第247話 第四章「ただいまが言えない」前編

最初にマツバ婆が笑った。

「見れば分かるよ」

次にトウヤ。

「船が刺さった!」

フィオ。

「像も壊した!」

セノ。

「帰還門の斜め留め具、十七呼吸保った!」

ハルガ。

「帰ったなら、働け」

セルク。

「弁償を終えろ」

村長。

「話は朝食のあとだ」

返事がばらばらに来る。

誰も、用意された一つの言葉へ揃えない。

それでもカナタの肩から、少しだけ力が抜けた。

「おかえりは?」

自分から訊いた。

「言ってほしいの?」とアカリ。

「少し!」

「じゃあ、ただいまって言って」

「交換!?」

「返事」

カナタは口を開く。

まだ出ない。

「朝食!」

「逃げた!」

「腹が減った!」

「本当だから困る!」

長机へ走る。

輪菓子を一つ。

星芋を二つ。

歯車飴を三つ。

十個まで数え。

十一個目の平パンを新しい一として取る。

「帰還者が最初にすることが食い逃げ!?」

「食ってから話す!」

「払うのは村!」

笑い声が広場へ広がる。

アカリは現在図へ一行足した。

――第一歩号、帰還門通過。

――乗員四名、船一隻、現在。

――船長、帰還を申告。

――「ただいま」、未了。

「未了って書くな!」

「終わってない」

「あとで終える!」

「誰が決める?」

「俺!」

「受取先は?」

カナタは広場を見る。

「……みんな」

「じゃあ、みんながいるとき」

アカリは札を閉じた。

「今は朝食」

カナタは平パンへかじりつく。

味は、出発前と少し違った。

朝火が強くなったぶん、表面がよく焼けている。

同じ村のパン。

同じではない味。

カナタは二口目を、少しゆっくり噛んだ。

朝見学の案内役は、カナタではなかった。

トウヤは風を踏む前に右肩を一度回し、フィオは暗い朝窓へ入る前に翼旗の糸を二本だけ指へ巻く。セノは眩しい銀枝を帽子のつばで隠しながら、自分が改造した光窓の失敗箇所から説明した。

「ここ、最初は開きすぎて畑を焼いた」

「直した!」とカナタ。

「僕たちが」

セノは一人称を強くした。カナタは言い直す。

「直したんだな。次、どこを見せる?」

自分の村なのに、案内される側へ回る。先頭でない朝にも、見るものはあった。

カゲノハ村には、朝が毎日来るようになっていた。

一つ鐘で、上の枝葉を折り畳む。

二つ鐘で、光を広場へ。

三つ鐘で、畑と薬師渡りへ。

四つ鐘で、機巧小屋の銀枝へ。

五つ鐘で、旅人宿の食堂へ。

六つ鐘のあと、葉はゆっくり戻る。

薄暗さは残っている。

青白い苔灯りも。

村人たちは朝だけを選び、夜を捨てなかった。

「太陽が毎日!」

カナタは自分の影を追って広場を走った。

「前にも見たでしょ」とルゥ。

「村で!」

「出航の日にもあった!」

「あの日は船を見てた!」

「柵を壊してた!」

「出航してた!」

影は英雄像の足元へ重なる。

実物のカナタより、像の影のほうが大きい。

「負けた!」

「影と競わないで」

「俺の影だぞ!」

「像の」

「俺の像!」

胸の奥が、少しだけ持ち上がった。

話を間違えられるのは嫌だった。

けれど、村が自分の帰りを大きな石へ刻もうとしたことは、ほんの少し嬉しかった。

嬉しいと認めると、像の鼻まで自分に似ている気がしてくる。

「本人未確認」

アカリが現在札を指す。

カナタは像を見上げた。

鼻はない。

胸板もない。

それでも、実物より立派に見える。

白旗を高く掲げ、世界の果てだけを見ている。

「似てる?」

アカリが訊く。

「旗は似てる!」

「顔」

「もっと格好いい!」

「像が?」

「俺が!」

「そこは変わってない」とルゥ。

広場の端では、子どもたちが《英雄カナタごっこ》をしていた。

一人が鍋蓋を二枚持つ。

一人が黒い布を巻いてザンバ役。

一人が工具箱を投げるルゥ役。

ナギ役の子は、鈴を鳴らし続ける。

「世界の果てへ着いたカナタは!」

鍋蓋の子が叫ぶ。

「一人で空を殴って、向こうの人を百人助けた!」

「違う!」

本人が飛び込む。

「百八十六人!」

「そこ?」とルゥ。

「一人じゃない!」

子どもたちが目を輝かせる。

「本物!」

「星喰いを拳で倒した?」

「倒してない!」

「腹の中から星を出した?」

「入ってない!」

「世界の果てに旗を立てた?」

カナタの口が止まる。

「立ててない」

「どうして?」

「向こうにも人がいた」

「先に立てられてた?」

「旗を立てる場所を、一歩空けた」

「負けた?」

「違う!」

即答する。

けれど、胸に小さな悔しさが残っている。

今も。

「最初じゃなかった。でも、会えた」

「どっちがすごい?」

「会えたほう!」

子どもは納得したような、していないような顔。

鍋蓋を一枚、カナタへ渡す。

「やって」

「何を?」

「本物の着地」

「任せろ!」

「やめなさい!」

ルゥが鍋蓋を取り上げる。

「帰った初日に、村で落ちない!」

「昨日落ちた!」

「二日続けない!」

子どもたちは笑って走り去る。

カナタは英雄像を見る。

像は、迷わない。

後ろを見ない。

帰ることも。

間違えることも。

先頭を譲ることもない。

世界の果てだけを指している。

「俺、こんな顔してた?」

「出発の日は」とアカリ。

「今は?」

「もう少し、後ろを見る」

「成長!」

「迷う時間が増えた」

「同じか?」

「違う」

アカリは像の台座へ新しい札を貼った。

――本人確認中。

――物語と事実の違い、説明予定。

「像に説明する?」

「見る人」

「俺が毎日話す!」

「自分の話ばっかりしないで?」

カゲノハ村を出る前夜、返事の鐘を作ったときと同じ言い方。

カナタは少し笑う。

「今の村の話も聞く」

「じゃあ、案内」

アカリは黄緑の旗を上げた。

「先頭、私」

「俺、二歩目!」

「走らない」

「歩く!」

「追い越さない」

「分かってる!」

二歩で横へ並んだ。

「もう!」

「隣!」

「今日は後ろ!」

カナタは一歩下がる。

故郷の新しい朝を、知らない人のように案内される。

少し寂しい。

少し面白い。

どちらも、同じ足の中にあった。

台座の文字を読む時、カナタは指で一行ずつ追った。分からない字を勢いで別の字へ決める癖が出かけ、アカリが無言で指を止める。

「読めないなら、聞いて」

「英雄なら読める!」

「本人の条件に入ってない」

広場の子どもが一枚目を読み、鍛冶見習いが二枚目を読み、紫岸の旅人が三枚目を別の言葉で読んだ。同じ功績でも、助けられた場所から見える形は違う。

カナタは自分の像の影へ立たず、読み手の横へしゃがんだ。像より大きい声で話すことはできても、台座を一人の物語へ戻さないためだった。

アカリの案内は、英雄像から始まった。

「さっき見た!」

「何のために作ったか聞いてない」

「石工が暇だった!」

「村長の言い訳」

像の台座には、十枚の小さな金属板が並んでいる。

一枚目。

――道のない空へ一歩を作った。

二枚目。

――帰る場所を増やした。

三枚目。

――別々の島を救った。

四枚目。

――未完成の町を完成させた。

「違う!」とカナタ。

「四番目は、未完成を渡した!」

五枚目。

――止まらない船団を止めた。

「全船停船!」

「細かい」

「大事!」

六枚目。

――世界の果てへ最初に着いた。

「最初じゃない!」

七枚目。

――帰らない死者を連れ戻した。

「連れ戻してない!」

八枚目。

――八つの雲の先頭になった。

「譲った!」

九枚目。

――間違った町を正しい道へ進めた。

「戻った!」

十枚目。

――余りを一つへまとめた。

「潰してない!」

カナタは台座へ両手をついた。

「全部、逆だ!」

村長が杖をつく。

「短く刻むと、そうなる」

「短くしすぎ!」

「石が足りなかった」

「像を小さくしろ!」

「今さらだ」

カナタは十枚を外そうとする。

アカリが手を止めた。

「消す?」

「直す!」

「どうやって」

「全部話す!」

「台座へ?」

「見る人へ!」

アカリは空白の十一枚目を出した。

「じゃあ、訂正板」

「十一番目?」

「違う。十枚の説明」

カナタは板を受け取る。

書ける字は増えた。

カナタ。

一から十。

道。

今。

戻る。

帰る。

それでも、十本の意味を全部書くには足りない。

「ルゥ!」

「自分で書きなさい」

「字が足りない!」

「覚える」

「今!?」

「帰ってきた英雄の最初の仕事」

「門の修理じゃない?」とセノ。

「像の弁償」とアカリ。

「朝食の次に難しい!」

広場の机へ板を置く。

カナタは一文字ずつ教わった。

――最初ではなく、先客を迎えた。

――連れ戻したのではなく、終わった道を残した。

――先頭になったのではなく、二歩目を踏んだ。

――正しい道へ進めたのではなく、間違いを認めて戻った。

――余りをまとめたのではなく、違うまま次へ渡した。

一日では書き終わらない。

板の半分で六つ鐘が鳴った。

「続きは明日」

アカリが言う。

「今日終わらせる!」

「夜」

「苔灯り!」

「帰って初日」

「二日目!」

「昨日は到着事故」

「一日!」

「寝る」

「英雄は寝ない!」

「像は」

アカリは石像を指す。

「本人は寝る」

カナタは像を見る。

世界の果てを指したまま。

話を間違えられても何も言わない。