第221話 第三章「十本の雨桁」前編

ルゥはすぐに返雨式の手伝いへ入らなかった。

「先に、十本を見る」

「塔は上だぞ」とカナタ。

「町は下にもある」

「十本全部?」

「全部って言ったでしょ」

「俺の言い方がうつった!」

「意味は違う!」

ナギは連標網の鈴束を持つ。

ザンバは椅子を第一歩号へ残した。

「置いていくのか!」

「町は歩ける」

「椅子も歩かせろ!」

「お前が運べ」

「重い!」

「本人より動かない」とナギ。

「誰が教えた!」

「カナタ」

「うつった!」

一ノ雨桁では、苗雨が畑から空へ昇っていた。

土の養分を含む薄茶色の水。

下へ返すと芽が伸びる。

二ノ雨桁では、飲雨。

透明だが、十日寝かせて重さを抜く必要がある。

三ノ雨桁は薬雨。

緑、白、紫。

混ぜ方を間違えると薬にも毒にもなる。

四ノ雨桁は炉雨。

鍛冶炉を冷やした熱い水が、逆雨になって上へ戻る。

五ノ雨桁は染雨。

布の色を記憶し、下へ降ると同じ色をもう一度出す。

六ノ雨桁は響雨。

鐘と声を水の中へ残す。

ナギの透明な受け皿が、一番よく鳴る場所だった。

七ノ雨桁は塩雨。

雲魚の保存と、岸の塩田。

八ノ雨桁は灯雨。

夜だけ青白く光り、子どもたちの帰路を照らす。

九ノ雨桁は眠雨。

すぐには使わず、重さと不純物を沈めるための町。

十ノ雨桁は返雨。

九本から受け取った水を数え、行き先へ落とす。

「全部、雨だ」とカナタ。

「全部、同じ使い方?」とルゥ。

「違う」

「じゃあ同じ雨ではない」

「でも一つにしたあと、分ければいい」

「何を目印に?」

「色!」

「飲雨は透明。響雨も透明。寝かせた薬雨も透明」

「匂い!」

「風邪薬は匂いを消す」

「音!」

「そこはナギ」

ナギは六ノ雨桁の水へ耳を当てる。

十人の声が入っていた。

一人は子ども。

一人は橋番。

一人は遠い旅人。

返雨塔の計雨輪を通ると、全部が同じ一音になる。

ごおん。

「塔は、量だけ数える」

ナギが言う。

「誰の声かは数えない」

六ノ雨桁の鐘守が頷く。

「緊急報告には便利だ。十声たまれば、一報になる」

「十一声目は?」

「次の十声へ」

「一人だけなら?」

「次を待つ」

「危険って言ってても?」

鐘守は答えなかった。

九ノ雨桁では、眠雨が大きな池へためられていた。

池の端に、三滴だけの黒い水。

札には《次の夜まで》とある。

カナタが覗く。

「少ない」

「三滴で、八ノ桁の灯り一つを一晩保てる」とアマネ。

「十まで待たない?」

「待ったら今夜が暗い」

「町の決まりは?」

「使う人が責任札を書く」

「余りでも使える!」

「全部じゃない」

アマネは池の奥を見る。

「使い方が分かる雨。受け取る人がいる雨。保つ場所がある雨」

「分からない雨は?」

「余滴蔵」

「いっぱいだぞ」

「うん」

その返事には、カサネへ向けた怒りだけではないものがあった。

残す場所がなくなる怖さ。

残したものを、誰が次へ渡すのか分からない不安。

アマネは一滴だけ残った器へ蓋をしなかった。閉じれば「終わった」と見なされる気がするからだ。だが、開けた器は埃も危険も受け入れる。守るための癖が、残した雨を傷めることもある。

ヒサメが無言で薄布をかけ、札へ《未封・観察中》と書いた。蓋ではない。放置でもない。アマネは反発せず、受取欄へ自分とヒサメの名を並べた。

カナタはまだ、その違いを言葉にできなかった。

十ノ雨桁へ着くと、カサネが待っていた。

「見終えたか」

「十本、違う」とカナタ。

「だから《同量》で器をそろえる」

「中身は?」とルゥ。

「大返雨のあと、各雨桁で調整する」

「混じった由来をどう戻す」

「緊急時に、すべての由来は追えない」

ナギが言う。

「追えないと、追わないは違う」

カサネは十本の雨桁を見下ろした。

「明朝までに、町を乾かさない方法がほかにあるなら示してくれ」

風が強くなる。

逆雨が、雲海へ引かれていく。

誰も、すぐには答えられなかった。

十本の雨桁には、それぞれ役目があった。

だが、役目と役目の間を歩く者について、返雨塔の図には何も描かれていなかった。

「待ってぇぇぇ!」

八ノ雨桁の端で、少女が叫んだ。

十本の細い管を背負い、肩から色の違う袋を下げている。片方の靴は苗雨で緑に染まり、もう片方は炉雨の煤で黒い。腰には小さな鐘が十個。どれも違う音だった。

片方の眉の上に古い傷があり、その側の上方だけ見えにくい。高い雨桁では首ごと向けて確かめる。片手にだけ手袋。十鐘が同時に鳴ると耳鳴りと吐き気が来るため、片耳を塞ぎ、必要な一本だけを選ぶ。

「食べれば治る」

そう言うときほど限界が近い。ナギは返事を急がず、ツグミが片耳栓を替えるまで板へ手を出さなかった。

少女の前を、第一歩号の修理用板が逆雨に乗って昇っていく。

「取る!」

カナタが白旗を抜いた。

「取らないで!」と少女。

「落ちるぞ!」

「上がってるの!」

「同じだ!」

「違う!」

光板を一枚。

カナタは空へ昇る板の横へ跳び、片手で掴んだ。

その瞬間、板に結ばれていた十本の細管が一斉に張った。

一ノ桁の苗雨。

三ノ桁の薬雨。

四ノ桁の炉雨。

六ノ桁の響雨。

別々の重さが、カナタの腕へ集まる。

「重い!」

「だから、一つだけ取らないで!」

少女は十個の鐘を順番に鳴らした。

ちりん。

からん。

こん。

それぞれの管が少しずつ緩み、板は八ノ雨桁の受け台へ下りた。

カナタも板の上へ落ちる。

「助かった!」

「助けたの、私!」

「俺も板を取った!」

「取らなければ普通に着いた!」

少女は細長い請求板を出した。

「弁償」

「何も壊してない!」

「十管の順番が変わった」

「順番だけ?」

「薬雨を炉へ送ったら、工房が寝込む」

「重い!」

「さっき自分で言ったでしょ!」

少女の名はツグミ。

十六歳。

《渡雨使》だった。

どの雨桁の者でもない。

一ノ桁で苗の具合を聞き、三ノ桁へ薬雨を運び、四ノ桁から修理部品を受け取り、六ノ桁で返事を預かり、余滴蔵へ空袋を返す。

寝床は六ノ桁。

食事札は二ノ桁。

母は四ノ桁。

弟は八ノ桁。

どこにも属さないと胸を張る一方、母が炉仕事のあと何を食べるか、弟が最近どの靴を嫌うかを、ツグミは知らなかった。英雄のような「渡雨使」の話ではなく、格好悪い家族の日常を聞きたい。けれど、一つの桁へ固定されるのが怖くて、帰る食卓まで毎日変えている。

自由は、寂しくないことと同じではなかった。

仕事が終わる場所は、毎日違った。

「返雨評議では、何ノ桁の席に座るの?」

ナギが訊いた。

「座らない」

「どうして」

「席は十脚だから」

ツグミは十個の腰鐘を示す。

「私は、雨桁じゃなくて、間を歩く仕事」

「十一番目?」とカナタ。

「番号をつけたら、また一つの桁にされる」

「じゃあ、何番目だ」

「今いる場所」

ナギが少し笑った。

「それなら、聞ける」

ルゥはツグミの背の管を一本ずつ調べた。

長さも太さも違う。

同じ規格へ替えれば運びやすく見える。だが、薬雨は細い管でなければ濃さが変わる。炉雨は熱を逃がす太い管が要る。響雨は曲げすぎると声が潰れる。

「十重返雨式では、全部同じ管へつなぐって言ってた」

ルゥが言う。

「式の間だけ」とツグミ。

「戻す順番は?」

「雨算長の表では、一から十」

「仕事の順番は?」

ツグミは腰鐘を鳴らした。

四。

一。

六。

三。

「今日なら、これ」

「毎日違う?」

「苗が病気になれば三が先。炉が割れれば四。迷子が出たら六」

ザンバは返雨塔の大きな図を見上げた。

十本の太い線。

線と線の間は、白い。

「地図は、場所を描く」

灰旗の石突で、白い間を叩く。

「人は、その間も歩く」

「描けばいい!」とカナタ。

「全部?」とルゥ。

「ツグミの道を!」

「明日は変わる」

「明日、描き直す!」

「毎日?」

「できるまで――」

ツグミが十個の鐘を一度に鳴らした。

ばらばらの音が、カナタの言葉を止める。

「私の道を、一枚に完成させないで」

ツグミは言った。

「今日の行き先を書いて。明日は、明日聞いて」

ナギは青い帳面を開いた。

――現在地、八ノ雨桁。

――次、余滴蔵。

――その次、未確認。

――受取人、アマネ。

「これでいい?」

「いい」

ツグミは最後の袋を開いた。

中には、一滴も入っていない小瓶があった。

「空だぞ」

「今から受け取る瓶」

「何を?」

「十に満たない、今日の一滴」

ツグミは板を担ぎ直し、雨桁の間へ伸びる細道を歩き始めた。

十本の大きな道の、どれにも完全には属さない道。

返雨塔の図にはなくても。

そこには、毎日誰かの足跡があった。

返雨塔の会議室には、椅子が十脚あった。