第223話 第四章「連標網の十番目」前編

記雨を集め終えたころ、カゲノハ村から現標鐘が鳴った。

五つ。

間を一つ空けて、六つ鐘。

今いる者からの連絡と、一日を数える現在の音。

「現在」

ナギは右の鈴だけを開いた。

左の閉じた鈴には、アステルの《帰還路》に残る固定記録が入っている。二つを同じ道へ流さないため、机の端と端へ離してあった。

「第一歩号。現在、逆雨原」

『受け取った』

アカリの声。

響雨の膜へ、カゲノハ村の北発着場が映る。

出航の日より枝が長い。

石の桟橋が二本。

旅人宿。

配達小屋。

荷下ろし台。

その中央に、白い内輪と黄緑色の外輪を重ねた機巧が立っていた。

「帰還門!」

カナタが身を乗り出す。

『外輪の試験台』

「帰れる?」

『近くからなら』

「近くってどこだ!」

『村の外へ出て、同じ日に戻るくらい』

アカリは黄緑色の小旗を掲げた。

左手で旗を持ち、右手で受取札を渡す。書く手と渡す手を分けるのが、アカリの私的な規則だった。人名札の角だけは丸く切ってある。道具や荷物と同じ鋭い角へ、人の名を置かないためだ。

映像の中で一度だけ壁へ手をついた。冷えと過労で出る立ちくらみ。すぐ「手順の中に休憩はない」と言いかけ、マツバ婆の咳払いに負けて、自分の体調も現在図の端へ書き足した。

宛名札の紋。

標術《宛標》。現在図に名前があり、本人の返事がある相手へ、届け先の方角だけを示す力。

『私が外輪の外まで出て、セノを受取人にした試験は成功した。三日だけ村を離れた商人も、今の宿へ着けた』

「完成!」

『一年以上帰っていない人では、まだ試してない』

「同じだろ!」

『同じじゃない』

アカリの返事は早かった。

《宛標》は道を作らない。古い家を強く覚えてる人が、今の宛先より昔へ引かれたら、外輪だけで直せるか分からない』

カナタは白い環を見る。

内輪には、アステルの帰還路。

外輪には、今日の地図。

二つの間に、一歩ぶんの空白。

「第一歩号で試せばいい!」

『第一歩号はまだ帰るって決めてない』

「試験だけ!」

『長く離れた人ほど危ない試験を、本人がいないまま成功にしない』

ルゥが頷いた。

「第一歩号の欄は?」

アカリは十一枚目の現在図を広げた。

右上。

――出航後、一年と八か月、二日。

北発着場の横に、帰還門の試験欄。

――短期不在、二件成功。

――長期不在、未試験。

――第一歩号、試験不能。

到着者の欄には、役目だけが書かれている。

名前の欄は角を丸く切った白札のまま。役目が同じでも、帰ってくる者が同じとは限らない。アカリはカナタの名を先に書きたくなる左手を、へこんだ薬箱の角へ置いて止めた。待つことと、決めつけることを同じにしないためだった。

船長。

航路機巧師。

響路士。

監視役。

名前は空白だった。

「名前、知ってるだろ!」

『到着した人を書く』

「俺たち!」

『帰る日まで、同じ四人?』

カナタの口が止まる。

ルゥ。

ナギ。

ザンバ。

今は同じ甲板にいる。

けれど、別の道を選んでも、いなくなるわけではない。

「今は四人」

『受け取った』

「帰るときも、できれば四人!」

「お願い?」とルゥ。

「お願い!」

アカリは名前を書かなかった。

願いと現在を同じ欄へ入れない。

地図の下には、ルゥの古い作業机が小さく描かれていた。

「私の机」

『今はセノの仕事場』

「工具棚は?」

『右二段は空けてある。左はセノ。隣に新しい台の印だけつけた』

「作ったの?」

『まだ。帰った人と、今使ってる人で決める』

以前なら、ルゥは返せと言ったかもしれない。

今は図を長く見たあと、短く答えた。

「それでいい」

ナギが新しい鐘台を指す。

「これは?」

『響路士席。使う日に、使う人が座る』

「私の家じゃない」

『場所は役目。住むかどうかは別』

「受け取った」

アカリは現在図を閉じず、カナタを見る。

『逆雨原の次は?』

「千声湖か、伏流森!」

『その次』

「その次の場所!」

『帰るのは?』

「……そのあと」

言ってから、カナタは余滴蔵の棚を見た。

次の十滴がそろったら。

その次。

今は決めないものを、いつまでも同じ箱へ送る言葉。

アカリは責めなかった。

『受け取った』

「帰れって言わないのか」

『決めるのはカナタ』

「待ってる、とか」

『帰還門は空けてる。でも村は止めない』

「分かってる」

『本当に?』

カナタはすぐに返せなかった。

閉じた左の鈴から、古い声が漏れる。

『たまには帰れ』

「父ちゃん」

ナギが鈴へ黒札を立てる。

「記録」

右の鈴。

『カナタ』

「現在」

二つとも聞こえる。

どちらかを消す必要はない。

同じ返事として扱わないだけだ。

「逆雨原が終わったら、返事する」

『終わったって、誰が決める?』

「俺」

『受け取った』

最後に、アカリはザンバ宛ての木札を出した。

――帰還門左支柱。灰旗の切断跡を補強へ使用。

――弁償残額。本人到着後に確認。

「帰る資格の札か」とザンバ。

『弁償の札』

「厳しい!」

ザンバは木札を受け取り、灰色の外套へ挟んだ。

「返事は?」とナギ。

「到着したときにする」

『受け取った』

響雨の膜が閉じる。

十一枚目の現在図だけが、第一歩号へ残った。

帰還門。

短期不在の成功。

長期不在の空白。

第一歩号の名前のない欄。

カナタはその空白を、白旗の中央と並べて見た。

第一歩号の帆柱には、八枚の小旗が結ばれていた。

白。

銅。

灰青。

夜色。

透明。

暮色。

薄青。

深緑。

二番目の青い旗は、遠いトマリギ島で帰る場所を守っている。

「船に八!」

カナタが数える。

「全部で九本」とルゥ。

「次で十!」

「次って何」とナギ。

「逆雨原の旗!」

「誰が立てる?」

カナタはアマネを見る。

彼女は記雨瓶を両手で持ち、母の工房から返雨塔を見上げている。

「アマネ」

「決めないで」

「候補!」

「旗は順番の景品じゃない」

「分かってる!」

「顔が分かってない」とルゥ。

ザンバは灰旗を広げた。

黒い点から九本の線。

行く。

帰る。

分かれる。

渡す。

止まる。

空ける。

終える。

譲る。

戻る。

「十本目を足したら、完成か?」

ザンバが訊く。

「おう!」

「何が」

「俺たちの道!」

「完成したら?」

「次へ行く!」

「完成していないのと同じだな」

「違う!」

「何が終わる」

カナタは白旗を見る。

第七作で、世界の果てへ行く旅を終えた。

それから、世界の果てから始める旅へ出た。

八番目。

九番目。

今、十番目の土地。

「十本を数える旅」

「いつ始めた?」とルゥ。

「最初から!」

「最初は世界の果てへ旗を立てる旅」

「途中で増えた!」

「じゃあ、誰が十で終わるって決めた?」

「十だから!」

「数字が決めるの?」

アマネが静かに訊いた。

カナタの口が止まる。

十は区切りに見える。

旗も十本なら、きれいだ。

連標網も十か所。

第一歩号の部品にも、次で十番目の何かがつくかもしれない。

「終わりじゃない」

カナタは言い直す。

「節目」

「何を次へ渡す?」

「全部!」

「一つにして?」

「……そのほうが運びやすい」

ルゥが八枚の小旗を一本の縄へ重ねた。

白も。

銅も。

夜色も。

同じ幅へ折る。

「これで軽い?」

「軽い」

「何番旗か分かる?」

カナタは布の端を見る。

色が少しずつ覗く。

「開けば」

「開くまで使えない」

ルゥは一本ずつ戻した。

「一緒に運ぶことと、一枚に縫うことは違う」

ナギが十個の結節鈴を並べる。

「連標網も同じ」

「十か所を一つにすれば、遠くまで声が届く」とカナタ。

「誰の声?」

「みんなの!」

「全員が違うことを言ったら?」

「大きいほう!」

「声の大きさで道を決める?」

「じゃあ多数!」

「十か所に住む人数、違う」

「難しい!」

「十番目だから」とアマネ。

カナタは八枚の旗と、遠い二番旗の鈴を見る。

一から九。

どれも、別の場所で、別の誰かが必要として生まれた。

十本になったからといって、一つの答えへ潰していいわけではない。

それでも、天攫潮へ対抗するには大きな力が要る。

「違うまま、大きくできないのか」

ルゥが繰上枡の模型を見る。

「それを作るのが十番目かも」

アマネは空色の布を握った。

「まだ、私の旗じゃない」

「いつなる?」

「私が決めたとき」

「待つ!」

「本当に?」

「今は!」

「今だけ?」

「次も!」

「少し進歩」とナギ。

返雨塔から、四度目の鐘が鳴った。

残り、十刻。

逆雨原を《連標網》へ加える作業は、十ノ雨桁の鐘台で行われた。

ナギは九つの場所を、同じ順番で一斉には呼ばなかった。

最初に、現在地を返せるか。

次に、誰が受け取るか。

最後に、何を貸すか。

三つの問いを、別々に送る。

「カゲノハ村」

五つの打音。

『現在、北発着場。受取、アカリ』

「逆雨原の返雨へ、現在図の照合を借りたい」

『用途確認。雨の行き先を今日の図へ合わせるだけ?』

「それだけ」

『受け取った』

「無灯泊」

五つの船腹音。

『現在、三十六隻。返事なし二隻』

「途中点呼の方法を借りたい」

『返事なしをゼロにしないなら、受け取った』

「星脈市ネウラ」

折返鐘。

『現在、青脈。旧中央脈、記録保存』