の破れた袋から二滴。
「六!」
「それ、第三雨桁の薬雨」
「混ぜるな?」
「熱が出る」
「難しい!」
「数えず混ぜた人が言わないで!」
余滴蔵には、もう一人、数を戻している者がいた。
細身の少年。
濃い青の髪を短く切り、両耳に小さな計雨輪をつけている。
年は十七。
名をヒサメという。
余滴の《由来書き》見習いだった。
ヒサメは細縁の作業眼鏡を鼻梁へ押し上げ、袋を持つ前に必ず一度、耳の計雨輪へ音を通した。左手で札を書き、反復道具だけは右で扱う。片耳は高い音を拾いにくく、相手の口元と低い振動で補っていた。
自分の名を書く欄だけ、筆圧が薄い。どの雨にも出身を求める青年が、自分自身の出身札だけは空欄のまま持っていることを、アマネは知っていたが訊かなかった。
「第七百八十二袋。二ノ雨桁。飲雨。今朝。七滴」