第244話 第二章「到着日の十三枚目」後編
「誰と?」
ルゥは白い帳面を開いた。
カゲノハ村から届いた作業小屋の現在図。
古い机。
横へ増えた二台。
セノの斜め留め具。
フィオの風路図。
知らない見習いの失敗歯車。
「帰ったら、一緒に決めるって言った」
「昔の机、返してもらう?」
「使いたい場所は使う」
「全部じゃない?」
「全部私のままなら、誰も続きをしてないでしょ」
言いながら、帳面の古い机へ指を置く。
少し長く。
ナギは何も言わなかった。
ザンバを見る。
「お前は?」
「帰るとは言っていない」
「第一歩号の行き先はカゲノハ村」
「俺の故郷ではない」
「でも、着く」
「ああ」
「何をしに?」
「弁償」
外套の内側から板を出す。
ザンバが初めて村へ現れた日から持ち続けた弁償板。
屋根。
橋。
現標杭。
泣いた子ども。
切った道。
数字だけでは終わらない項目が並ぶ。
「許してもらう?」
「許しを受け取りに行く道ではない」
「じゃあ?」
「今も残っているものを見る」
「怖い?」
カナタが訊く。
ザンバは樹液の桶を見る。
「お前の指よりは」
「そこまで!?」
「答えたくない顔」とルゥ。
「顔で分かるのか」
「分かりなさい」
ナギは自分の青い鈴へ触れた。
「私は、何て言えばいいんだろう」
「ただいま!」
カナタが即答。
「カゲノハ村は私の生まれた場所じゃない」
「第一歩号で出た場所!」
「合流したのは三脚群島の手前」
「連標網の一番目!」
「それは村の役目」
「じゃあ、帰る場所にすればいい!」
「カナタが決めるの?」
声は厳しくなかった。
それでもカナタの口が止まる。
三番目。
人の行き先まで決めない。
六番目。
相手の一歩を空ける。
「……村に聞く」
「私も聞く」
「断られたら?」
「ようこそ、って言ってもらう」
「帰らなくなる?」
「言葉が違うだけ」
ナギは青い鈴を一度鳴らす。
遠いトマリギ島から、母の返事。
ちりん。
『聞こえてる』
「帰る場所は、持ち歩かない」
「二番目!」
「でも、返事は持っていける」
第一歩号の船底が五つ鳴った。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
「船は?」とカナタ。
「第一歩号も、帰る?」
ルゥが甲板へ手を置く。
船腹に残るカゲノハ村の古い板。
最初の朝火炉。
ルゥが打った銀鋲。
その上へ、旅先の部品が重なる。
「出た場所ではある」
「じゃあ五人!」
「船、一」とナギ。
「厳しい!」
泊所の夜空から、天樹の下枝が見えた。
その向こう。
カゲノハ村。
まだ見えない。
それでも、帰還路の金色は前より太くなっている。
『たまには帰れ』
古い声。
今度は、カナタだけでなく全員が聞いた。
ナギは黒い小鈴を鳴らす。
「記録」
続けて、カゲノハ村の鈴。
五つ。
『現在地、帰還門』
アカリ。
『十三枚目は、到着が確定してから送る』
「遅い!」
『今の村を使うなら待って』
「待つ!」
カナタは即答した。
少しして。
「どれくらい?」
『着くまで』
「長い!」
ルゥが笑う。
「いつも私たちが言われてる」
カナタは金色の帰還路を見る。
父の道は、待てと言わない。
知っている村をすぐ見せる。
今の村は、到着するまで地図を送らない。
カナタは白旗を横へ置いた。
「待つ」
もう一度言った。
カナタは右膝を伸ばし、白旗から手を離した。待つことを罰のように数えず、仲間の食べ終わる速さへ自分を合わせる。
「ナギ。帰ったあと、どこへ行く?」
「まだ決めない」
「分かった。決めたら聞く」
答えを自分の旅程へ組み込まなかった。
今度は、少しだけ長く座っていられた。
朝の配達前、アカリは自分の体調札だけを箱の底へ隠しかけた。
立ちくらみ、一度。朝窓の冷え。睡眠、短い。
マツバ婆は左手の指を六、五、四と逆に折り、三つ目で見つけた。
「現在図から案内役を消すんじゃないよ」
薬草の匂いがする温石を、へこんだ薬箱へ押し込む。アカリは「平気」と言わず、体調札の角を丸く切った。人名札と同じ扱いにしたのは、自分も今いる者として数えるためだった。
セルクは公用名簿のほかに、例外帳を一冊持っている。規則どおりにいかなかった帰還、延期した点検、本人が拒んだ歓迎。太い眉を寄せながら、成功より先に例外を記した。
第一歩号が下枝泊所を出たころ。
カゲノハ村では、新しい朝が始まっていた。
一つ鐘。
枝葉が少し開く。
朝の光が発着場へ落ちる。
二つ鐘。
光が旅人宿へ移る。
三つ鐘。
畑と薬師渡り。
カナタが出たころ、太陽は一日に三分しか見えなかった。
今は毎日、場所を変えながら三刻ほど光が入る。
苔灯りは消えていない。
朝火も。
暗さを捨てたのではなく、明るさを一つ増やした。
「南荷道、交換!」
アカリが朝の広場を走る。
へこんだ薬箱が背中で鳴る。
十三枚目の現在図は、まだ白紙。
代わりに、細い札を何枚も持っていた。
――南荷道、本日三つ鐘で一段下へ。
――旅人宿裏、工房拡張のため通行幅半分。
――英雄像前、石工の昼休みまで通行止め。
「英雄像、まだある!」
セノが斜め留め具を抱えて追う。
「昨日、鼻を短くした」
「どれくらい?」
「一指」
「まだ長い!」
広場の石像は、布を外されていた。
カナタ。
らしい。
実物より背が二倍。
胸板は三倍。
白旗は四倍。
鼻は本人の記憶より高い。
足元には大きな文字。
――世界の果てへ到達した英雄、カナタ。
ただし、最後の二文字は石工が間違え、一度《カタナ》になった跡がある。
「こっちのほうが読める!」
本人なら喜ぶ、と村長は言った。
アカリは分からなかった。
十五歳になるころのカナタなら、像へ登り、自分より大きいと怒ったあと、頭に立って喜んだだろう。
今のカナタは、十本の旗を数えた。
それでも同じことをするかもしれない。
「現在図へ像を入れる?」
セノが訊く。
「入れる」
「嫌いなのに?」
「今ある」
「壊れたら?」
「消す」
「本人が壊したら?」
「弁償板へ足す」
アカリは像の横へ現在札を立てた。
――建立、本日。
――本人未確認。
――撤去可否、帰還後に協議。
「協議?」と村長。
「本人一人で決めない」
「本人の像だぞ」
「広場は全員の場所」
村長は少し考え、札へ自分の名も書いた。
「建立を決めた者」
「責任者」
「そこまで書くのか」
「帰ったら、誰が置いたって訊く」
「大きくなったな」
「待ってただけじゃないから」
アカリは次の配達へ走る。
旅人宿。
カナタの家だった建物。
昔の壁板は残っている。
上へ二階を足し、横へ食堂。
納戸には旅人の荷物。
アステルとカナタが使った食卓は、受付台になった。
「カナタの部屋、空ける?」
宿守のキヌ婆が訊く。
キヌ婆は六十七歳。左手に宿の鍵束を持ち、扉を開ける前に二度だけ鳴らす。客の靴は入口へ向けず、疲れている者ほど椅子に近く置く。カナタの昔を知っていても、現在の客を「英雄のため」に移す気はなかった。
「空けない」
「帰るんだろ」
「部屋だった場所は、今は荷物庫」
「寝るところは」
「客室一」
「英雄を客室へ?」
「今いる客を追い出す?」
客室一は空いている。
キヌ婆は最初から分かって訊いた。
「昔の家へ帰りたいと言ったら」
「聞く」
「戻す?」
「今いる人も聞く」
旅人宿の食堂では、紫岸から来た家族が朝食を取っていた。
子どもが、英雄像の鼻を窓から見て笑う。
カナタの昔を知らない。
それでも、今の家にいる。
「難しいねえ」
「帰るの?」
「宿の勘定」
「そっち」
アカリは客室一の鍵を受け取った。
次は機巧小屋。
扉を開けると、机が三台あった。
一番奥。
ルゥの古い机。
傷。
焦げ跡。
銀鋲を抜いた穴。
今はフィオの風路図が半分。
セノの斜め留め具が四分の一。
残り四分の一に、ルゥが置いていった古い工具。
壁側には新しい机が二台。
どれも狭い。
「ルゥが帰ったら、どこ使う?」とフィオ。
「本人に聞く」
「古い机を全部って言ったら?」
「私の風路図を移す」
「嫌じゃない?」
「嫌」
フィオは翼旗を畳んだ。
「でも、話す」
最初の試験で、前へ出るトウヤを止められなかった少女。
今は風路の安全を測り、機巧の図まで引く。
ルゥが知らない一年と四か月が、机の上にある。
「新しい台、作る?」
セノが壁を測る。
「帰ってから」
「今作れば早い」
セノの声は軽いが、銅杭を一本ずつ奥へ押す指が硬い。ルゥの机へ自分の斜め留め具を置いた一年が、「仮の留守番」へ戻されるのを怖がっていた。
フィオも風路図の端を押さえる。暗い場所では線を見失いやすく、古傷の肩を上げ続けると翼旗を畳めなくなる。それでも、自分の飛びたい風路を初めて机へ描いた図だった。
「本人の高さが分からない」
「前と同じ」
「変わってるかも」
「背?」
「使い方」
アカリは作業小屋の現在札を更新した。
――机三台。