第246話 第三章「帰路の一歩手前」後編
正面ではない。
四十三歩右。
昔の発着場の方角だった。
「違う!」
アカリが叫ぶ。
十三枚目の図を読むカナタの指は、線の上を走っていた。文字の列は飛ばしても、線が止まれば本人も止まる。
古い発着場へ重なる金色の道だけは、指を使わなくても見えた。見慣れた苔玉、父の旗竿、昔の家。見える範囲を故郷の全部だと思いかける。
右膝が痛み、声が低くなる。
「アカリ。俺の一歩、どこへ置く」
『私の旗より手前。船は門へ入れない。降りて、歩いて』
「船ごと帰りたい!」
『第一歩号の行き先は修理桟橋。カナタの行き先は、まだ本人へ確認中』
船と自分を同じ一つへ数えられ、カナタは言い返せなかった。
「左ぃぃぃ!」
ナギの声が甲板へ響く。
「見えてる!」
カナタは船首で十三枚目の現在図を広げていた。
地図は正しい。
黄緑の案内旗も見える。
左四十三歩。
帰還門。
減速布。
アカリ。
全部、見えている。
それでも、白旗の中央には別の村が浮かんでいた。
昔の発着場。
カナタの家。
父アステル。
金色の帰還路が、第一歩号の船首をまっすぐ引く。
「父ちゃんの道が強い!」
「舵を離して!」
ルゥが操舵輪へ全身でしがみつく。
「俺、触ってない!」
「白旗を船首から外して!」
「帰る旗だぞ!」
「今は錨になってる!」
白旗から伸びる金糸が、九転脈輪へ絡んでいた。
帰る者の記憶。
来た道。
出発した場所。
三つが一つへ重なる。
第一歩号は、現在の帰還門ではなく、出発した日の発着場へ向かう。
「四十三歩、左!」
ナギが現在鈴を鳴らす。
五つ。
アカリの声。
『こっち!』
黄緑の旗が大きく振られる。
「受け取った!」
カナタは白旗を船首から抜く。
金糸が伸びたまま。
「《未踏路》! アカリの一歩へ!」
一枚の光板が生まれる。
第一歩号の左前。
船は乗り上げる。
少しだけ左へ曲がった。
「あと四十歩!」
「一枚で三歩!」
「十三枚!」
「今、計算できるの!?」
「数字は十まで!」
「足りない!」
カナタは次の光板を出す。
一枚。
二枚。
三枚。
金色の帰還路が光板を昔の発着場へ曲げる。
「俺の道まで!」
「行き先を言い直して!」
「今のカゲノハ村!」
光板が揺れる。
「アカリの旗!」
少し左。
「帰還門!」
さらに左。
「十三枚目の地図!」
光板は現在の道へ重なった。
第一歩号が大きく曲がる。
帰還門の外輪が正面。
「入る!」
セノが斜め留め具を開く。
門が第一歩号の角度へ傾いた。
「減速布!」
トウヤとフィオが二十枚を空へ広げる。
一枚目。
船首の鍋蓋が受ける。
「第六翼、減速!」
「鍋蓋!」
二枚目。
十連雨帆が巻く。
三枚目。
八脚雲着輪へ絡む。
四枚目。
九転脈輪が帰り道ごと巻き取る。
第一歩号は減速した。
少し。
「まだ速い!」
帰還門をくぐる。
内輪。
外輪。
二つの間の一歩ぶんの空白。
第一歩号は大きすぎた。
「最後の一歩、誰が踏む!」
アカリが叫ぶ。
「俺!」
カナタが船首を蹴る。
「船は!?」
「あとから!」
「船長!」
白旗を抱え、空白へ飛ぶ。
アカリが門の内側から手を伸ばす。
カナタの足が、最後の一歩へ触れる。
その瞬間。
第一歩号の船首に巻きついた金色の帰還路が、昔の発着場をもう一度引いた。
船体が右へ振れる。
カナタはアカリの手を掴む。
第一歩号は帰還門をくぐったあと、横向きになった。
「右!」とルゥ。
「右に荷下ろし台!」とナギ。
「左!」
「左に旅人宿!」
「上!」
「朝火窓!」
「下!」
「広場!」
「じゃあ前!」
「英雄像!」
第一歩号の船首が、石像の長すぎる鼻へ当たった。
ごん。
鼻が折れる。
船首の鍋蓋へぴたりとはまった。
「第十一翼!」
「鼻!」
像が後ろへ傾く。
大きすぎる胸板が帰還門の柱を避け。
長すぎる脚が荷下ろし台をまたぎ。
最後に、巨大な白旗だけが第一歩号の帆へ絡んだ。
「英雄が船を止めた!」
カナタが喜ぶ。
「本人が壊した!」
像の重さで第一歩号は回転する。
一回。
二回。
三回目。
広場の端に、昔と同じ大きな苔玉があった。
今は子ども用の落下練習具。
柔らかい。
安全縄つき。
第一歩号が頭から刺さった。
ぼふん、と青い胞子が朝の光へ舞う。
しばらくして、苔玉からカナタの腕だけが突き出た。
「ただい――」
途中で止まる。
アカリが隣の胞子から這い出した。
十三歳のころより背が伸びている。
短い黒髪。
へこんだ薬箱。
黄緑の旗。
「到着?」
カナタは周囲を見る。
毎日入る朝の光。
四本の桟橋。
知らない旅人。
二階建てになった自分の家。
三台の机が見える作業小屋。
鼻を失った英雄像。
白髪の増えた村長。
大きくなった子どもたち。
知っている場所と。
知らない暮らし。
同じ枝にある。
「父ちゃんの部屋は」
「今は旅人宿の納戸」とアカリ。
「俺の部屋」
「荷物庫」
「先に見る!」
「先に、今いる人へ返事」
「場所は分かってる!」
「だから、あとで案内する」
カナタは旅人宿へ走ろうとした。
足が一歩だけ出る。
黄緑の旗が広場を示す。
帰ると決めたのは、今の村だ。
それでも、最初に確かめたくなったのは、昔の部屋だった。
「……船を抜く!」
カナタは苔玉へ潜った。
「逃げた」とザンバ。
「何から!」
「四文字だ」
「読める!」
「言えていない」
「あとで言う!」
村人たちが笑った。
帰ってきた英雄を迎える笑い。
第一歩号の仲間を迎える笑い。
壊れた像を見る笑い。
けれど、カナタだけはまだ。
自分がどこへ帰ってきたのか、分かっていなかった。
苔玉から船を抜いたあと、カナタは階段の最後の一段を跳ばなかった。
いつもなら着地と同時に、小声で「到着」と言う。今は右膝をかばい、片足ずつ地面へ置いた。着いたと言えば、何へ着いたか決めなければならない気がした。
マツバ婆は温石を一つ、カナタの膝へ当てる。
「二年近く痛みを隠したね」
「助走だ」
「なら、今日は助走を休みな」
アカリはその会話を現在図の余白へ書かなかった。代わりに、本人の体調札を一枚渡し、自分で書かせた。帰還者を昔の元気な形へ戻さないためだった。
第一歩号を苔玉から抜くまで、二刻かかった。
一刻目。
トウヤが《昇標》で船尾を持ち上げる。
力を入れすぎ、船首がさらに深く刺さった。
二刻目。
フィオが翼風で胞子を払う。
風向きを間違え、広場中が青くなった。
最後はザンバが船尾を持ち。
ルゥが八脚雲着輪を動かし。
ナギが第一歩号へ五つの合図を送り。
アカリが苔玉の反対側から配達綱を引いた。
「今!」
全員で一歩。
第一歩号が抜けた。
勢い余って英雄像の胴へぶつかる。
大きすぎる胸板が外れた。
「二回目!」
「帰還祝いが減っていく!」
「像のほうが弱い!」
「船と比べるな!」
村長は額を押さえた。
石工は弁償板を出した。
アカリはすでに書いている。
――帰還門、外輪一部。
――英雄像、鼻、胸板。
――苔玉、表面二割。
――減速布、十二枚。
「帰還祝いで借金が増えた!」
「帰った証」とザンバ。
「もっといい証があるだろ!」
「四文字」
「あとで!」
帰還広場には、朝食が用意されていた。
焼き根芋。
茸汁。
朝火で焼いた平パン。
紫岸の甘い果実。
トマリギ島から届いた輪菓子。
三番港の塩菓子。
ミナモの歯車飴。
ノクティルの星芋。
各地の品が、一枚の長机へ並んでいる。
「全部、来た道!」
カナタの目が輝く。
「食べる前に挨拶」とルゥ。
「食べながら!」
「口へ入れる前!」
村人たちが広場へ集まった。
カナタが知っている顔。
知らない顔。
途中で村へ来た旅人。
生まれた子ども。
亡くなった人の空いた場所。
増えた椅子。
減った椅子。
村長が杖を上げる。
「カナタ」
「おう!」
「帰還を――」
「待って」
アカリが止めた。
「先に、本人」
広場中の目がカナタへ向く。
「その前に、父ちゃんの旗は?」
カナタが記録棚の方角を見た。
「保管中」とオウギ。
「先に見る!」
「先に今の村へ返事」とアカリ。
「一目だけ!」
「村の話を聞いたあと」
カナタの足は記録棚へ向いたまま止まった。
帰ると決めたことと、帰った瞬間に昔を探すことは、同じ胸の中にあった。
白旗。
旅の傷。
少し伸びた背。
十五歳で出た少年は、十六歳になっていた。
言葉は用意していた。
世界の果てへ着いた。
向こうにも人がいた。
父は村を捨てていなかった。
十本の旗を得た。
全部、話したい。
けれど、最初の言葉は四文字でなければならない気がした。
「た――」
広場の後ろで、英雄像の胸板がゆっくり倒れた。
ごん。
旅人宿の雨樋へはまる。
「使える!」とカナタ。
「逃げない!」
ルゥが襟を掴む。
「今のは事故!」
「今の村に起きたこと!」
アカリは笑わない。
待つ。
五番目の旗のように。
返事を急がない。
カナタは口を開く。
「帰ってきた!」
四文字ではない。
でも、嘘ではない。
村人たちが顔を見合わせる。