第248話 第四章「ただいまが言えない」後編

「像、楽だな」

「代わる?」

「腹が減るから嫌だ!」

板は未完成のまま、台座へ立てかけた。

誰かが次に読む。

カナタが明日、続きを書く。

今度は、未完成を失敗と呼ばなかった。

キヌ婆は入口で鍵束を二度鳴らした。

「今夜の鍵は、客室一。昔の子ども部屋の鍵じゃないよ」

「俺の家なのに、客!?」

「今の宿へ泊まる旅人」

靴は戸口へ向けず、疲労の重い順に椅子へ近く並べられている。カナタの靴は右膝を見抜かれ、一番近い場所だった。

受付台になった昔の食卓には、五つの席がある。紫岸の家族、荷待ちの旅人、キヌ婆。カナタは空いている一席を見つけても座れず、立ったまま冷えた根芋へ息を吹いた。

「席を空けてほしかったんだろ」とザンバ。

「……俺がいなくても、ここ、進んでたな」

「進んだよ」とキヌ婆。「それでも、今夜の席は一つ空いてる」

カナタはようやく座った。昔の自分の席ではなく、今日の客の席へ。

その夜。

カナタは、自分の家だった旅人宿の前へ立った。

二階建て。

横に食堂。

入口には、五つの言葉で《旅人宿カゲノハ》と書かれている。

カナタは最初の三文字しか読めなかった。

「俺の名前じゃない!」

「村の名前」とアカリ。

「昔は家だった!」

「今は宿」

「知ってる!」

知っている。

現在図にもあった。

何度も連標で聞いた。

それでも、扉を開けると胸が少し遅れた。

受付台。

アステルと食事をした机。

父が鍋を焦がした黒い跡が、客の名簿の下に残っている。

壁の身長傷。

七歳。

八歳。

九歳。

十歳の線だけ、指一本ぶん高い。

『来年には届く』

父が刻んだ。

届かなかった。

今は傷の前へ、旅人の荷箱が積まれている。

紫岸の鏡布。

迎え岸の紙舟。

無灯泊の黒帆。

カナタが歩いた場所から来たものもある。

知らない場所から来たものも。

「動かす?」

アカリが訊く。

「傷が見えない」

「荷物の受取人、明日」

「一日だけ!」

「どこへ置く?」

カナタは周囲を見る。

食堂は満席。

廊下も荷がある。

昔の自分の部屋だった納戸には、旅人の寝具が積まれている。

「俺の部屋」

「だった場所」

「戻せる?」

「何を出す?」

「荷物!」

「どこへ」

「外!」

「雨」

「倉庫!」

「南荷道の交換板でいっぱい」

「第一歩号!」

「修理中」

カナタは箱へ手をかけた。

鏡布の荷札が見える。

受取人。

旅人宿の客。

明日、紫岸へ帰る人。

自分の傷を見るために動かせば、今いる人の道を変える。

手を離した。

「明日、荷が出たら見る」

「傷、消えない?」

「壁にある」

「荷物で見えない」

「見えないだけ」

七番目の旗。

歩けない道も、記録に残る。

カナタは荷箱の端へ小さな札を立てた。

――後ろに身長傷。

――荷出し後、確認。

「現在札みたい」とアカリ。

「俺も書ける!」

「字、曲がってる」

「道みたいだ!」

「迷う」

客室一へ案内される。

新しい布団。

新しい枕。

窓の位置も違う。

昔の家なのに、旅人として泊まる。

「変な感じ」

「嫌?」

「分からん」

「言えた」

「何が」

「分からない」

「成長!」

カナタは布団へ倒れる。

天井に、昔の焦げ跡が残っていた。

父が灯りを落とした跡。

その横に、新しい梁。

旅人宿へ広げたときに足したもの。

二つを同時に見る。

「アカリ」

「何」

「俺、ここへ帰った?」

「着いた」

「同じ?」

「違う」

「ただいまって、着いたら言うんじゃないのか」

「言いたくなったら」

「待ってる?」

「朝の配達がある」

「待たないのか!」

「村にはいる」

アカリは客室の鍵を机へ置いた。

「帰る人だけを見てたら、今いる人へ届けられない」

扉を閉めかけて、もう一度開く。

「夕食、まだ?」

「朝食を十回ぶん食った!」

「それは朝」

「じゃあ食う!」

食堂の片づけが終わったあと。

カナタは受付台になった古い食卓へ座った。

父と向かい合った机。

アステルが鍋を焦がし。

カナタが嫌いな根菜を父の皿へ移し。

父がいなくなってからも、何度も一人で食べた机。

けれど、そのころは向かい側へ椀を一つ置いた。

帰ってくる席だと思っていた。

今、父の席だった場所には宿帳が積まれている。

今日泊まっている人の名。

明日出る人の行き先。

カナタは宿帳をどかそうとし、手を止めた。

自分の椀だけを、空いた端へ置く。

父の分は出さなかった。

茸汁を一口。

出発前より塩が薄い。

紫岸の客に合わせた味だという。

「うまい」

向かい側から返事はない。

二階から旅人の笑い声。

台所から皿を洗う音。

父のいない食卓は、空ではなかった。

キヌ婆が宿帳を閉じ、鍵束を二度鳴らした。

「その席、アステルさんの席だったって、毎晩みんなへ言うのかい」

「聞きたい人には!」

「なら、相手の話も一つ聞きな」

向かいに座った紫岸の旅人は、昔の家を海へ落とした話をした。戻る家はなく、旅人宿の食堂を今夜の帰る場所に選んだという。カナタは父の焦げ跡を三度説明しかけ、二度目で止めた。

「そっちは、何へ帰る?」

自分から問い、返事の途中へ割り込まない。旅人が話し終えるまで、冷めた茸汁へ息を吹き続けた。

キヌ婆は笑い、カナタの椀を父の席ではなく宿帳の横へ置き直す。

「昔の家主の子でも、今夜は客の一人。明日の朝、皿洗いを一人ぶん」

「英雄なのに!?」

「今いる宿の人手が足りない」

カナタは文句を言いながら受け取った。席を空けてもらうことと、特別扱いされることは同じではなかった。

父がいないことと、誰もいないことは違った。

「父ちゃんなしで、ここへ帰って食うのは初めてだ」

誰へでもなく言う。

アカリは答えず、受付の端へ明日の配達札を置いた。

今の音を、そのまま聞かせた。

夜が深くなってから、カナタは客室一へ上がった。

カナタは一人になる。

旅人たちの寝息。

食堂の片づけ。

外の帰還門。

自分がいなくても続いてきた家の音。

昔よりにぎやかだった。

寂しいとは、まだ言わなかった。

扉を三度開ける前に、ルゥは工具箱の蓋も三度叩いていた。

片眼鏡をつければ、古い机の傷も、セノの斜め留め具も、フィオの風路図の細い修正も見える。外せば、三十歩先の二人の顔は少し滲む。

左手首が痛み、銀鋲を一本抜く。怒りではなく、今の負荷を周囲へ知らせる合図だった。

「古い机の右側は、僕が使っています」

セノは挨拶より先に言った。銅杭を握る手が白い。

「返して、って言うと思った?」

「言われても、全部は返しません」

フィオも風路図の上へ腕を置く。古傷の肩が上がりきらず、片側だけで守る姿勢になった。

ルゥは二人を見て、少し笑った。

「なら、私の場所も本人抜きで決めないで。三人で測る」

停止係ではなく、一人の機巧師として机へ入る言葉だった。

ルゥは、機巧小屋の扉を三度開けた。

一度目。

中を見る。

閉める。

二度目。

古い机を見る。

閉める。

三度目。

「入らないの?」

フィオが中から訊いた。

「今、入る!」

「二回帰った」

「扉の確認!」

ルゥは工具箱を抱え直し、機巧小屋へ入った。

「ルゥが帰ったから、いったん空ける!」

カナタが古い机の前にいた。

フィオの風路図を丸め。

セノの斜め留め具を箱へ入れ。

見習い二人の失敗歯車まで、床へ移そうとしている。

「何してるの!」

工具箱が飛んだ。

カナタは白旗で受ける。

「机を戻す!」

「誰の許可で!」

「ルゥの机だろ!」

「今、使ってる人がいる!」

「一回空けてから話せばいい!」

「空けた時点で、私が昔へ戻すって決めてるでしょ!」

カナタの手が止まる。

現在図では知っていた。

三人分になった机を、頭では受け取っていた。

それでも実物を見た瞬間、出発の日の形へ戻す手が先に動いた。

「……戻さない?」

「まず、今の使い方を聞く」

ルゥは図面を広げ直し、留め具を元の場所へ戻した。

カナタも失敗歯車を拾う。

「これ、壊れてる」

「だから残してるの」

「四番目!」

「分かったなら、番号じゃなく名前を読んで」

歯車の札には、見習いの名があった。

カナタは曲がった字を、時間をかけて読んだ。

昔より狭い。

机が三台。

壁に図面。

天井から斜め留め具。

床には、帰還門の外輪模型。

ルゥの古い机は一番奥。

傷も。

焦げ跡も。

銀鋲の穴も残っている。

その上に、フィオの風路図。

セノの留め具。

見習い二人の失敗歯車。

「勝手に使った?」

ルゥが訊く。

「使っていいって書いてあった」

フィオが机の端を指す。

出航前、ルゥが刻んだ文字。

――使っていい。

――変えた場所に日付。

日付は増えていた。

一つ。

十。

二十七。

机の脚を二指短くした日。

引き出しを一つ増やした日。

風路測定用の溝を掘った日。

「私の机、低くなってる!」

「フィオに合わせた」とセノ。

「私は低くない!」

「ルゥより一指」

「測ったの!?」

「昔の記録」

「今は伸びた!」

「測る?」

「あとで!」

ルゥは机の引き出しを開ける。

自分の工具は、右端の箱へまとめられていた。