第219話 第二章「余滴蔵」前編

ヒサメは袋を持ち上げる。

中に、透明な水が七滴。

「札と音が合わない」

ナギが言った。

ヒサメが初めて顔を上げる。

「音?」

「一滴だけ、鐘を通った」

ナギは袋へ鈴を近づけた。

六つの細い音。

最後に、短い終路鐘。

「双灯港の響雨が混じってる」

「外の港の?」

「たぶん、連標網を通った雨」

ヒサメは札を裏返した。

裏には小さな空欄。

――由来不明。

「そこへ書く」

「飲雨じゃないのか?」とカナタ。

「飲めるかもしれない」とヒサメ。

「じゃあ飲雨!」

「由来が分からないまま飲ませない」

「一滴で?」

「一滴でも」

アマネが雨匙をカナタの鼻先へ向ける。

「数は、同じに見えるものをまとめるためだけじゃない」

「じゃあ何のためだ」

「違うものを、間違えて混ぜないため」

ナギが頷く。

「返事と同じ」

カナタは九百八十七袋を見る。

「全部、水だぞ」

「全部、声でもある」とナギ。

「雨が話すのか!」

「さっき話したでしょ」

「アマネが話した!」

「雨が運んだ」

第一歩号の船腹では、ルゥが濡れた板を外していた。

余滴袋が緩衝材になったため、船体の傷は少ない。

帆が一枚濡れ。

八脚雲着輪の三本が、雨枡の形に曲がり。

九転脈輪には、十枚の雨札が貼りついている。

「一から十まで、全部同じ場所へ戻ろうとしてる」

ルゥが札を一枚ずつ剥がす。

「輪が重い原因はこれね」

「十番目の翼になった!」

「札!」

「十枚!」

「翼は増えない!」

「でも十番目だ!」

「まだ早い!」

最後の札を剥がした瞬間、九転脈輪の内側から一滴の雨が落ちた。

下へ落ちず、空へ昇る。

ナギの透明な受け皿へ入った。

ちりん。

アマネが振り向く。

「その鈴」

「まだ名前がない」

「余響鈴に似てる」

「余る音を入れる鈴?」とカナタ。

「余ったんじゃない」

アマネの返事は早かった。

「まだ、入る場所が決まってない音」

ヒサメが濡れた弁償板を見る。

「九百八十七袋。由来を直せば、三日」

「船の修理は半日」とルゥ。

「じゃあ半日で全部!」

「数える人は?」とナギ。

「俺!」

「一から十までしか読めないでしょ」

「何度も数える!」

「同じ袋を二回数える」

「印をつける!」

「何て書く?」

「カナタ!」

「全部あんたの雨になる!」

ザンバは濡れた椅子を日向へ置いた。

「三日働け」

「世界の果てが遠ざかる!」

「もう越えた」

「次の世界の果て!」

アマネは初めて少し笑った。

「じゃあ、まず一滴目から」

「九百八十七袋だぞ!」

「数えたの、私だから」

「本当に覚えてるのか?」

「数える仕事だから」

アマネは言い終えて、枡から三歩下がった。九百八十七という全体をもう一度見るためだ。端の破れ袋を指さし、「ほかは?」と付け足す。数え終わるたびに必ずそう訊く。最後の一つを「ない」と決めるのが、彼女は何より怖かった。

余滴を数え直す作業は、十滴を一つにする仕事ではなかった。

一滴ごとに、来た場所を探す仕事だった。

苗の匂いがする水。

薬草の苦み。

塩の白さ。

炉の鉄粉。

染め布の色。

遠い声の震え。

同じ透明でも、通ってきた道が違う。

「第十二袋」

アマネが雨匙を持ち上げる。

「三滴。匂いなし。音あり」

ナギが鈴を近づける。

五つの小さな打音。

「無灯泊」

ヒサメが札へ書く。

――響雨。外来。現在地報告を含む。飲用保留。

「飲めるだろ」

カナタが匙へ口を近づける。

ルゥの工具が額へ飛んだ。

「保留って読めない?」

「保しか!」

「一文字増えた!」

「成長!」

十三袋目。

緑の雨。

ミズハという雨薬師が取りに来た。

三十代半ば。

右腕に薬雨焼けの白い斑点がある。

透明板の片眼鏡を片方だけにかけ、霧の中で二重になる光を補っている。利き手は左。患者の脈を取る時だけ右を使うのは、家で直された古い作法だった。掌には左右で形の違う胼胝。右腕の白斑は隠さず、薬匙を患者ごとに三回叩いてから配分を決める。

自分の脈だけは数えない。額に汗があるのをナギが見ても、ミズハは「あとで正しい名前を付ける」と笑った。それが彼女の、体調を記録から外すときの言い訳だった。

「これは第三雨桁の鎮熱雨」

匂いを確かめる。

「七滴しかない」

「十になるまで待つ」とヒサメ。

「患者は?」とカナタ。

「今朝から熱が三人」

「使えばいい!」

「一人へ二滴。残り一滴」

「三人目が少ない!」

「薄める」

「飲雨を足す?」

「効き目が変わる」

ミズハは七滴を見た。

「一人へ三滴。二人へ二滴。重い人から」

そのうち一人は、ミズハが幼いころから知る患者だった。親しい者へ一滴多くしたい気持ちがないわけではない。だからこそ、彼女は体重、熱、呼吸数を札へ書き、自分以外の薬師にも見せる。

「私が決めた、で終えない」

配分責任の署名は、権威の印ではなく、あとから問い直せる入口だった。

「平等じゃない」とヒサメ。

「同じ量が、同じ助けにはならない」

ミズハは札に自分の名を書く。

――使用者、ミズハ。配分責任。

「十になってないぞ」

カナタが言う。

「必要な数は、患者が決める」

「町の決まりは?」

「あとで怒られる」

「手伝う!」

「薬を運ぶだけ」

「得意だ!」

「壊さずに」

「少し得意!」

ミズハは少し考え、カナタへ小瓶を三つ渡した。

ナギが宛先と返事を取る。

カナタは一歩分の未踏路を出そうとした。

ルゥが袖を掴む。

「町の道を覚えてから」

「三つ先だろ!」

「雨桁が上下に動く」

「見える!」

「昨日の橋は今、上」

「飛ぶ!」

「薬瓶!」

「歩く!」

カナタが走り出す。

十五呼吸後。

同じ余滴蔵の反対側から戻ってきた。

「道が輪になってる!」

「計雨路を一周したの」とアマネ。

「先に言え!」

「三回言った」

「俺には?」

「主にあなたへ」

「聞いてない!」

「知ってる」

ザンバが椅子から片目を開く。

「うつったな」

「最悪」とルゥ。

作業は日暮れまで続いた。

九百八十七袋は、九百八十七のままではなかった。

同じ雨桁へ戻せるもの。

別の日の同じ雨と合わせるもの。

由来が分からず保留するもの。

混ぜると危険なもの。

もう使えないもの。

誰かが受け取りを待っているもの。

ヒサメは札を七種類へ分けた。

八つ目を作るアマネを見て、ヒサメの右肩がわずかに下がった。判断保留を「仕事をしていない」と責められるのが、彼は苦手だった。規格へ押し込めれば早い。だから一瞬、由来不明の三袋を一番近い響雨へ入れかける。

左手が止まる。

「今のは、僕が急いだ」

自分の失敗を一文だけ書き、言い訳は次の日へ回した。

アマネは八つ目の箱を作った。

――まだ決められない。

「それ、分類じゃない」とヒサメ。

「分からないものを、分かった箱へ入れないための箱」

「箱が増える」

「増やす場所があるなら」

余滴蔵の壁際を見る。

もう空きは少ない。

「なかったら?」

アマネは答えなかった。

カナタはその沈黙を聞いていなかった。

「九百八十七!」

最後の袋を棚へ置く。

「終わった!」

「由来の確認が」とヒサメ。

「終わってない!」

「今のは七番目を使うところじゃない」とルゥ。

「じゃあ、ここまで!」

「作業の区切り」

「同じだ!」

「違う!」

ナギの透明な受け皿が、また一滴鳴った。

今度は、遠いカゲノハ村の六つ鐘が混じっていた。

余滴蔵の外へ出ると、逆雨原の仕組みが見えた。

十本の雨桁は、巨大な階段のように空へ続いている。

一ノ雨桁は大地すれすれ。

そこから順に高くなり、十ノ雨桁は雲海の手前にある。

各桁の下面では、何百個もの逆さ傘が雨を受けていた。

十滴たまる。

小さな枡が傾く。

上の大きな枡へ、一雨ぶんを渡す。

また十。

さらに上へ。

十ノ雨桁まで届いた水だけが、《返雨塔》で向きを変え、下向きの雨になる。

その雨が、十本の桁と大地の畑を潤す。

「一滴が、十回で大きくなる?」

カナタが首を傾げる。

「十滴で一雨。十雨で一流れ。十流れで一雲」

アマネが答える。

「何滴だ?」

「たくさん」

「最初からそう言え!」

「数え始めたの、そっち!」

逆雨原では、何でも十個ずつだった。

雨傘は十本一組。

水筒も十本。

市場の焼き雲豆も、一袋に十個。

家の番号は十ごとに一段上がり。

学校の机も十脚一列。

昇降箱も十人乗り。

「便利だな!」

カナタが言う。

「数えやすい」

アマネは答えた。

「数えやすいものだけなら」

一ノ雨桁の市場で、カナタは焼き雲豆の屋台を見つけた。

「十一個くれ!」

店主は十個入りの袋を一つ渡す。

もう一個を手に取る。

少し考え。

空へ投げた。

逆雨に乗って、豆が上へ飛ぶ。

「俺の一個!」

カナタが跳ぶ。

白旗を伸ばし、豆を取る。

「十一個目は余りだよ」と店主。

「食える!」

「十個で一袋」

「袋を増やせ!」

「次の十個がそろったら」

「今、一個ある!」

「九個足りない」