第241話 第一章「帰り道を追い越す」前編
道がないなら、最初の一歩になればいい。
誰かが二歩目を重ねれば、足跡は道になる。
三歩目が別の方角へ進んでも、また会う旗があれば道は途切れない。
四歩目を、自分より先へ行く誰かに渡すこともできる。
五歩目を急がず、今いる者を数えることもできる。
六歩目を置く場所に先客がいたなら、一歩ぶん空けて迎えればいい。
七歩目まで歩いた道が終わるなら、「ここまで来た」と旗を立てればいい。
八歩目の先頭を誰かへ渡しても、自分の足跡は消えない。
九歩目で道が違うと気づいたなら、選び直す場所まで戻ればいい。
十歩ぶんの道を次へ渡すとき、小さな足跡を一つへ潰さなくていい。
では。
そのすべてを持って、最初に出た場所へ帰るとき。
帰る場所も。
帰る者も。
出発した日のままではなかったなら。
旅人は、何へ帰るのだろう。
最後の旗をどこへ立てるのか、カナタにもまだ答えはなかった。
帰ると決めてから、四人の体は旅立つ前より正直になった。
カナタの右膝は、冷えた甲板へ最初の一歩を置くときだけ遅れる。本人は古傷と呼ばず、「帰路へ入る助走」と言い、冷めた朝粥へまで息を吹きかけてから船尾へ走った。
ルゥは三十歩先の帰路標を薄い片眼鏡で読み、見えた途端、意地のように工具帯へ戻した。近くの亀裂は髪一本ぶんまで拾えるが、遠い顔は上着の色でしか判別できない。九転脈輪を戻した反動で、左の親指はまだ完全には閉じず、髪の銀鋲が二本、危険度順から外れて左手へ移っていた。
ナギは右耳へ小鈴、左耳へ栓。十の現在音へ触れる前に舌先で五拍を数え、右手で問い、左手で返事を書く。ザンバは雨圧で疼く機巧腕の留め具を、生身の左手で締め直した。
四人の身体は、別々の現在を返していた。
逆雨原を出て、九日目。
飛空艇《第一歩号》は、順調に帰り道を追い越していた。
「待てぇぇぇ! 帰る道ぃぃぃ!」
船尾で、カナタが金色の光糸へ手を伸ばす。
光糸は第一歩号の後ろから現れ、船体の横をするすると通り過ぎ、前方の雲へ消えていった。
普通、帰り道は後ろにある。
少なくとも、ルゥはそう信じていた。
「道を追い越す人がある!?」
操舵輪を握ったルゥが叫ぶ。
左右の《十連雨帆》で、小枡が一つずつ鳴った。
一。
二。
逆雨原から運んだ雨が十までたまり、一押しぶんの重さへ繰り上がる。
帆が大きく膨らんだ。
第一歩号はさらに加速する。
金色の光糸が、ますます後ろへ流れた。
「第十翼を止めろ!」
「帆!」
「今は速すぎる!」
「あんたが全部の小枡へ雨を入れたからでしょ!」
「帰るなら早いほうがいい!」
「帰り道より早く飛んだら帰れない!」
甲板後方で、ザンバが椅子ごと帆柱へ押しつけられていた。
灰色の旗には、黒い点から十本ぶんの道が伸びている。
九本目までは、それぞれ分かれ、戻り、終わり、また始まっていた。
十本目は一度大きな輪を描き、その先に小さな一本目を残している。
「三度、雨帆を半分にしろと言った」
「俺には?」
「主にお前へ」
「聞いてない!」
「知っている」
帆柱の前では、ナギが十個の小さな鈴を両腕で抱えていた。
カゲノハ村。
トマリギ島。
三番港。
銀枝都市ミナモ。
無灯泊。
迎え岸。
双灯港アケヨイ。
歩雲群ヤエ。
星脈市ネウラ。
逆雨原アマガエリ。
《連標網》の十結節。
どの鈴も違う音を持ち、誰の現在か分かるように作られている。
今は十個すべてが、第一歩号の速さに振り回されていた。
「一番鈴、三回転!」
「返事か!?」
「遠心力!」
「二番鈴!」
「私の額へ到着!」
「帰ってきた!」
「喜ばないで!」
青い鈴がナギの額へ当たる。
ちん、と気まずい音。
ナギは片手で額を押さえ、もう片方で響路帳を開いた。
「現在地、天樹アトラス外縁へ接近中」
「行き先!」とカナタ。
「カゲノハ村」
「先頭!」
「到着日の案内役」
「アカリ!」
「受取先!」
「現在の村」
「返事!」
「まだ」
「じゃあ、もっと速く!」
カナタの声が、一音だけ低くなった。怖い時ほど大声になる少年ではない。本当に失いたくないものが前へ流れると、声は低くなり、右足だけが半歩先へ出る。
「速くする前に、アカリへ聞く。帰還門のどこまでなら、こっちから道を出していい!」
「先にそれ!」とルゥ。
目的地を知っていても、受取人の一歩までは決めない。旅の最初なら出なかった問いだった。
「聞いてた!?」
カナタは船尾の《九転脈輪》へ飛びついた。
歩いた航路を一脈ぶん折り返す大きな輪。
星脈市で加えた機巧だ。
今は、第一歩号が来た道を金色の光糸として拾い、天樹アトラスへ返している。
ただし、輪より船が速い。
「第九翼、全開!」
「輪!」
「帰り道を前へ出す!」
「前へ出したら行き道になる!」
「同じ場所へ着く!」
「向きが違う!」
カナタが輪を両手で回す。
九転脈輪は逆方向へ回った。
金色の光糸が船首へ追いつく。
一瞬だけ。
第一歩号は、自分の帰り道へ乗った。
「やった!」
次の瞬間。
帰り道が船体の下を通り過ぎ、来た方向へ伸びた。
第一歩号の船首が百八十度回る。
「戻った!」
「戻りすぎ!」
「折返成功!」
「目的地から離れてる!」
ルゥが操舵輪を蹴る。
左右の十連雨帆が別々に開いた。
右帆の十滴が一押し。
左帆の十滴も一押し。
第一歩号はその場で一回転した。
金色の帰路を縄跳びのように越える。
一回。
二回。
三回目で、船首の《両面折岸舵》が光糸へ引っかかった。
「第六翼が取った!」
「鍋蓋!」
「帰り道、確保!」
「船首へ巻きついてる!」
第一歩号は光糸を口にくわえた魚のように引かれた。
雲海へ突っ込む。
船体が白い雲綿を巻き込み、甲板が一瞬で真っ白になった。
「前!」
ナギが叫ぶ。
「見えない!」
「天樹の外枝!」
「どっち!」
「全部!」
「任せろ!」
「その返事、今はやめて!」
カナタが白旗を抜く。
「標術――《未踏路》! 雲の外!」
一歩分の光板が生まれた。
第一歩号は板へ乗り上げる。
雲を突き破った。
目の前に、巨大な枝があった。
天樹アトラスの外縁。
太さだけで町が載る大枝。
表面には、帰還者を減速させるための銀色の布が何十枚も張られている。
「右!」とルゥ。
「右に布!」
「左!」
「左にも布!」
「下!」
「枝!」
「上!」
「葉!」
「じゃあ前!」
「減速布!」
第一歩号が銀布へ突っ込んだ。
一枚目。
船首の鍋蓋が受け止める。
二枚目。
十連雨帆が巻き取る。
三枚目。
九転脈輪へ絡む。
四枚目から十枚目まで、第一歩号を大きな包みのように包んだ。
ようやく止まる。
銀布の山から、カナタの腕だけが突き出た。
「帰路……到着……!」
「天樹の外縁!」
ルゥが布の中から這い出す。
「村まで、まだ七百一本の枝!」
「近い!」
「遠い!」
ナギは十個の鈴を一つずつ拾った。
最後の鈴だけが、銀布の外で鳴っている。
カゲノハ村。
五つ。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
今、ここ。
カナタの動きが止まった。
銀布の山から顔を出す。
「アカリ?」
鈴の向こうで、少女の声が返った。
『聞こえてる』
記録ではない。
今日の呼吸。
今日の鐘。
生きている返事だった。
減速所の朝、ルゥは工具箱の蓋を三度叩いてから開けた。一度目は中身、二度目は自分の手、三度目は誰へ仕事を渡すかの確認だった。
「右帆は私。九転脈輪は減速所の人と二人。カナタは銀布を畳むだけ」
「だけ!?」
「走らない。翼番号を付けない。道へ結ばない」
「三つも仕事がある!」
ルゥは笑わなかった。継ぎ路の反動が強い朝は、左手で髪を結べない。以前なら痛む指を隠して全部つないだ。今は、親指が開かないことを先に申告し、修理台の職人へ銀鋲を一本渡した。
ザンバは壁へ背を向けない位置へ椅子を置き、甘い樹液茶を飲む前に匂いを嗅いだ。ナギは十の鈴を一つずつ別の布へ載せる。十個の現在を、一つの「無事」へまとめないためだった。
第一歩号は、外縁枝の減速所で三日止まった。
正確には、二日と半日。
三日目の朝、カナタが勝手に十連雨帆へ風を入れ、修理台ごと半歩進んだため、ルゥが出航扱いにした。
「止まってた!」
「修理台を運んだ!」
「前へ!」
「半歩でも出航!」
「厳しい!」
減速所の職人たちは、第一歩号から銀布を一枚ずつ外した。
船体の傷。
各地の板。
色の違う帆。
八脚雲着輪。
九転脈輪。
十連雨帆。
どれも天樹の外縁では珍しく、職人たちは作業のたび手を止める。
「これは何だ」
「翼!」とカナタ。
「鍋蓋」とルゥ。
「どちらだ」
「正式には両面折岸舵」
「翼!」
「船長だけ別のものを見てる」
修理の間、ナギは十個の結節鈴を円形へ並べた。
一つずつ、現在確認を取る。
「トマリギ島」