第242話 第一章「帰り道を追い越す」後編

青い鈴。

ちりん、ちりん。

『始標塔、現在』

母イオラの声。

『ナギ、帰ったら屋根の続きを直すこと』

「帰ったら?」とカナタ。

「トマリギ島へ」

「今はカゲノハ村へ帰るぞ!」

「私の帰る場所は一つじゃない」

三番目の鈴。

『三番港、現在。再会原、晴れ』

ミオ。

四番。

『ミナモ、現在。天衡機、四つ目を交換中』

キリ。

五番。

こん、こん、こん、こん、こん。

無灯泊。

『今、ここ』

リラの声。

六番。

『迎え岸、両岸とも現在』

ユラとエル。

七番。

『双灯港アケヨイ、今日の終路、七件』

ヨイ。

八番。

『歩雲群、先頭は三番雲。八番雲、次回予定』

メグ。

九番。

『星脈市、中央脈旧図を保存。現在路は右二脈』

シノ。

十番。

『逆雨原、黒雨一滴、由来未確認』

アマネ。

どの声も違った。

町の音。

風。

仕事。

笑い。

未確認。

今、その場所にいる人の返事。

「一番」

ナギがカゲノハ村の鈴へ触れた。

まだ鳴らさない。

「最後じゃないのか?」とカナタ。

「最初に戻るから一番」

「十の次の一!」

「数え方は合ってる」

「珍しく!」

「自分で言わない」

ナギは響路帳を開いた。

カゲノハ村から届いた現在報告は十二枚。

最初の一枚。

南橋、通行可。

二枚目。

朝火窓、二枚増設。

三枚目。

旅人宿、開業。

九枚目。

古い薬師橋、通行終了。

十一枚目。

帰還門、短期不在者試験通過。長期不在者、未成功。

十二枚目。

帰路開始を受信。

「十三枚目は?」

カナタが訊く。

「到着日の地図」

「まだ届いてない!」

「まだ到着日じゃない」

「近いぞ!」

「七百一本の枝」

「三日!」

「普通なら一月」

「第一歩号なら!」

「どこへ着くか分からない」

「村!」

「村のどこ」

「発着場!」

「今の発着場は、あんたが知ってる場所から四十三歩左」

「動いた!?」

「村も道も動く」

カナタは古い地図を広げた。

出発の日にアカリから受け取ったもの。

広場。

苔玉。

小さな作業小屋。

カナタの家。

天頂門へ続く細い道。

紙の端は擦り切れ、何度も開いた跡がある。

「こっちのほうが分かりやすい」

「今使ったら間違い」とルゥ。

「昔は合ってた!」

「昔の地図だから」

「村は同じだぞ」

ナギは十二枚を横へ並べた。

一枚も重ねない。

古い地図も捨てない。

「同じ名前」

指で一枚目を示す。

「違う現在」

「父ちゃんの帰還路は、どれを出す?」

「帰る人が一番強く覚えてる地図」

「じゃあ、俺の地図!」

「だから危ない」

鈴が一つ鳴った。

カゲノハ村ではない。

第一歩号の船底。

五つ。

こん。

こん。

こん。

こん。

こん。

「第一歩号、現在!」

カナタが甲板を五つ叩き返す。

船体から、もう一度五つ。

ナギは帳面へ書く。

――移動結節、第一歩号。

――現在地、外縁減速所。

――行き先、カゲノハ村。

――乗員、四。

――船、一。

「五人!」とカナタ。

「船を人へ入れない」

「返事するぞ!」

「現在者には入れる」

「難しい!」

そのとき。

十個の鈴とは別に、古い金色の線が床へ浮かんだ。

天樹の内側から。

細く。

まっすぐ。

第一歩号の白旗へ。

声が来る。

『たまには帰れ』

同じ息の長さ。同じ語尾の笑い。同じ場所で継がれた呼吸。

ナギは右の鈴を一度、左の黒鈴を一度鳴らした。

「声はアステル。今の返事ではない」

問いを変えても、記録は変わらなかった。

「父ちゃん。俺、十個も帰る場所を持ってきたぞ」

『たまには帰れ』

言葉は答えず、同じ形へ戻った。カナタは白旗の中央ではなく端をつまむ。父の声を聞くことと、父に現在を聞いてもらうことは別だった。

カナタが振り向いた。

「父ちゃん!」

ナギはすぐに左側の黒い小鈴を鳴らした。

一音。

「記録」

「聞こえたぞ!」

「聞こえた。今の返事じゃない」

「父ちゃんの声だ!」

「声でも、記録」

金色の線は、同じ言葉をもう一度鳴らす。

『たまには帰れ』

速さも。

息の長さも。

最後の笑い方も同じ。

ナギは響路帳へ時刻を書く。

「十二年前から変わってない音」

「俺が近づいたから出た」

「帰還路が、帰る人の記憶へ反応した」

「呼んでる!」

「引いてる」

ナギは金色の線を指で弾いた。

鈴ではない音がした。

道の音。

帰る者を、知っている形へ運ぼうとする音。

「呼ぶのと引くのは違う」

カナタの手が白旗へ触れる。

中央の空白が、わずかに金色へ染まった。

出発した日の村の形。

ほんの一瞬。

家の屋根が浮かび。

すぐ消えた。

「今の、見た?」

ルゥが銀鋲を抜く。

「俺の家!」

「古い形」

「帰ったらある!」

誰も答えなかった。

カナタは古い地図を畳んだ。

捨てずに上着へ入れる。

「十三枚目が来たら、そっちを使う」

言葉は迷わなかった。

手だけが、古い地図の上から離れるまで少し時間を使った。

帰還試験の朝、アカリは重要札を書く前に、へこんだ薬箱の角を親指で三度なぞった。

左手で現在図を書く。右手で薬箱と安全札を渡す。書く手と、渡す手を混ぜないのが、病床から起きて最初に自分へ決めた規則だった。

セノは深いつばの作業帽を被っている。朝窓の光が強い日は、耳鳴りと眩しさが一緒に来る。六本の銅杭のうち一本だけが飾りだが、今朝もどれか分からず、三本目で紙を留めようとして紙へ小さな穴を増やした。

「そこ、失敗図へ残す?」

「残す。穴の位置は、外輪の振動と同じ」

アカリは誤線も穴も消さず、赤糸で囲った。

遠い天樹アトラス、第七百二枝。

カゲノハ村では、十三枚目の現在図をまだ描いていなかった。

「今描けばいいだろ」

帰還門の下で、セノが言った。

十五歳。

斜め留め具を考えた機巧師見習い。

髪にはルゥの銀鋲を真似た細い銅杭が六本刺さっている。

一本は飾り。

五本は工具。

どれが飾りかは、本人も分からなくなっていた。

「明日、橋板を替える」

アカリは現在図の白紙を配達箱へ戻す。

十三歳で熱冷ましを受け取った少女は、十五歳になっていた。

「南荷道も一段下へ動く」

「到着は三日後」

「第一歩号の三日は信用しない」

「一日?」

「一月」

「幅が広い」

「船長がカナタ」

「納得」

二人は帰還門を見上げた。

昔の発着場には、門はなかった。

枝の端。

細い柵。

大きな苔玉。

空へ出る者は、自分で風を拾った。

今は白い外輪が二つ。

内側の輪が、帰還者の記憶を受ける。

外側の輪が、現在の村へ角度を合わせる。

二つの間には、一歩ぶんの空白。

帰る者が最後に踏む場所だ。

「第十二試験、始めるよ!」

アカリが声を張る。

発着場には、村人が集まっていた。

フィオは翼旗で風の揺れを測る。

トウヤは上層枝から試験荷を運ぶ。

セルクは名簿と現在札を照合。

ハルガは外輪の根元へ腕を組んで立つ。

オウギは天頂門から下りてきたばかりで、古い《現標板》を腰へ下げている。

マツバ婆は、薬師渡りの杖をつきながら見物席へ座った。

「今度は誰が帰る?」

「私」

アカリが門の外へ回る。

「ずっと村にいるだろ」とトウヤ。

「一度、外輪の向こうへ出る」

「それを帰還って数える?」

「短距離試験」

「俺がやる!」

「先頭を取りたいだけ」

「試験者になりたい!」

「同じ」

アカリはへこんだ薬箱を背負った。

十四歳の授旗から使い続けた黄緑旗を掲げる。

標術《宛標》。現在図に名があり、本人の返事がある受取人の方角を示す旗だ。

「現在地」

セルクが訊く。

「帰還門外輪、外側」

「行き先」

「今日のカゲノハ村」

「案内役」

「アカリ」

「受取先」

アカリは門の内側を見る。

セノ。

フィオ。

トウヤ。

村長。

今いる人々。

「そのとき広場にいる人」

「曖昧」とセノ。

「帰るまでに動くから」

「返事は?」

「着いてから」

帰還門が光る。

最初に現れたのは、アカリが熱を出した日の村だった。

古い薬師橋。

狭い広場。

薬を待つマツバ婆。

空から落ちてくる鍋蓋の少年。

「何度見ても、ひどい着地」とフィオ。

「薬は無事」とアカリ。

昔のカナタが苔玉へ刺さる。

記憶像。

同じ場面を繰り返す。

アカリは現在図の十二枚目を門の横へ広げた。

「今日の道」

黄緑の線が、昔の広場を消さず、その横へ現在の道を示す。

新しい帰還門。

広くなった発着場。

旅人宿。

荷下ろし台。

アカリは一歩。

門の空白で止まる。

最後の一歩は、自分で踏む。

「配達先、現在のカゲノハ村」

踏み出した。

帰還門の内側へ着く。

小鐘が一つ鳴った。

からん――。

「短距離、到着」

セルクが記録する。

「返事」

セノが片手を上げる。

「おかえり」

「ただいま」

「試験なのに?」とトウヤ。

「言わないと最後まで動かない」

内輪には、アステルの古い帰還路が残っている。

金色の光。

その奥から、声。

『たまには帰れ』

マツバ婆が目を細める。

「懐かしいねえ」

「記録です」

アカリは黒い小鈴を一つ鳴らした。

「聞いていい。でも、今の返事と同じにしない」