第220話 第二章「余滴蔵」後編

「俺の腹には入る!」

「商品札には入らない」

「腹のほうが広いぞ!」

「そこを競わないで」

ルゥが十一個目の代金を払う。

隣では、十人用の長椅子に十一人家族が座ろうとしていた。

老人。

夫婦。

七人の子ども。

最後に、十一歳の少女。

栗色の髪を二つに結び、透明な雨靴を履いている。

名をコナミという。

十一歳。札の細字を読むときは、紙を横へ小さく揺らす。静止した文字だけが目から抜けやすいからだ。透明な雨靴は左右で減り方が違い、歩いた方向が靴底に残る。前腕には古い刃傷があり、力加減を目で確かめるため、十一個目の豆も両手で胸へ寄せて持った。

余りとして大きな席を欲しいわけではない。自分だけの小さな棚を一段、誰にも勝手に整理されず持つことが、彼女のひそかな望みだった。

彼女が座ると、椅子の端に赤い《余》が浮かんだ。

座面が少し傾き、コナミだけを押し出す。

「また!」

コナミは慣れたように立ち上がる。

祖父のクヌギが、自分の席を半分空けた。

片脚を木の義足にした老人だった。

クヌギは七十歳。木の義足の側へ体重を移す前、必ず袖口を内側へ一度折る。幼いころ左利きを右へ直されたが、本気で怒ると杖も豆袋も左へ戻る。義足の内側には、昔の安全縄痕と同じ輪を刻んであった。

「座れば戻る」

眩暈を隠すときの決まり文句を言い、半席を空ける。孫へ席を渡すことが優しさである一方、自分が譲れなくなった日、コナミがまた押し出されることを彼は誰より怖がっていた。

「ここへ」

二人で一席へ座る。

椅子は十人と数えた。

「十一人いるぞ」とカナタ。

「札は十席」とコナミ。

「お前が見えてない?」

「見えてるから余る」

カナタは長椅子へ白旗を突こうとする。

ルゥが止める。

「今、道を増やしたら市場ごと傾く」

「一人ぶんだぞ!」

「一人ぶんだから、作るなら椅子を作る」

「道じゃない?」

「道で全部解決しない」

イツキが笑った。

「未踏路士は、椅子も道にするのか」

「座るまでの道!」

「座ったあとは?」

「……椅子」

「少し賢くなった」

クヌギは笑ったが、一度だけ回数が少なかった。冗談へ変えてごまかすときの笑い方だ。半席へ体を折りたたむことを制度の解決にはしたくない。

「今日は座れた。明日も二人を一人へ数えろ、とは言わんよ」

温厚な老人の声から、最後の一語だけ拍が外れた。

アマネは市場の屋根を見る。

十年前の補修跡。

十一枚目の板だけ材質が違い、端へ追いやられている。

「昔は、一個ずつ売ってた」

「なんでやめた?」

「十年前の塔事故のあと、全部を十単位へそろえた」

「事故と豆に関係ある?」

「町は、余りが塔を壊したって決めた」

十ノ雨桁の中央で、鐘が鳴った。

ごおん――。

十本の雨桁が一斉に震える。

町中の人々が手を止めた。

逆雨の流れが、一呼吸だけ強くなる。

畑から水が抜け。

土が白く乾く。

遠くの湖面が、目に見えて下がった。

「早い」

アマネの顔が強張る。

《天攫潮》が近い」

「何だ、それ」

ザンバが訊く。

「十年に一度、空が雨を強く引く日」

雲海の奥に、青黒い渦がある。

ゆっくり回りながら、逆雨原の水を吸っていた。

「いつ?」とナギ。

「二日後のはずだった」

「はず?」

「今の鐘は、明朝までって音」

ナギは耳を澄ませる。

鐘の余韻は一つに聞こえる。

その下で、十本の雨桁が違う速さで震えていた。

「十か所、同じ危険じゃない」

「何が違う?」とルゥ。

「一ノ桁は土が乾いてる。六ノ桁は響雨が増えてる。九ノ桁は貯水が重い」

アマネがナギを見る。

「聞き分けられるの?」

「返事が違うから」

十ノ雨桁から、十本の青い橋が下りてきた。

先頭に、一人の女がいた。

女は四十歳ほどだった。

長い水色の髪を、一本の太い編み紐にしている。

紺青の外套。

背中の旗には、十個の同じ大きさの雨枡。

カサネは話す前に十本の指を一度ひらき、左手から閉じた。親指の爪には縦割れを守る薄布が巻かれている。

青い強光が差した瞬間だけ、出口に近い足へ重心を移し、十まで数えた。髪の太い編み紐へ伸びた手は、十一回目の手前で止まる。

枡は一本の太い線でつながり、中央の大きな雫へ集まっている。

「雨算長カサネ」

アマネが小さく言った。

カサネは市場を見渡した。

十一個目の豆。

十人椅子へ二人で座るイツキとコナミ。

余滴袋を運ぶヒサメ。

最後に、空へ刺さる第一歩号を見る。

「空の岸を越え、星脈市を戻した未踏路士と聞いた」

「おう!」

「なぜ、その状態で誇れる」

「十ノ雨桁まで入った!」

「空枡へ船ごと」とザンバ。

「噂より大きな一滴だな」

「褒めてる?」

「被害を数えている」

「厳しい!」

カサネの視線がナギへ移る。

「響路士」

「ナギ」

「十鐘を一つへそろえられるか」

「音をそろえるだけなら」

「意味も」

「それはできない」

カサネの眉がわずかに動く。

「十本の雨桁へ、同時に命令を送る必要がある」

「同時と、同じ返事は違う」

「緊急時だ」

「だから、どこが返事してないか残す」

ナギは青い帳面を閉じない。

カサネは次にルゥを見る。

「機巧師。十本の雨路を返雨塔へ結べるか」

「別々なら」

「最後は一つへ」

「中身による」

ザンバへ。

「分岐士。違う水質を十本へ分けられるか」

「分けられる」

「最後は一つへ集める」

「なら、俺の力を借りる意味はない」

「途中までは要る」

「途中だけ使う者は、終わりも勝手に決める」

最後に、カナタの白旗。

「未踏路士。失われた十段目の雨路を作ってほしい」

「いいぞ!」

即答。

ルゥが十一個目の豆を投げた。

カナタの額へ当たる。

「話を聞いて!」

「条件は?」

「順番が逆!」

カサネは返雨塔を示した。

塔の内部には、十個の巨大な雨枡が縦に並ぶ。

最上段だけが空。

「天攫潮が来れば、逆雨原の水は一刻で雲海へ持っていかれる」

「取り返す!」

「先に落とす」

カサネは紺青の旗を掲げる。

「十本の雨桁から水と標力を集め、《大返雨》を作る。空へ昇り切る前に、地上へ返す」

「全部の雨を一つに?」

「ああ」

「全員へ降る!」

「正式な十雨区へ」

アマネの声が低くなる。

「余滴窪は」

「閉じる」

市場の音が止まった。

コナミが、十一個目の豆を両手で持っている。

「人がいる」

「避難枡へ移す」

「十人一組の?」

「ああ」

「最後に残る人は?」

カサネは答えない。

「また、余りにするの」

「数えきれぬものを入れて、全体を失うわけにはいかない」

「数えないの間違いでしょ」

「同じだ」

「違う!」

二人の声がぶつかる。

カナタは見比べた。

「親子?」

「叔母と姪!」

ルゥが市場の説明札を指す。

「今、書いてある!」

「髪の色が同じだ」

「そこだけ合ってるのが腹立つ!」

カサネの表情は変わらない。

「十年前、アマネの母サヤは、余滴を返雨塔へ入れた」

アマネの肩が固くなる。

「塔は溢れ、三本の雨桁が落ちた。サヤも帰らなかった」

「母さんは余滴を入れたんじゃない」

言い切った直後、アマネは完全に黙った。扉三つ。市場の出口二つ。椅子にいる人十一。音を一つずつ数え直す。母の無実を証明したいあまり、別の事実まで歪めることを自分が怖がっているからだ。

「……全部は、まだ見てない。でも、その記録だけで母さんを原因にしないで」

最初の断定を、自分で現在の範囲へ戻した。

「記録にある」

「記録を書いたのは叔母さん!」

「生き残った者が書くしかなかった」

カサネの旗が揺れる。

「だから、今度は一滴も余らせない」

「余らせないって、捨てることでしょ!」

「九割を救う」

カサネの手が、外套の内側にある薄い名簿へ触れた。だが、この場では出さず、「要するに」とだけ言って議論を一つの数字へ戻した。

「残りは数字じゃない!」

アマネは踵を返した。

十本の三つ編みが、別々の方向へ跳ねる。

足元の雨札が光る。

――余。

道が彼女を余滴蔵の方向へ戻す。

アマネは札を踏みつけた。

割れない。

カサネはカナタたちへ向き直る。

「明朝、十ノ雨桁で《十重返雨式》を行う」

「決まりだ!」

「カナタ」

アマネが振り返る。

「九番目の旗で、間違ったら戻れるようになったんでしょ」

「おう!」

「始める前に違うって分かってても、進むの?」

「まだ違うって決まってない」

「余りが出る」

「俺が全部つなぐ」

「一つに?」

「一つの大きな雨なら、全員に降る!」

アマネの顔から怒りが消えた。

代わりに、少し寂しそうな色が浮かぶ。

「十本を一つにしたら、どの雨だったか分からなくなるよ」

「雨は雨だろ」

「返事も、全部声なら一つでいい?」

ナギがカナタを見る。

カナタは答えられなかった。

十ノ雨桁で二度目の鐘が鳴る。

ごおん――。

雲海の青黒い渦が、先ほどより大きくなっていた。