第249話 第五章「四人の現在」前編
錆びていない。
一月に一度、油を差した記録。
使われた工具もある。
勝手に削られた柄。
新しい持ち手。
「戻していい?」
セノが訊く。
「何を」
「机の高さ」
ルゥの口が開く。
戻して。
自分の机だから。
言いかける。
フィオの風路図が見える。
帰還門の減速風。
ルゥがいない一年八か月、村の船を止めた線。
「今、誰が使う?」
「午前、フィオ。午後、私。夜、見習い二人」とセノ。
「四人!」
「机は一台」
「増やしなさい!」
「場所がない」
ルゥは壁を見る。
アカリの配達棚。
帰還門の予備輪。
ハルガの古い炉。
「壁を一枚動かす」
フィオが言う。
「荷道へ出る」とセノ。
「荷道を半歩下げる」
「旅人宿の裏へ当たる」
「上へ増やす」
「朝火窓の光を塞ぐ」
三人で図面を引き始める。
ルゥは立ったまま。
自分の机へ帰ったはずなのに、話へ入る場所がない。
ハルガが奥の炉から声を出した。
「帰ったなら、仕事を取れ」
「どれですか」
「自分で見つけろ」
「師匠!」
「もう見習いではないんだろ」
世界の果てまで行った。
天衡機を直した。
十の町の機巧を第一歩号へ載せた。
それでも、ルゥはハルガの前で少しだけ背筋を伸ばす。
「航路機巧師です」
「なら、机を待つな。作れ」
ハルガは新しい板を一枚、床へ落とした。
カゲノハ村の古木。
紫岸の鏡布で補強。
ミナモの銀枝を一本。
「材料、そろってる!」
「お前が送ってきた」
「使ってなかったんですか」
「帰る日を決めてから組むつもりだった」
「待ってた?」
「材料が」
「師匠」
「仕事をしろ」
ハルガは炉の向こうから出てきた。遠くの板を見る時は目を細め、右膝を庇って三十歩目で一度止まる。若いころの古傷を「炉の床が悪い」と言い続けている点だけは、カナタと似ていた。
「今日は二十八歩目まで見える。新しい机の奥行きは、お前らで測れ」
ルゥは師の限界申告へ一瞬だけ目を丸くする。昔のハルガは、弟子へ不調を見せなかった。
「待ってたなら、待ってたって言ってください」
「空の小屋を守るのは簡単だ。戻った弟子へ仕事を渡すほうが難しい」
ハルガは新しい板へ自分の印を入れず、測り紐だけ渡した。
「俺の机にするな。お前の机だけにもするな。次に勝手に変える奴の場所を残せ」
ルゥは銀鋲を一本、セノへ渡す。もう一本をフィオへ。最後の一本だけ、自分の名の横へ打った。
「師匠の名前は?」
「材料帳にある」
「ここにも書きます」
「好きにしろ」
嫌そうな声なのに、ハルガは板の木目を最も見やすい向きへ直した。
ルゥは新しい板を古い机の横へ置く。
同じ形にはしない。
高さを今の自分へ合わせる。
フィオの風路図が見える角度。
セノの留め具を試せる溝。
第一歩号の部品を広げる幅。
「私の机、作る」
「古いのは?」とフィオ。
「使う」
「二台?」
「必要なとき」
「返してって言わない?」
「言わない」
少し間。
「でも、この引き出しは半分返して」
「全部じゃない?」
「私の字が入ってる」
「どこ」
引き出しの裏。
幼いルゥが書いた、自分の名前。
今より崩れている。
「残す?」
「新しい机にも書く」
「同じ字?」
「今の字」
ルゥは銀鋲を一本、新しい板へ打った。
帰るとは、古い机を取り戻すことではない。
古い傷と、今の手を、同じ作業場へ置き直すことだった。
それを言葉にする前に。
外で大きな音がした。
「カナタ?」
「英雄像の腕が落ちた」とアカリの声。
「本人じゃなかった!」
「安心する場所?」とセノ。
「少し!」
村の鐘が三つ重なった時、ナギの口に金属の味が広がった。
今日は右耳の鈴を外して休ませ、右耳へ栓を深くする。左耳には臨時の小鈴だけを残した。響路士だから全部を聞けるわけではない。感覚過負荷の前兆を、自分より先に帳面へ書く。
「今は、三つまで。四つ目は誰かに数えてもらう」
アカリが配達箱を一つ、ナギの足元へ置いた。セノは視覚札、キヌ婆は宿の鍵音。耳だけへ役目を集めない。
ナギは客室一の隣を見た。
「ここを帰る場所にする?」とカナタ。
「今夜は泊まる場所。帰る場所かは、あとで聞く」
「誰に?」
「私に」
本人確認前に名を置かない少女は、自分の行き先にも同じ空白を許した。
ナギには、カゲノハ村の思い出がなかった。
幼いころの橋も。
昔の家も。
アステルの顔も知らない。
それでも、村の音は知っていた。
一つ鐘。
薬師渡りの車輪。
旅人宿の食器。
セノが留め具を落とす音。
アカリが配達箱を五回叩く返事。
一年八か月、連標網の向こうから聞いた音。
ナギは帰還門の響路台へ、十個の結節鈴を並べた。
「ここが一番目」
アカリが言う。
「網の?」
「今は」
「最初から?」
「最初は村と第一歩号だけ」
「その次、トマリギ島」
「ナギが増やした」
「みんなで」
「じゃあ、半分ナギの道」
「半分って数える?」
「十番目の町なら怒る」
二人は笑う。
ナギは青い鈴を響路台へ固定した。
トマリギ島の音。
カゲノハ村の白杭へつながる。
「私、ただいまって言っていい?」
訊いた。
カナタには、村へ聞くと言った。
最初にアカリへ。
アカリはすぐ答えない。
「言いたい?」
「少し」
「何へ帰った?」
「連標網の一番目」
「村?」
「まだ分からない」
「じゃあ、今は」
アカリは響路台を五回叩く。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
「おかえり、響路士」
ナギの目が少し見開く。
「村人として?」
「そこは、これから聞く」
「誰に?」
「ナギと、村」
「今は役目だけ?」
「役目を持って帰るのも、帰る」
ナギは青い鈴を一度鳴らした。
「ただいま、連標網の一番目」
「受け取った」
近くで作業していたセノが顔を上げる。
「おかえり」
フィオも。
「おかえり」
トウヤ。
「次、天頂門まで競争!」
「それは歓迎?」
「たぶん」とアカリ。
マツバ婆が杖をついて来る。
「遠い声を毎日聞いてくれた子だね」
「はい」
「なら、帰ってきたよ。村の声を持っていって、また持ってきた」
「私の故郷は、トマリギ島です」
「一つで足りないなら、増やしな」
「簡単に」
「年寄りは欲張りだからね」
「欲張るなら、私の音を昔の村の音にしないで」
ナギは頼んだ。
「今日の私は、右耳を塞いでる。三つ以上の鐘は聞き違える。母さんの声なら、聞きたいほうへ判定が寄る」
マツバ婆はすぐ「それでも聞ける子」と褒めず、温石を響路台の横へ置いた。
「じゃあ、聞こえない日は、あたしたちが手を握るよ」
アカリが五本の指を出す。セノは視覚札。フィオは風の揺れ。トウヤは足音。村の現在確認を、ナギの耳だけへ載せない方法がその場で増えた。
「村人って、役に立てる人の名前?」
「違う」とアカリ。「役目がない日にも、ここにいる人」
ナギは青い帳面へ、初めて《休聴日》の欄を作った。返事を聞く者にも、返さなくてよい日がある。帰る場所は、その弱さを知ったうえで席を残す場所でもあった。
ナギは笑った。
帰る場所は、持ち歩かない。
けれど、一つに決める必要もない。
その場所にいる者と、帰る者が、互いに返事をするなら。
トマリギ島の青い旗も。
カゲノハ村の白い杭も。
どちらも、ナギの道に置ける。
その夜、ナギの寝る場所は旅人宿の客室二になった。
扉の札。
――響路士、滞在中。
「村人じゃない」とナギ。
「旅人とも決めてない」とアカリ。
「空白?」
「滞在中」
「逃げるため?」
「決めるまで」
十番目の旗と同じ。
空白へ、急いで名前を入れない。
ただし、誰が次に決めるかは残す。
札の下。
――次回確認、出航予定が決まった日。
「出航する?」
アカリが訊く。
「まだ」
「カナタは?」
「聞いてない」
「珍しい」
「帰ってきたばかり」
ナギは廊下の向こうを見る。
客室一。
カナタの部屋だった場所の隣。
灯りはまだ点いている。
故郷へ帰っても、すぐ次を決めなくていい。
それをカナタが分かっているかは、まだ未確認だった。
帰還広場へ入る前、ザンバは椅子を壁へ背を向けない角度へ置いた。
朝火の金色で機巧腕の接続部が疼く。幻肢の右手は、もうない指で黒旗の柄を握ろうとする。ザンバは痛みを罰として隠さず、生身の左手で留め具を外した。
「今日は、右で屋根を支えられない」
「じゃあ左で?」とカナタ。
「左は受け取る手だ。支柱は二人に頼む」