第250話 第五章「四人の現在」後編
以前なら一人で直せる場所ほど一人で背負った。今は、村人へ役目を渡し、責任だけを消さない。
ザンバは、帰還広場へ最後に入った。
第一歩号を抜くときも。
朝食も。
案内も。
いつも少し外側に立っていた。
かつて黒旗で村の道を切った男。
喰路竜ミチバミを連れ。
朝火を奪い。
天頂門の帰還路を断とうとした。
灰色の旗になっても、その記憶は消えない。
村人たちは、カナタへは近づく。
ルゥへ工具を見せる。
ナギへ鈴を頼む。
ザンバの前では、一歩ぶん空く。
「迎標か?」
ザンバが呟く。
「違う」とセルク。
「警戒だ」
試験官だった男は、以前より眉が白くなっている。
手には新しい板。
「請求書」
ザンバへ渡す。
表に大きな文字。
――ザンバ。
「監視役ではないのか」
「名前で書けと言われた」
「誰に」
「アカリ」
項目が並ぶ。
旧昇枝路、切断。
保守路、三本。
朝火祭壇。
住居、七軒。
負傷者。
泣いた子ども、十九人。
金額へできないものには、金額がない。
代わりに、現在状況。
――保守路二本、修復。
――一軒、旅人宿へ転用。
――負傷者、現在確認十四名。
――死亡者、記録三名。
――泣いた子ども、現在確認十七名。
「二人足りない」
「村を出た」
「行き先は」
「一人は三番港。一人は不明」
「不明を、いなくなったと数えたか」
「数えていない」
セルクはザンバを見る。
「お前たちが送った言葉だ」
広場の端から、一人の少年が近づいた。
ザンバが喰路竜ミチバミとともに現れた日、彼を見て泣いた子どもの一人。
今は背が伸び、腰に小さな鍛冶旗。
少年は請求板を投げず、ザンバの左手へ渡した。
「ミチバミの腹から助けた橋板、まだ使ってる」
「そうか」
「だから、壊した日だけで終わらせない。今の修理当番も書く」
許さないと言いながら、翌日の仕事を渡す。ザンバが欲しかったのは赦免ではなく、その日常だった。
弁償板へ、丸を一つ書く。
「今日は?」とザンバ。
「泣いてない」
「そうか」
「でも、許してない」
「ああ」
「帰ってきたら、また数えるって言った」
「ああ」
「帰ってきた?」
ザンバは答えない。
カゲノハ村は自分の故郷ではない。
帰るとは言っていない。
ただ、第一歩号と同じ道へ着いた。
「着いた」
「じゃあ、続き」
少年は小さな鉄板を渡す。
屋根の留め具。
「壊した家の屋根、今は工房」
「直せと?」
「一緒に」
「許していないのに」
「許さないと仕事できない?」
ザンバの片目が細くなる。
「いや」
「じゃあ、来て」
少年は先に歩く。
ザンバは一歩遅れてついていく。
セルクが請求書を外套へ押し込む。
「逃げるな」
「監視役は誰だ」
「村全員」
「多いな」
「お前が切った道より」
工房の屋根では、オウギが待っていた。
片脚の古傷。
現標板。
「遅い」
「一年八か月ぶんか」
「十年ぶんだ」
ザンバは屋根へ上がる。
昔、自分が切った保守路の向こう。
アステルと進んだ天頂門。
村へ戻った道。
「おかえりとは言わんぞ」
オウギが言う。
「求めていない」
「よう来た、とも言わん」
「ああ」
「そこ、持て」
重い屋根板を指す。
ザンバは片手で持ち上げる。
「今いる者としては数える」
オウギが留め具を打つ。
許しではない。
拒絶でもない。
責任ごと、現在へ置く返事。
ザンバは灰旗を屋根へ立てかけた。
黒い点から伸びる十本の道が、朝の光を受ける。
昔より、少しだけ薄い灰色だった。
三日目の案内で、アカリは一度だけ立ち止まった。
薬箱のへこみへ親指を当て、眩暈が通り過ぎるまで数える。カナタが腕を出すより先に、右手の体調札を渡した。
「支えて、じゃない。これ、現在図へ入れて」
左手で自分の名を書く。案内役の不調を地図から外せば、また一人へ帰路の重さが集まる。
カナタは札の角を丸く切った。
「人の名前だから」
「切り方、歪んでる」
「今の俺が切った!」
誤りを消さず、誰が直すか分かる形で残した。
アカリの案内は、三日かかった。
一日目。
広場と旅人宿。
二日目。
機巧小屋と南荷道。
三日目。
薬師渡り。
「橋がない!」
カナタは古い薬師橋の入口で叫んだ。
十三歳のアカリへ熱冷ましを届けた道。
正規橋は枝蟲に食われ。
根道を通り。
最後は鍋蓋で飛んだ。
今、入口の先には空しかない。
「終えた」とアカリ。
「直さなかった!?」
「新しい橋がある」
少し右。
幅の広い《薬師渡り》。
手すり。
苔灯り。
荷車がすれ違える。
「こっちが近い?」
「安全」
「飛ばなくていい?」
「飛行禁止札、移した」
入口に大きな文字。
――鍋蓋による飛行、禁止。
「俺の名前はない!」
「全員」
「じゃあ、別の蓋なら!」
「道具の形じゃなく行為!」
カナタは古い橋の跡へしゃがむ。
「板、全部なくした?」
「一枚残した」
アカリは薬箱から、小さな木片を出す。
縁に、鍋蓋が擦った丸い傷。
古い橋板。
「これ!」
「記録棚にある」
「歩けない」
「終わったから」
「直せば歩ける」
「新しい橋がある」
「でも、俺が通った!」
「私も」
アカリは橋板を持つ。
「だから残した」
「道は?」
「残さなかった」
「同じじゃない?」
「違う」
古い薬師橋を歩けるまま残せば、帰還路は記憶の橋を現在地として出す。
崩れかけた板へ、帰る人を導く。
終わらせる必要があった。
けれど、使った人の名。
運んだ薬。
カナタの飛行禁止札。
橋板一枚。
全部、配達所の記録棚にある。
「道がなくても、来たことは消えない」
「七番目」
「ヨイから教わった」
「連標で?」
「紙旗」
アカリは新しい薬師渡りへ一歩出る。
「今度は、こっちを覚える」
カナタは古い入口を見る。
寂しい。
言葉が胸まで来る。
「少し、嫌だ」
口に出した。
アカリが振り向く。
「橋を終えたのが?」
「俺が知ってる道がない」
「戻す?」
カナタは新しい橋を見る。
子どもが薬を運ぶ。
杖の老人。
荷車。
今いる人が使っている。
「戻さない」
「嫌なのに?」
「嫌でも、今のほうがいい」
「両方言える」
「難しい!」
アカリは現在図の端へ書く。
――カナタ、旧薬師橋の終了を確認。
――寂しい。
「そこまで書くな!」
「現在」
「消せ!」
「終わったことにする?」
「残す!」
薬師渡りを渡る。
カナタは二歩目。
途中で追い越しそうになり。
一歩戻る。
橋の中央から、古い入口が見えた。
なくなった道。
残っている記録。
今使う橋。
三つとも、故郷の中にあった。
予定欄の前で、カナタは仲間の行き先を自分の旅へ足さなかった。
「ルゥ。次、どこへ行きたい」
「しばらく小屋。逆さ銀樹へ戻る便も考える」
「ナギ」
「トマリギ島と、ここ。順番は未確認」
「ザンバ」
「村の屋根を一枚直す。それから決める」
カナタは三人の予定を自分の欄へ書かず、別の札へした。
「俺は?」
「本人へ確認」とアカリ。
白い空欄は、何でも勝手に入れてよい場所ではない。本人が答えるまで空ける場所だった。
四日目の朝。
帰還広場の予定板へ、新しい欄が増えた。
――カナタ、帰還後の予定。
「空白!」
カナタが喜ぶ。
「何でも入る!」
「決めてないだけ」とアカリ。
「次の冒険!」
「帰ったばかり」
「千声湖!」
言ってから止まる。
逆雨原を発つとき、今は行かないと決めた場所。
まだ消えていない。
伏流森。
雲の下の大陸。
行きたい場所はある。
「いつ?」
アカリが訊く。
「明日!」
ルゥの工具箱が飛んだ。
白旗で受ける。
「何で!」
「帰還門の修理!」
「ザンバ!」
「俺は屋根だ」
「ナギ!」
「連標網の点検」
「アカリ!」
「配達」
「俺だけ空いてる!」
「像の訂正板」と全員。
「仕事があった!」
予定欄へ書く。
――英雄像、説明板。
――帰還門、弁償。
――旅の報告会、三日。
――旧薬師橋記録棚、確認。
――未定。
「最後の未定、いる?」
「次を決める場所!」
「誰と決める?」
「俺!」
アカリは筆を止める。
カナタも気づく。
第一歩号。
ルゥ。
ナギ。
ザンバ。
次も同じ船へ乗るとは、誰にも聞いていない。
「……みんな」
「いつ聞く?」
「今!」
機巧小屋へ走る。
ルゥは新しい机を作っている。
「次、どこへ行く?」
「今、机」
「そのあと!」
「決めてない」
「第一歩号は?」
「修理する」
「出る?」
「帰還式を見てから」
響路台へ。
ナギは十個の鈴を調整中。
「次、どこへ!」
「トマリギ島へ一度帰る」
「いつ!」
「連標の引き継ぎが終わってから」