第243話 第二章「到着日の十三枚目」前編
「成功だな!」
トウヤが門へ近づく。
「短距離は」とオウギ。
「次が本番だ」
帰還門の外側で、一人の縄師が縄束を背負い直した。
縄師ツヅラ。四十三歳。
上枝の保守工事へ出て、一年三か月ぶりに村へ戻る者だった。
遠くの風路を読む目はよく、手元の札は拡大片眼鏡なしでは滲む。ところが片眼鏡は額へ載せたまま忘れていた。戸口へ入る前の癖で、帰還縄を左手で三度触る。右利きなのに、緊張すると左手だけが先に動き、現在札を一度落とした。
複数の鐘が重なると耳鳴りが来る。ツヅラは片耳を塞ぎ、「鐘が止めば戻る」と言った。アカリはその言葉を安全札へ書き、試験中止の条件に加えた。
ツヅラが出たあと、南枝の古い家は根割れで解体された。
今の住まいは、南荷道二段目。
弟のソウが先に移り、今日の戸口で返事を待っている。
ソウは三十六歳。南荷道二段目の新しい戸口へ、毎月ひとつずつ家族の背丈を刻んでいる。兄姉が帰るまで昔の弟のままでいるつもりはなかった。
待つ間、鍵束をきっかり二度鳴らす。凍傷で左右の指先の温度感覚が違い、冷たい鍵は右で、温かい木槌は左で持った。戸口を半歩だけ往復するのは、迎えに走らず、最後の一歩をツヅラへ返すためだった。
「現在地」
「帰還門外輪、外側」
「行き先」
ツヅラは少し迷った。
「家」
「現在の住所は」
「南荷道二段目」
「受取人」
「弟のソウ」
門の内側から、木槌が五回鳴った。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
「返事あり」
アカリはツヅラの現在札を黄緑旗へ結ぶ。
「短期試験と同じ順番で」
「分かった」
帰還門が開いた。
現れたのは、南荷道二段目ではなかった。
根割れ前の古い家。
低い屋根。
軒下の縄棚。
戸口には、出発の日の弟が立っている。
今より背が低い。
『遅いぞ』
声はない。
口だけが動く。
ツヅラの顔が緩んだ。
「その家は、今はない」
アカリが呼ぶ。
「分かってる」
「現在の受取人」
門の内側から、今のソウがもう一度木槌を五回。
「ここだ!」
黄緑の線が、古い戸口の横へ伸びた。
一歩。
二歩。
南荷道二段目へ曲がる。
最後の一歩手前で、線が切れた。
「切れた!」
セノが外輪を支える。
ツヅラの右足は黄緑線へ向いた。
左足は、古い家の敷居へ吸われた。
「現在!」
アカリが叫ぶ。
「聞こえてる!」
ツヅラは答える。
それでも体が前へ進まない。
知識では今の家を知っている。
足は、長く覚えていた戸口を帰着先だと思っている。
黄緑の線が細くなる。
外輪が軋んだ。
「試験中止!」
セルクが白札を上げる。
フィオが翼風を逆へ送る。
トウヤが安全縄を引く。
アカリは《宛標》を切らず、現在のソウへ向けたまま後退した。
「ツヅラ、今の返事を離さないで!」
「ソウ!」
「ここだ!」
五つ。
また五つ。
声を切らさない。
ツヅラは古い戸口から足を剥がした。
帰還門の外側へ戻る。
通常の荷道から村へ入った。
ソウが迎えに走ってくる。
二人は門ではなく、現在の桟橋で会った。
「ソウ坊」
「いる」
昔の呼び名へ反射で返してから、ソウは鍵束を二度鳴らした。
「でも、今はソウ。今の俺も呼んで」
「ソウ」
「ここだ」
ツヅラの左手は、ソウの肩より二指低い場所へ伸びた。出発した日の身長を測る高さだった。
「そこじゃない」
ソウは怒らず、自分の肩へ手を置き直させた。
ツヅラは鼻から短く息を抜き、遅れて肩を揺らした。笑いながら、古い家の鍵を取り出す。南荷道二段目の戸には、鍵穴がなかった。
「それは、残す?」とソウ。
「捨てろとは言わないのか」
「昔の家は、あった。今の戸を開ける道具ではない」
ソウが鍵束を二度鳴らす。現在の戸が開いた。
二人は一本の帰還縄を両端から持ち、門ではなく荷道を歩いた。昔の家を否定せず、今日の戸口へ自分の足で入るための遠回りだった。
「おかえり」
「ただいま」
言えた。
けれど、帰還門は使えなかった。
セルクが記録板へ書く。
――第十二試験、短距離成功。
――第十三試験、長期不在者、一歩手前で誘導切断。
――旧宅像への牽引、継続。
――通常路で帰着。
「《宛標》が弱かった?」
セノが訊く。
「違う」とアカリ。
「相手の場所は示した」
「道が届かなかった」
「帰る人の記憶が、最後の一歩を離さなかった」
オウギは金色の内輪へ手を当てる。
「一年三か月で、これだ」
アカリは空を見る。
第一歩号は、一年八か月。
カナタには、アステルの帰還路そのものが結びついている。
「もっと強く引かれる」
「どうする?」とセノ。
「今は、分からない」
アカリは失敗記録を隠さず、帰還門の横へ貼った。
「到着日の現在図を出す」
「それで足りる?」
「足りないかもしれない」
「じゃあ」
「返事を増やす。案内役を決める。最後の一歩を空ける」
一つずつ言う。
「それでも切れたら、通常路へ戻す」
「成功させるって言わない?」
「帰ってくる人を、試験の成功へ使わない」
アカリは十三枚目の白紙を配達箱へ戻した。
「到着する日の、今を描く」
そのとき、村の南側で大きな音がした。
どん。
新しい旅人宿の裏へ、荷車が一台ぶつかっている。
「道板、外れた!」
フィオが翼旗を開く。
「現在図、変わった」とセノ。
「だから、まだ描かない」
発着場の端では、大きな石像が布をかぶっていた。
人の形。
片手に旗。
胸を張りすぎ。
鼻が高すぎ。
「それ、まだ置くの?」
アカリが村長へ訊く。
「帰還祝いだ」
「本人より大きい」
「英雄だからな」
「帰った本人が、知らない村へ英雄として立つの?」
村長は布の下の像を見る。
「迎える形が必要だ」
「昔のカナタが喜ぶ形?」
「今のカナタを知らん」
村長は正直に答えた。
「だから、帰ってから聞く」
「像は先に作った」
「石工が暇だった」
布の下から、像の長すぎる鼻が少し出た。
アカリはため息をつく。
「十三枚目には、像も描く?」
「現在にあるなら」とセルク。
「帰る前に壊れたら?」
全員が、空を見た。
第一歩号が来る方角。
「描かなくていいかも」とセノ。
反対する者はいなかった。
夕食の席は四つ空いていたのに、カナタはどこへ座るか決められなかった。
船首側は船長席。操舵輪側はルゥ。響路台のそばはナギ。壁を背にしない角はザンバが選ぶ。
「立って食べる!」
「座れ」と三人。
カナタは冷めた豆へ息を吹き、最後に空いていた通路側へ腰を下ろした。帰る場所を選ぶ話より、食卓の席を選ぶほうが難しい顔だった。
ルゥは樹液瓶を開けようとして、左の親指が止まった。無言でナギへ渡す。ナギは音を聞く手と食事の手を分け、ザンバは甘味を口へ入れる前に一度だけ匂いを嗅いだ。
旅の間にできた日常は、誰かの故郷へ入っても消えない。
外縁枝を離れた夜。
第一歩号は、天樹アトラスの枝間を下っていた。
正規航路なら、天頂門からカゲノハ村へ半日。
第一歩号は、正規航路へ入るまでに二日かかった。
船長が「近道」と書かれた古い矢印へ入ったためである。
矢印は、百年前の樹液採取路を示していた。
行き止まり。
ただし、樹液は取れた。
「収穫!」
「迷子!」
「甘い!」
「舵が重い!」
甲板には、採取路から落ちた金色の樹液が三桶。
カナタは一桶目へ指を入れ。
ルゥに叩かれ。
二桶目へ白旗を入れ。
ザンバに抜かれ。
三桶目を第一歩号が船底から吸った。
「船も飲んだ!」
「漏れてる!」
修理を終えたころ、夜の鐘が遠く鳴った。
カゲノハ村ではない。
途中枝の泊所。
第一歩号は久しぶりに、壊さず桟橋へ停まった。
「成長!」
「終路鐘が鳴ったから」とルゥ。
「俺が引いた!」
「全員がここで止まるって返事したから」
「俺のおかげもある!」
四人は甲板で夕食を取った。
干し雲魚。
逆雨で戻した豆。
樹液。
ザンバだけ樹液を避ける。
「甘いもの、嫌いか?」とカナタ。
「お前が指を入れた」
「洗った!」
「樹液で」
「同じ!」
ナギは響路帳を閉じた。
「訊いていい?」
「おう!」
「カナタは、何へ帰るの」
「村!」
「村の何」
「家!」
「宿になってる」
「広場!」
「荷下ろし台が増えた」
「父ちゃんの道!」
「記録」
「全部!」
ナギは豆を一つ口へ入れた。
「分からないって言ってもいいのに」
「分かってる!」
「じゃあ、ただいまって誰へ言う?」
カナタの口が開く。
村人。
父。
アカリ。
家。
白旗。
第一歩号。
「着いたら決める!」
「それは分からないって言うの」
「今決めないだけ!」
「少し成長」とルゥ。
「褒めてる?」
「一歩」
「俺の得意なやつ!」
ナギは次にルゥを見る。
「ルゥは?」
「作業小屋」
「机?」
「違う」
答えが早すぎた。
カナタが笑う。
「机だ!」
「違う!」
「昔の工具!」
「新しい机を作るって言ってる!」